22 定内屋敷跡  彦部字定内


国道456号線と県道大迫線の分岐点から国道456号線を正養寺方面に約200m程の道路沿い両側に、明治時代まで中野吉兵衛の家臣十数名が居住していた。「士族屋敷」とか「城内小路」とも呼んだ地域である。

寛永6年(1629)、南部家盛岡藩重臣中野吉兵衛3代目元康(天正時代の九戸左近将監政実の末弟康実の後裔)の時に、志和郡彦部村に97518合の替え地を賜り、通称「定内屋敷」に十数名の家臣団を住まわせ、普段は文武の修養を行わせるとともに「定内屋敷」の南北に枡形を置いて、大迫方面、稗貫郡新堀方面の通行人の検問を行ったようである。

明治初年前は、主家中野家から家禄を食んでいたのであるが、明治2年(1869)、盛岡藩主が白石に転封と同時にこの陪臣は禄を失い帰農した。その後この方々は明治29年士族に列した。

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