58 烏八臼の碑(うはっきゅうのひ) 大巻字花立 高金寺境内


烏八臼の碑は、元は高金寺境内の入り口、屋号福堂の近くにあった。境内にあった紫波町火葬場が移転した後が駐車場に整備され、駐車場北側に13基の石碑群が移転された。向かって左から5基目が、この烏八臼の碑である。

烏八臼の碑(うはっきゅうのひ)の文面から見れば両親の供養のために建てられたもののようである。建設されたのは宝暦5年(1755)である。

平師行とは、平清盛の孫に当たる。しかし、師行の父清定は、実は大外記中原師元の次男であったが、平清盛の養子となった。式部丞、尾張守。攝州(兵庫県)一ノ谷において源軍に討ち取られた。

師行は平家から中原家の伯父師尚(太宰大弐對馬守大炊頭大博士外記正四位下局務)の養子となった。師行は、助教正(従)五位下。烏八臼の碑文は、一ノ谷で戦死した父清定と母の供養のための詞と思われる。

次に朴農については、石碑建立(宝暦5年亥年(1755)当時、朴吉左衛門(八重樫吉左衛門、宝暦10年(1760)没・治吉堂)は百姓であった。「高金寺由来記」に見えるように、肝入を務めたり、高金寺の諸事に関係している時期にあたり、この石碑建立に関わったのではないかと推定される。

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