50 河村館跡(大巻館跡) 大巻字花立 紫波町指定文化財


「河村館跡」であるが、紫波町大巻字花立の、集落の中心の北東に位置している。昔館山といっていた。標高179mの山城で、城山(高水寺城跡)から南東に2km半隔った所にある。鎌倉時代からの館跡であり、館主は河村秀清と伝えられる。

文治5年(1189)に起った、鎌倉幕府源頼朝将軍が全国平定を狙って奥州を制覇する目的で平泉藤原氏を征伐するため鎌倉を出発して北に向って来た。

当時の平泉藤原氏の当主は泰衡、鎌倉の動きを察知し、福島県北、国見(伊達郡国見町大木戸)の阿津賀志山で、この鎌倉軍を喰い止めようと、二重の空堀と三重の土塁の長さ4kmにわたる防塁(昭和56年、「阿津賀志山防塁」として国の史跡指定)を築いて防戦した。しかし3日間の激戦の末、鎌倉軍が勝利、泰衡の兄国衡等はここで討取られたが、泰衡は北へと敗走した。

この阿津賀志山の合戦が事実上の勝敗を決した。鎌倉軍の大勝利で、平泉藤原氏が滅亡することとなったのである。

ここで先駆けの手柄を立てた川村千鶴丸(秀清)が、岩手郡の北上川東部と紫波郡の東部数郷を頼朝から拝領。大巻に館を築き本拠地とした。河村館(大巻館・館平・大正園ともいう)はその史跡である。

川村氏、大巻氏、栃内氏、江柄氏、乙部氏、大萱生氏、手代森氏、玉山氏、日戸氏、渋民氏、下田氏、川口氏、沼宮内氏等は皆川村秀清の末裔で河村党と呼び、鎌倉期は紫波郡、岩手郡に勢力を張った。因みに、同族は皆、家紋は丸に違い棒、名前に「秀」の字を使っている。

室町幕府足利尊氏将軍から命を受けた足利氏同族の斯波氏が奥州管領として、高水寺城に着任すると河村党は次第にその勢力が低下し、やがて斯波氏の配下に下った。

天正16年(1588)8月、南部信直が斯波氏を攻撃し、斯波氏は高水寺城を捨て、山王海から秋田方面に逃亡した。その後川村一族は南部氏に仕えるようになった。

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