72 赤石渡船場跡  大巻字桜田


渡船場跡は、星山と大巻間の赤川が北上川にそそぐ川口、大巻側の岸に位置する。

赤石渡船場はいつ頃から始まったか詳しい記録が無いが、中世の頃からあったのではないかと思われる。対岸の志賀理和氣神社(創建1200年以前という)への参拝の道であり、赤石の樋爪館(平泉藤原氏同族)の街並みが対岸に拡がっていたらしく、そこへの通行が必ずあったことであろう。東側には大迫街道が繋がり、佐比内・赤沢には金山が多く、その関係の往来もあったことが考えられる。

藩政時代になると『盛岡藩家老席日記』にしばしば記載されているので極めて重要な交通機関であった事がうかがえる。

郡山(日詰町)を起点とする大迫街道を結ぶ赤石渡船場は、人の行き交いや物品の流通、延いては経済の興隆の上で重要な交通方法。又志和稲荷神社への参拝の道でもあった。

明治23年(1890)、東北本線が開通し、日詰駅への道であり、乗船の人が増加した。以後、昭和40年(1965)代まで通勤通学には欠かせないとても大事な渡船場であった。昭和25年(1950)当時1300人、昭和46年(1971)130人だったという。

馬舟は長さ約8間、幅約7尺、深さ約15寸で、大正末に廃止された。客舟は長さ約4.5間、幅約4尺、深さ約15寸で、両舟縁にバランスを取るように腰かけた。

船頭は棹本で漕いで渡した。正に名人芸というべき技で、相当な洪水や嵐、厳寒の朝でも越してくれた、利用者にとってとてもありがたい渡船場であった。

昭和29年(1954)当時の渡船場を利用した通勤通学者は約30名位で、行きと帰りに必ず利用した。その外の渡船客も結構多かった。しかし、次第に自転車、バイクで通う者が増え、更にバスを利用する者、はては自家用車の普及と交通方法が変わってきて渡船場の利用者がどんどん減少していった。そして船頭の老齢化、後継者がなかったことなどから、昭和49年(1974)331日を以て赤石渡船場は廃止された。

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