54 養竜山高金寺 大巻字花立


曹洞宗高金寺は、戦国時代(1505)、正法寺(奥州市水沢)の曹叟天渓大和尚(正法寺輪住99世)が建立した仏堂にはじまった。

高金寺の開基は、川村氏の花嶺春公大姉。現在位牌を残すのみで、詳細不明であるが、鎌倉期以降、この地を領有した川村(河村)氏ゆかりの人物とみられる。

中世の頃、大巻館を本拠とする河村氏が紫波郡、岩手郡の河東を支配していた。室町幕府足利尊氏将軍から、同族の斯波氏が奥州管領に任じられ、高水寺城に入ってから、河村党の勢いが衰え、斯波氏の配下となった。

高金寺は、開山の地は、山居沢。後に川村氏の大巻館下の小玉根・達磨堂付近に移転。当初の瀧浦高吟庵から興金庵、高金寺と寺号が変った。当時興った金山に因んだとみられる。現在地に移転したのは、元禄11年(1698)。現本堂が建立された。

高金寺には、達磨堂の本尊、玉眼入りの古い達磨像があり、運慶の作と伝えられる。達磨像の両親指がない。昔達磨堂に2体あった達磨同士が喧嘩をし、指を折られたということである。達磨像の側に古びた錫杖がある。時に湿気を帯び座像の膝下は露滴を結ぶ。尊像が村内を巡錫され朝露に濡れたるものなりとのいい伝えがある。

屋号長沢尻・野村家の墓地には、野村胡堂・ハナ夫妻・長女淳子(あつこ)・長男一彦の墓もある。また山門前に野村胡堂の句碑「草枯れや 蟷螂の陣 蛇の閨」が建っている。なお、野村益太郎・洋観親子の墓があり、略歴の碑が建っている。

野村益太郎は、日詰町生れ。盛岡中学校、東京第一高等学校を経て東京帝国大学動物科へ進んだ。北海道大学農学部助手、東北帝国大学生物学教室、米ハーバード大学留学、理学博士となった。東北帝国大学教授。15年間ミミズの趨光性の研究を続けイトミミズを発見「ハツタイ・ノムラ」。昭和天皇にもご進講した。俗称ミミズ博士。

長男洋観は、東北帝国大学理学部を出て、金属研究の学者として活躍した。

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