88 達曽焼跡


この瓦の発見により、屋号五兵エドの瓦が「達曽焼」であったことが判明した。   屋号五兵エドは、明治二十七年(一八九四)の建築であるので、明治二十七年に与三松が焼いて、屋号五兵エドに売り、与三松は記念に、一枚だけ自分の名前を刻んだ瓦を作ったらしい。当時瓦は、高価で貴重なもので、瓦を使う家はめったになかった。

与三松には一という子供があって、明治三十二年(一八九九)に星山小学校を卒業した。

その後、与三松らは、明治四十二年(一九〇九)に矢巾へ移り、星山での焼物は終った。