101 餓死供養の碑 犬吠森字間木沢地内


字間木沢の国道456号線と大地町から北上する町道の交わる三叉路の北上川畔、遠山方面から流れてくる小川に架る橋の北の北上川に降りる土手の下の藪の中に現存する。「餓死供養□」天保3壬申(1832)7月吉日、と碑の両側面に刻まれている。碑の根元が埋まっているので読みとれない部分があるが、多分「塔」あるいは「碑」の文字があると思われる。

梵字はキリ―クで阿弥陀如来を表わす。「南無阿弥陀仏」を唱えることによって死後極楽浄土に行けるという浄土教の教えがある。

大迫道渡船場跡の近くであり、川から上った遺体か、餓死して行き倒れた遺体を埋葬、供養したものであろうか、よく分からない。

江戸時代に多い餓死供養塔など飢饉にまつわる石碑は実は疫病の犠牲者も含まれるという、説もあるようである。

志和地区の沢田 願円寺参道に「天明 餓死供養」、新山神社参道登口に「飢渇死者無縁供養塔」がある。

因みに、天保3年前の凶作の状況は、文化10年(1813)6月冷気が甚だしく稲の生育が停滞、8月29日、岩手山のふもとまで雪が降り、山王海・砂子沢部落には霜があった。また、文政8年(1825)春中雨降り続き、4月28日大霜の被害。6月25日岩手山に雪が降った。7月10日頃より、志和通の山際で稲の出穂を見たが黒穂が多かった、という。

高金寺・正音寺・勝源院の天保3年の死者埋葬数は60人(内高金寺は12人)。

天保3年以前10年間の3寺院の1年間の平均埋葬数は57.2人である。(内高金寺は9.1人)

参考として、天明4年(1784)の3寺院の死者埋葬数は、519人であり、その内高金寺は94人とだんとつに多かった。