102 承慶橋跡 犬吠森字間木沢


現在、紫波東部土地改良区の彦部第一揚水機場の1寸上流に承慶橋の橋脚跡の巨岩が北上川の中に2か所残っている。橋の名を「昌慶橋」とも書いたらしい。

承慶橋は犬吠森字間木沢の北上川岸から対岸の城山麓に通ずる交通機関として北上川に架設した橋であった。

この橋は第38代南部家第12代盛岡藩主利済公の時代、弘化元年(1844)藩主が志和稲荷神社参詣の際郡山駅を経て長岡の八坂神社にも参詣するので架設したものと伝えられる。よって御成橋と称された。日詰の金子七郎兵衛の祖先が工事の奉行を承ったと伝えられる。安政元年(1854)614日の大洪水で流失したと伝えられているが、藩主利剛の時代に取り払ったものとも伝えられる。今なお川の中に当時の橋脚に使った巨岩が残っている。

因みに、『南部史要』に第12代藩主利済公は奢侈を好み盛んに工事を起こし、種々の建築をなし、特に津志田に遊郭を新築して江戸吉原の面影を映し、志和稲荷街道を設け、鉈屋町より郡山の新道を設けるなど皆この藩主の時代である。しがってその費用莫大で尋常の方法ではこれを補うことが困難なので勘定奉行等各地に出張して過分の御用金を命じた。また第14代盛岡藩主南部利剛の時代に華美なる大奥の新御殿を破壊し、志和の承慶橋を取り払い、河東の新道を廃止し、津志田の遊郭を禁止したとの記事がある。

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