47 彦部中学校跡 大巻字上山
47 彦部中学校跡 大巻字上山
戦時中国民学校高等科(2年制)であったものが、昭和22年(1947)4月1日、彦部村立彦部中学校(新制で3年制)が設置された。金田一忠男初代校長。2教室が足りず、北溜りを二つに仕切って中学校の教室に充てた。かつ、戦後児童生徒が急激に増え、彦部小中学校の校舎が手狭となり、彦部中学校の独立校舎の必要に迫られ、総経費750万円、起債140万円、国庫補助84万4360円、寄付金350万円(未納85万円)、立木売却151万円、総計約725万円。大巻字上山へ新築、昭和25年(1950)11月25日、落成式祝賀会が行われ、12月25日新校舎への移転式、生徒がそれぞれ椅子をもって彦部小学校を後にした。彦部小学校の在校生全員で、中学生の行列を見送った。
戦時中国民学校高等科(2年制)であったものが、昭和22年(1947)4月1日、彦部村立彦部中学校(新制で3年制)が設置された。金田一忠男初代校長。2教室が足りず、北溜りを二つに仕切って中学校の教室に充てた。かつ、戦後児童生徒が急激に増え、彦部小中学校の校舎が手狭となり、彦部中学校の独立校舎の必要に迫られ、総経費750万円、起債140万円、国庫補助84万4360円、寄付金350万円(未納85万円)、立木売却151万円、総計約725万円。大巻字上山へ新築、昭和25年(1950)11月25日、落成式祝賀会が行われ、12月25日新校舎への移転式、生徒がそれぞれ椅子をもって彦部小学校を後にした。彦部小学校の在校生全員で、中学生の行列を見送った。
丘の上の真新しい新校舎彦部中学校は輝かしく、村民の誇らかな校舎であった。爾来昭和35年(1960)3月31日、彦部中学校廃止までの約10年間使用され、卒業生834名を送り出した。
丘の上の真新しい新校舎彦部中学校は輝かしく、村民の誇らかな校舎であった。爾来昭和35年(1960)3月31日、彦部中学校廃止までの約10年間使用され、卒業生834名を送り出した。
その間に、昭和30年(1955)4月1日、1町8か村が合併、紫波町が誕生した。紫波町の中学校を昭和31年度(1956)、紫波第一中学校(中央部)・第二中学校(東部)・第三中学校(西部)と改編されることになり、彦部中学校は紫波第二中学校に統合されることになった。
その間に、昭和30年(1955)4月1日、1町8か村が合併、紫波町が誕生した。紫波町の中学校を昭和31年度(1956)、紫波第一中学校(中央部)・第二中学校(東部)・第三中学校(西部)と改編されることになり、彦部中学校は紫波第二中学校に統合されることになった。
昭和35年(1960)4月1日、紫波第二中学校設立。建設にかかるが、校舎完成まで、彦部中学校の校舎を、昭和37年(1962)3月まで使用された。
昭和35年(1960)4月1日、紫波第二中学校設立。建設にかかるが、校舎完成まで、彦部中学校の校舎を、昭和37年(1962)3月まで使用された。
平成13年(2001)3月31日付、彦部中学校史編纂委員会編、紫波町彦部公民館発行で『彦部中学校史』を刊行した。その残金で彦部中学校跡の石段の下に、「彦部中学校跡」の石碑を建立した。揮毫は、当時紫波町教育委員会教育長川村秀彦氏。
平成13年(2001)3月31日付、彦部中学校史編纂委員会編、紫波町彦部公民館発行で『彦部中学校史』を刊行した。その残金で彦部中学校跡の石段の下に、「彦部中学校跡」の石碑を建立した。揮毫は、当時紫波町教育委員会教育長川村秀彦氏。
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