― 国鉄20系から生まれた走る迎賓館 ―
昭和33年(1958年)、国鉄は戦後初の本格的な特急寝台用客車として20系を登場させました。
それまでの旧型寝台車とは一線を画す流線型の外観、冷房完備、固定編成方式などは「走るホテル」と呼ばれ、夜行列車の新時代を切り開きました。
この20系ブルートレインの成功が、のちに「ずいほう」を生み出す土台となります。
昭和39年(1964年)、東海道新幹線「ひかり」が開業し、東京オリンピックが開催されました。
日本は世界に向けて高度経済成長の姿を示し、鉄道もまたその象徴となりました。
このとき、国鉄は新幹線と並んで“日本のおもてなしを体現する国際的な夜行列車”を求める声を受け、20系を基にした特別編成の構想を温め始めます。
昭和45年(1970年)、大阪万国博覧会が開かれ、「人類の進歩と調和」というテーマのもと世界中から賓客が訪れました。
この国際的祭典に合わせ、国鉄はついに豪華寝台超特急「ずいほう」をデビューさせます。
全車A寝台の贅沢な編成に加え、食堂車ナシ20と、グランドピアノを備えたサロンカー「ラウンジ月凰」を連結。夜にはクラシックやジャズの生演奏が流れ、最後尾の展望室からは夜景を楽しむことができました。
まさに「走る迎賓館」の名にふさわしい列車でした。
「ずいほう」の名は瑞鳳=吉祥を表し、鳳凰と満月を組み合わせたエンブレムがその姿を象徴しました。
昭和30年代に誕生した20系が国鉄の技術革新の象徴だったように、「ずいほう」はその集大成であり、昭和40年代の日本が世界に示した文化的結晶だったのです。
昭和33年(1958) 20系ブルートレイン誕生。「走るホテル」と称される。
昭和39年(1964) 東京オリンピック。東海道新幹線開業。「国際的な夜行特急」構想が芽生える。
昭和45年(1970) 大阪万博。「寝台超特急ずいほう」運転開始。豪華さと国際性で注目を集める。
昭和40年代後半 定期運行化。「ラウンジ月凰」のピアノ演奏と全車A寝台で人気を博す。
牽引機 EF60 500
9 カヤ21
8 ナロネ20 A1ルーメット10 A2コンパートメント4 18名
7 ナロネ20 A1ルーメット10 A2コンパートメント4 18名
6 ナロネ20 A1ルーメット10 A2コンパートメント4 18名 54
5 ナシ20 食堂
4 ナハ21 ラウンジ バーカウンター グランドピアノ
3 ナロネ22 A1ルーメット6 Aプルマン16 22名
2 ナロネ21 Aプルマン28 28名
1 ナロネフ20 Aプルマン24 展望室 24名 74
編成定員128名
満月が山影を縁取るころ、寝台超特急「ずいほう」は北へ向けて速度を上げていた。濃紺の編成の中央、「ラウンジ月凰」では今宵のハイライト――グランドピアノのサロン・コンサートが始まろうとしている。
私は旅と鉄道の記事を書いている雑誌記者だ。取材の名目で乗車しているが、胸の内は単純に浮き立っていた。全車A寝台の贅沢、ナシ20のディナー、そして月光の下で聴くピアノ。こんな夜が何度あるだろう。
ステージ前の壁には、「ずいほう」の円形エンブレム――金の鳳凰が満月を背負う図案――が掲げられている。
照明が落ち、拍手。黒いドレスのピアニスト・九条玲子が微笑み、ドビュッシーの《月の光》がラウンジを満たした。
音が柔らかく、低音がほんの少し丸い。私は耳を傾けながら、ふと違和感を覚えた。蓋は全開、譜めくりの青年が九条の左肩の後ろに立つ。青年は、曲の切れ目ごとに小さく手袋を整える癖があるらしい。白手袋の甲が、月の光を掬って一瞬だけきらめいた。
二曲目の終わりで、九条が囁く。「失礼、少しだけ…」。彼女は椅子から立ち、譜面台を直し、低音域の弦を覗き込む。ピアノに詳しい者なら気づくだろう。さっきから、低音弦の共鳴がどこか鈍いのだ。だが彼女は何も言わず、三曲目、ラフマニノフ前奏曲の重い和音へ身を投じた。力強い打鍵がラウンジを揺らし、グラスの脚が震えるほどだ。
そして、アンコールの拍手が渦を巻いた瞬間だった。ざわめきが悲鳴に変わる。壁面のエンブレムが、消えていた。
「盗難です!」車掌長の声が響き、ラウンジの両出入口に乗務員が立った。列車は走行中、外へ逃れる術はない。
つまり、犯人はこの車内にいる。
*
第一に確認されたのは、ラウンジ裏のサービス通路とスタッフ用扉。施錠は生きており、合鍵は車掌長とバーテンダーの相良が所持。二人の所在は乗客が見ている。壁面の取付痕には新しい擦り傷。ネジは外され、消えている。
「工具は?」
「普段はここです」相良がバーカウンター下を開ける。整然と並ぶ工具のうち、小ぶりなプラスドライバーが一本だけ見当たらない。
ピアニストの九条は唇を噛んだ。「演奏中、背中で気配は感じました。でも、皆さまがご覧のとおり、私の視線は鍵盤に…」
私はピアノの側板に身を寄せ、さっきの鈍い低音を確かめた。試しに最低音に近い鍵を一つ鳴らす。――やはり、音にヴェールが掛かっている。
車掌長が昂ぶる声で言う。「停車後すぐ警察に…」
「停車まで待つ必要はありませんよ」私は言った。
「鳳凰は、ここにいます」
一斉に視線が集まる。私はピアノの譜面台をそっと外し、譜めくり台の陰、譜面棚の背板の隙間に指を入れた。硬い感触。持ち上げると、薄い金属の円盤が現れた。――エンブレムだ。小型とはいえ重量がある。これをラフマニノフの轟音に紛れて、誰かがここに滑り込ませたのだ。
「どうして分かったんです?」相良が目を丸くする。
「低音が鈍ったのは、響板の手前に重量物を潜り込ませたから。譜面棚と響板の隙間に異物があると、共鳴が落ちるんです。九条さんが気づいたのはそのせい」
私はラウンジを見回した。「では、誰がどうやって?」
*
容疑者は三人に絞られた。
一人目はバーテンダーの相良。工具の管理者で、演奏中もカウンターに立っていた。
二人目は譜めくりの青年・牧野。ステージ脇に在り、壁とピアノの間に最も近い。
三人目は**“万博関係者”を名乗る紳士・阿久津**。前列で熱心に聴き、アンコールの直前に「少し水を」と言ってカウンターへ回り込んだ。
私は三つの事実を指摘した。
第一に、ネジ穴だ。壁面の取付痕には傷があるのに、床には金属粉が落ちていない。もし演奏の合間に外したなら粉が落ちるはずだ。
第二に、匂い。外したネジの座に、うっすらニスのような匂いがあった。接着ではなく、ネジ止め剤を柔らかくする溶剤を使ったなら、短時間で静かに外せる。
第三に、白手袋。牧野の手袋の甲に、ほんのわずかな金色の粉が付いている。彼は演奏中、何度か手袋を直した。
「でも、僕は譜めくりで両手が塞がって…!」牧野が声を震わせる。
「譜めくりの仕事は片手ですむことが多い。それに、あなたは九条さんにラフマニノフの前奏曲をアンコールに勧めた。“大きな音で盛り上がる曲がいい”と。大音量の最中なら、金属の擦れる小さな音も紛れる」
阿久津が割って入る。「待ちたまえ。私はカウンターで水を受け取っただけだ。工具にも触っていない」
「ええ。あなたは“触っていない”のがポイントです。工具は演奏前に一本抜かれていた。相良さん、あなたは仕込みでバックスペースとラウンジを何度も往復している。その時に気づけなかった」
「つまり、盗ったのは…」車掌長が息を呑む。
私は牧野に向き直った。「あなたです。譜面台の影に体を滑らせ、左手でネジを外してエンブレムを抱え、譜面棚の隙間に差し込んだ。アンコールの打鍵に合わせて。それから“水”を所望した阿久津さんに視線を集め、視界を攪乱した」
牧野は蒼白になった。「証拠は…?」
「匂いですよ。あなたの水筒からは、微かなセルロース系溶剤の匂いがする。喉の乾きを訴え、何度か飲んでいたが――それは“溶剤臭”を隠すためじゃないですか。ついでにもう一つ。あなたは譜めくりの合間、やたらとペダルの踏み代を覗き込んでいた。ピアノの下に潜らないと、譜面棚の奥には手が届かないから」
九条がゆっくりと立ち上がった。「どうして――どうして、そんなことを?」
牧野は肩を落とすと、やがて小さく笑った。「万博の年に生まれた僕には、鳳凰は幸運の印なんです。どうしても手に入れたくて…愚かでした」
相良がため息をついた。「鳳凰は、飛んで行かないほうが似合う。ここで、皆の前で輝くためのものだ」
車掌長は淡々と言った。「次駅でお話を伺います。ただ、その前に…」
九条が黙ってピアノの前に座った。誰も言葉を発せず、彼女は静かに《月の光》の冒頭を弾いた。今度は低音がよく響く。鳳凰が壁に戻り、音が自由になったのだ。窓外では、満月が川面を滑っていく。
ラウンジ「月凰」は、音と静けさを取り戻した。
*
夜明け前、最後尾ナハネフ20の展望室に移ると、空が群青から薄明へ溶けていくところだった。私は手帳を閉じる。事件は小さく、傷もまた小さい。けれど、“走る迎賓館”の誇りは守られた。
車掌長が微笑む。「記者さん、記事のタイトルは?」
「そうですね――『月と鳳凰のための前奏曲』、なんてどうでしょう」
やがて「ずいほう」は減速し、朝のホームへと滑り込む。金の鳳凰は壁に戻り、ヘッドマークは先頭で白く息をしている。誰もが少しだけ眠そうで、少しだけ誇らしげだった。
〈了〉