(5)「自然の摂理」と「人情の機微」への感受性が“心の大きさ”
矛盾だらけの不可思議な人間社会の中で、こころ豊かに幸せを感じながら生きていくには、自然の摂理の素直さ偉大さと人情の機微をどれだけ深く心に感じとることができるかによって違ってくる。「自然の摂理」と「人情の機微」を感じ取る力、感受性が高まるにつれて、こころにゆとりができ、ちっぽけな人間にやすらぎをもたらすと同時に大きな包容力を持たせ、人の気持ちの分かる“心の広い人間”になれる気がする。
『国家の品格』の著者藤原正彦氏は「自然が偉人を育てる」といい。空海は、讃岐の自然に育てられたという。それは、人間とは何かを考えていた空海が自然から多くのことを感じることができる感受性の高い人間だったからであり、空海が自然の息吹、それが作るなんともいえない美しさに何も感じない人間であったら、空海は生まれなかったと思う。
人情の機微と自然の摂理や美しさを理解する力がなく、ただ競争社会を生き抜くための利己的生活や欲望のままに生きていては、人間として生きているとはいえない。どんな状況にあっても、こころにゆとりを持ち、人情の機微と自然の摂理に思いを寄せ、人間の心を亡(うしな)うことのないようにしなければならない。また日本人の心に宿る江戸後期から明治の生活様式についての渡辺京二著『逝きし世の面影』に「人生の意義は名声や栄達を求めることにはない。四季の景物、つまり循環する生命のコスモスのうちにおのれが組みこまれることによって完結する生――それをこの時代の人はよしとしたのである」とある。競争よりも共生。そして生を楽しめる社会。これひとつの理想かもしれない。
平安なこころは、「自然の摂理にひれ伏せ!道理に倣え!」でもたらされると思う。
『超訳 ニーチェの言葉』で、人が円熟してくると若い人が見向きもしないような本物や真理の深みを好んで愛するようになるのは、「真理が最高の深遠さを単純なそっけなさで語っていることに気づくようになるからだ」といっている。それは年をとるとより深く人生の意味や死を考えるようになるからだろう。その領域に近づいて、やっと“真・善・美」を考える資格を得たことになる。
琴線(微妙な心情)を読む
(2)人生の目的・価値、幸福観で、EQ(こころの知能指数)の重要性を述べた。本来人間が持って生まれた仏性の発揮度が、EQの高低に関係するのだが、人間に関心を持つこと、人間のどうしようもない特性、善と悪の共存する人間を肯定し、そのどうしようもない人間に関心を持つことでEQは高まる。『君たちはどう生きるか』で吉野源三郎は、「人間は、自分自身をあわれなものだと認めることによってその偉大さがあらわれるほど、それほど偉大である」と、自分たち人間は未熟だと認める者が偉大なのだという。
善悪共存が人間であるということ。お互いに価値ある人生を生きようとしている人間が、他人を不幸にしたり、危害を加えることは許されないが、それ以外をも許せなければ自らを否定することになる。
窮地にたって世間を学び、人間として大きくなるのは、人間として正しい道を歩もうとしている利他の志を持つ人間にのみに与えられる特権であり、「正しい道義に従って行動する能力を備えたものでなければ、自分の過ちを思って、つらい涙を流しはしない」(『君たちはどう生きるか』)し、そういう人が、悲しいことや辛いことにあうことで、人間がどういうものであるかの理解を深め、物事の本質を洞察する力、しっかりした考えをもつ見識ある人間になれる。そして「悲嘆のなかから、人ははじめて人生の深さを知り、窮境に立って、はじめて世間の味わいを学びとることができるのである」(『道をひらく』)。
悲嘆や逆境で人は人として育ち、正しい道を歩む意志のある人間になれる。私利私欲ゆえに窮地に立たされた者の試練は、人間としての大きさには何ら寄与しないのである。人生を人間として正しく生きようとする考えを持っている人のみ喜怒哀楽の中に人生の楽しみを見つけられるのであり、意義ある人生を送ることができるのである。一人ではできないこと集団で成すために人間が集まる組織のリーダーに、人の痛みの分かる人間が望まれるのは、この理由からである。
自分自身をあわれだと認め、人として正しく生きようとした人間が、苦境に立たされることによって、特に他者によって苦しみをもたされることによって、他人の痛みが分かり、人間のこまやかな人情が読め、人を愛せる人間になる。それが理解できる境地に達した人は、言葉に表さない部分で、人の心を知る。そのような人間同士が、命をかけて自分を信じてくれた友を救うために、三日間走り続け処刑の場に戻っていく太宰治の『走れメロス』にあるように、“こころの絆”で結ばれるのだろう。山本周五郎の『おさん』『柳橋物語』『さぶ』・・・の世界である。
「人間は、どれほど具体的に役立つかによって価値がきまるものではない。何よりもその存在のしかた、その中でもとくに情緒面のありかたが、人格の存在意義を決定するたいせつな要素の一つであると信ずる」(『新版 人間をみつめて』)や「言葉には何も意味もない。人間に意味があるだけだ」(コリン・ターナー)、のである。
これを拠り所に、自分は、神戸時代に中学の野球仲間に言われたこと――「意志道は、まわりの人を喜ばし、元気にさせる奴だ」――がこころに刺さり、“人としての道を外さず周りを楽しくさせることを基本として、他者や社会に少しでもいいから何らかの貢献をしよう”と思っている。妻からは、言行不一致の指摘を度々受けるが、その都度“言行一致すれば、仏様になる”と答えている。「言うは易く行うは難し」。及ばずとも意志の道を人情の機微を味わいながら歩みたい!
人情の機微を味わう・・・女流歌人俵万智の『サラダ記念日』から心温まる一首を記す。
「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ/(『サラダ記念日』)
こんな小さなあったかさのある人生がいい。
自然の摂理に学び共に生きる
松下幸之助は『道をひらく』の中で、「春になれば花が咲き、秋になれば葉は枯れる。草も木も野菜も果物も、芽を出すときには芽を出し、実のなるときには実をむすぶ。枯れるべきときには枯れていく。自然に従った素直な態度である。
そこには何の私心もなく、何の野心もない。無心である。虚心である。だから自然は美しく、秩序正しい。
困ったことに、人間はこうはいかない。素直になれないし、虚心になれない。ともすれば野心が起こり、私心に走る。だから人びとは落着きを失い、自然の理を見失う。そして出処を誤り、進退を誤る。秩序も乱れる」という。
人間が人間らしく生きるということは、どういうことだろう。移動できない生き物である植物も動ける動物も自然の摂理を守る。植物は移動できない中で、人間を含む自然界のすべてと共存し、他の木や枝に光が当るように自らの枝振りを調整し、仲間を想う。動物も同じように、種を滅亡させるような無駄な殺生、争いはしない。しかし、万物の霊長である人間は、意識を持つことで他と争い、無用な殺傷をする。それが矛盾だらけ人間が集団生活をはじめた一万年以上から今も続く人間の悪しき特性である。その悪性を完治することは不可能なのだが、和らげるための思想、宗教などが生まれた。
「ルソーの『エミール』を見ると、自然ほどよい人間の教育者はいないと考えていたことがよくわかる。自然の中に放置され、自然に教育されると、自然の摂理、自然淘汰のきびしさ、野性味、人間的温かさ、人間的感情の重要さを自然と学び取ることができる、とルソーはいう」(『人間の魅力』)。それは、人情の機微、自然の摂理への感受性を養うこと、自然の中で共に生きるという意識が、精神的な豊かさを持たせ、人生を幸せに生きる極意であることを想起させる。
そこに至ってはじめて、美空ひばりの歌の「人生って、素敵なものですね」の境地に達する。人間社会で「人間が人間同士、お互いに、好意をつくし、それを喜びとしているほど美しいことは、ほかにありはしない。そして、それが本当に人間らしい人間関係」(『君たちはどう生きるか』)であり、物質的に先進国より恵まれていない発展途上国の子どもたちの方が、日本の子どもよりも幸せ感に満たされ、目が輝いている理由と思われる。
行き過ぎた競争社会下だからこそ、人間というものを理解し楽しみ、自然や芸術・文化に親しみ、こころにゆとりを持たせることが大切であり、こころのゆとりが、さまざまな障害に負けず幸福感を得ながら自らの目的に近づく良薬になるだろう。自然と心触れ合うことができれば、人間の心は癒される。フランクルの強制収容所での人間の真理を記した『夜と霧 新版』にあるように、生に終止符を打たれた人間が、地平線いっぱいに、鉄色(くろがね)から血のように輝く赤い夕日に魅了されるという状況を想像するだけで理解できる。