(3)「言行一致」、「良い習慣」
「言葉を信じるな、信じられるのは行動だけだ」(ポラスの原則)。言葉ではなく、行動にその人間の性格と人格が現れる。
『堺屋太一の見方』でも、「人は、言葉よりも行動に注目する方がよく、人間が声高に語るのは『建前』である。人はみな語るときには、それを聞いた相手の反応を気にするからだ。しかし、自分が行動するとなると『本音』を出さざるを得ない。だから、人の言葉――何を言っているか――よりも、人の行動――何をしているか――に注目する方がよいのである」と言っている。
あるビジネス雑誌の編集長の講演「伸びるリーダー、伸びないリーダー」を聴講した。約四千人のリーダーの取材結果として、輝いているビジネスマン、企業を成長させる優れたリーダーの共通点は、「成長への強い意志」と「高い聞く力」の二つ、とのことであった。企業が伸びるには、市場が何を求めているか、市場の変化を掴み将来に向けて確かな成長戦略を定めることが重要で、変化が激しい時代ほどお客さまの声の聞く力は益々重要になり、聞く力を持った社員がどれだけいるかが企業の盛衰を握る、という話だった。また、人間力の高い人物を見分ける方法は、沈黙に耐える力があるかどうからしい。沈黙に耐える力のある人は相手のペースに合わせられるから、有用な話を聞く事ができるが、一般的に頭の回転が速い人は沈黙に耐えられないようで、人の話を聴かない。ビジネスパーソンとしての差がこの特性差、聞く力に現れるとのことだった。
聞く力は、重要なコミュニケーション能力で、そのうち重要なのは聞く力であると、よく言われる。カウンセラーの大切な要素である。それはその人間の正しく生き抜く強い信念によってもたらされる包容力、すなわち人間力の問題なのだと思う。京セラを興した稲盛和夫さんは、大経営者になっても、自分の話の途中でも、相手の話を聞くことができるらしい。聞き役に徹する。わかってはいるが非常に難しいことだ。
講演後、講演者に三番目、四番目に重要な能力は何かを伺ったところ、三番目は「プレゼンテーション力」。四番目は「気分転換力」という返事が返ってきた。プレゼンテーション能力が重視されてきた今日、誰もが万人に受けのよいことを言うようになった気がする。政治家がその最たる者である。テレビの国会中継を見ればわかる。国会は言葉遊びの場と化し、質疑は大臣の資格審査の様相を呈し、クイズ番組を観ているようだと感じた国民は多いに違いない。抗争に明け暮れ国民のための政策が決まらない状態にある。第三の能力である“プレゼンテーション力”よりも“リーダーとして本当に大事なことは言行一致”であり、言行一致力あってのプレゼンテーション力ではないだろうか?いうことを述べさせてもらい、非常に感謝された。
講演者は「言行一致」は当然のこととして話をされたのかもしれないが、現代はプレゼンテーション重視、行動軽視の時代で、巧みに話すだけの人間が評価され、行動する人間が虐げられている傾向が進み、「有言不履行」者が恥じることなく跋扈する異常な時代だと思う。
日本の将来を考えた場合、富と権力を握ったリーダーたちが何を大切に――国民ためと自分の損得とのどちらに軸足を置いて――物事を判断し行動するかを見れば分かる。原発再稼動問題は格好の材料だ。政官財のリーダーたちの振舞いを見れば分かる。美しい日本の国土と国民の命を守る言いながら、米国、ドイツなど多くの国が原発に見切りを付け、新しい経済成長戦略として再生エネルギー開発にシフトしている中、税金を生活の糧にする官僚の恣意的なデータをもとに原発は安価で国民生活や経済のためだと言って、世界を震撼させた人災事故を起こした張本人が、事故が起これば人間の力では何もできない幾世代にわたって国土と国民の命を奪う原発の再稼動に邁進する。ただ単に、原子力村の我利我利亡者たちが原発利権を守ろうとしているだけだと思う。
実践の中に真の自己が現れる。私利私欲のリーダーたちが国の舵取りをしている日本の将来は危うい。言葉を信じるな!「判断と行動」で、リーダーを選別していかなければが日本の未来はないのである。
「巧言令色、鮮(すくな)きかな仁」的似非リーダーが社会を潰す
日本はいつから、言行不一致が横行する社会になったのだろうか。企業においては、国際化とともにプレゼンテーション能力が重視され、プレゼンテーション用ソフトの登場と相まって、1990年代、企業が揃ってプレゼンテーション技能向上の講座を開設するなど、プレゼンテーション能力が高ければ職務遂行能力も高いと評価されはじめ、プレゼンテーション能力を重視した人物評価をするようになったと思われる。
蛇足ではあるが、このことは、先進国でワースト一、二を争うホワイトカラーの生産性の低い国であることの一因でもある。プレゼンテーション用アプリケーションソフトを屈指し、社内向けの打ち合わせ程度の資料でさえも見栄えよく、プレゼンテーション能力の高さを示したいがために多くの時間を割いて意味のない装飾を加え仕上げる。しかも発表予定のない資料まで作成するという時間の無駄が日常化してきている。ドラッカーは、「会議は元来、組織の欠陥を補完するためのものである。人は仕事をするか会議に出るかである。両方を同時に行うことはできない。理想的に設計された組織とは、会議のない組織である」(『プロフェッショナルの原点』)といっており、日本は、仕事をするよりも資料作成も含めて会議のために時間を費やす時間の方が多く、会議が企業活動の中心になっているとも思えるとんでもないことが起きているようだ。しかも会議に費やす時間の多いものが考えられないほどの高給取りなのである。
“プレゼンテーション能力が高い=仕事を理解している”までは良い。新渡戸稲造著『武士道』の中に「武士の教育にあたって第一に必要とされたのは、その品格を高めることであった。そして、明らかにそれとわかる思慮、知性、雄弁のたぐいは第二義的なものとされた」とあるように、プレゼンテーション能力は一つの技量にすぎず、人の上に立つ者を選ぶ基準にはなりえない。そこをあやまっては、「口先人間」ばかりの「巧言令色、鮮(すくな)きかな仁」的人間が上に立ってしまい、国家や組織を崩壊させる。
2011年秋の民主党の党首選びにおいても多くの国民が、プレゼンテーションの内容、巧さで誰が総裁にふさわしい人物であるかを評価したのではないだろうか。国民はそうならざるを得ない部分もあるが、民主党員は何を評価軸としたのだろうか?結果は、民主主義の根幹を危うくする事態――国民の政治不信――につながるマニフェスト違反(消費税増税)、嘘をつく総裁を選んでしまった。国家の長が大嘘つきでは、昔の“嘘つきの泥棒の始まり”が“嘘つきは総理大臣の始まり”になってしまう。冗談じゃない。日ごろの言動から、どのように巧みに話すかよりも“国家、国民のための使命を果たせる人物かどうか”、“道義心と言行一致力があるかどうか”で評価・選出できるはずなのに、自分の損得で、党首を選んだとしか思えない。
昔は「不言実行」。男は黙って、、の世界である。それから「有言実行」を謳い文句に、プレゼンテーション能力で人を評価する傾向が強くなり、心地よい言葉が先行し実行が伴わなくなって、「有言実行」は、ほぼ掛け声で終わり、一気に「言行不一致」が主流になった。どのように表現すれば聴く人の心に刺さるかなどの技巧に走り、実行を伴わないプレゼンテーションが横行している。「美しい日本」「友愛」「お客様第一」「従業員が大切」という美しい言葉が躍り、国民は騙され、企業ではビジョンがただの念仏と化している。政府も企業のトップも有言不履行、言行不一致を繰り返し、それを恥とも思わない社会が出来上がった。
『論語に学ぶ』(安岡正篤)にあるように、「世に所謂名士というものは、如何にも表面では仁をとるが如く見え、世のため・人のためというような仁らしいうまいことを言うが、実際の行は、まるで仁とは違う。然も自分では一向良心の呵責もなく平然とその地位におって、うまく人心に投じ、時に乗じて、要領よく世渡りをしてゆくから、国の要職におっても、王室・大名に仕えておっても、どこでも有名になる」のである。これが社会にとって一番困る現象であり、我々は、このような人物の本性を見抜く力を磨き、国政に送り出さないようにしなくてはならない。国民の質で国の質が決まる、のである。
習慣パワーが「言行一致力」を高める
人間力の定義のうち、心の知能指数に関しては、(1)の正しく生きるための考え方、で述べた。では、実践力となる「言行一致力」は、どのような力が作用して高められるのであろうか。
道理にそった正しい考えを持ち、それを強く意識し信念をもってこれを順守し事にあたる。その習慣で正しい考えにそった「言行一致力」が高まる。
人間は弱く、私利私欲に走りやすい。また、理不尽な行いと知っていながら道理に反する行為や不正を犯す。同時に、うまく出来たもので、人間には、その悪性を正すために、人間の本性であるもう一人の自分――仏性という良心――がいて、人の道に引き戻す力が与えられている。それは克己心であり、その強弱がその人の人間形成を左右することになる。克己力は、性格によると思うが、タル・ベン・シャハー著『HAPPIER(幸福も成功も手にするシークレット・メソッド)』の中で、「あらゆる偉業が、行為ではなく習慣によって成し遂げられる」というアリストテレスの言葉をあげ、「新しい習慣の創造」の重要を述べている。すなわち自己コントロール力、克己心は習慣によって養われるようだ。
「言行一致力」も人としての道を外さない強い意志による日々の正しい行動の積み重ね、習慣によって強化されるのである。
心理学によれば、人間の行動の少なくとも90パーセントが習慣によるとのことで、「人生において或る意味では習慣がすべてである」(『人生論ノート』)や「理性でも本能でもなく、習慣と因縁でどうにでもなるのが人間なのだと思う」(『サンショウウオの明るい禅』)と、語られるほど、“習慣”の力は強大で、遺伝や幼少期の環境によって形成される性格が習慣によって変わる可能性があると、言っている。
これは凡夫にとって朗報ではあるが、怠慢なる自殺行為といわれる喫煙でさえ止められない多くの人間にとっては、相当の長きにわたって付き合った習性は、並大抵では変わらないし、ましてや持って生まれた要素が大きいといわれる性格を変えることは難事業に違いない。もしこれが簡単にできるなら、世の中は善人や賢者で溢れる。人情の機微に感動し、感涙する場面が無くなり、まったく面白味のない社会になってしまうのだが、ありがたいことに現実にそうはなっていない。まさに「万物は流転する」と考えたヘラクレイトス(紀元前およそ五四〇-四八〇年)がいうように、「善も悪も全体の中に欠かすことのできない居場所をもって、対立するものがたえずたわむれていなければ、世界はストップしてしまう」(『ソフィーの世界』)のである。世の中は良く出来ているのである。良い習慣は、難事業だからこそ、“三日坊主”という文言があり、容易には得られないからこそ、良い習慣を継続した人間は、数少ない人間として尊敬される人物になる。
一方、悪行の習慣化は、無意識に間違いを繰り返す人生を送ることを意味する。企業業績不振の打開策に経営責任を取ることなく、弱者をリストラする企業は、善悪の省察なく、詐欺者が詐欺を繰り返すごとく、同じ過ちを犯す。ささいなことであっても悪しき行為が習慣化されれば、人間の道に沿っているかどうかを省みることもで出来ず、道理に反していることすら気がつかなくなり、“悪しき人”として定着するのである。
善悪の混在があっての彩のある人間の世界なのだが、国民の多くが「美しい言葉で語るが、言行不一致」というのでは、彩りある世が、黒一色の暗黒の世になる。
善悪どちらの習慣を良しとするかは言わずもがなで、習慣の力で正しい考えに沿った行動の一致をはかり、人生最大の目的である善き人格形成“少しでもましな人間になる”を目指したいものだ。
■ 習慣のパワーについての追記
人格形成において習慣の力が強大であることは古くから論じられていた。習慣の重要性を強調する意味から、以下記す。
「アリストテレスによれば、勇気ある人格が形成されるには、単なる知識や理解の次元にとどまらず、勇気ある行為を何度も繰り返すしかない。恐怖に襲われれば誰しも足がすくんで、思わず逃げ出したくなる。だがなんらかの規範が強制力となって、あえてそこに踏みとどまって、辛いことに耐える。そうした振る舞いを反復するうちに、しだいに心の中に一種の習慣(エトス)が形成される。アリストテレスは、人柄(エートス)としての徳は情報や知識に還元されるのではなく、同種の行為が反復されて習慣となることによりはじめて身につく」(『哲学の饗宴』)、すなわち「絶えず道徳的な行動に励むことによって、道徳的に行動する傾向が身につく」(同書)のであり、人としての正しい道を毎日歩む習慣が道理に沿った言行一致を生むと言っている。なお、エトス、エートス共にギリシア語ではethosで、道徳的習慣であり、人間の性格(人柄)の両方を意味する。語彙上、習慣はすなわち性格であり、習慣が性格をつくると、言っているに等しい。それゆえに、ソクラテスは、正しくない行為の習慣化を「魂」が破壊されるというという表現で恐れたようだ。
また、スイス人でキリスト教形式主義や哲学書の論理的体系づけから離れ、ものごとの真実を重んじた哲学者、弁護士、歴史家、陸軍法務官であり、後年は政治家であったカール・ヒルティ(1833-1909)の『幸福論(第一部)』に、「人生は、安楽に暮らすためにあると考えるのと、正しい行いをするためにあると考えるのと、この違いがまず第一に、人々の間にある大きな相違である。この考え方の違いは、人々の全精神を左右するものだ。正しい行いをしようと決心する人は、次に、正しい行いをすることのできる道を見出して、最後に、正しい行いの習慣に到達しなければならない。この習慣こそはもっとも大切である。人生を安楽に暮らそうとする者にとっては、哲学も宗教も道徳も、どんなものも彼を本当の生活に導き入れることはできない。それらのものはみな彼等にとって、なんの感銘をも与えない」。さらに「どんな人間的美徳も、それがまだすっかり習慣となってしまわない限り、たしかにわが物とはいえないということである」とある。かように習慣は偉大である。
また『自助論』に以下の記述がある。習慣の重要性を再度強調したい。「古くからいわれるように、人間は習慣の寄せ木細工であり、習慣は第二の天性なのだ。『行動でも思考でも反復こそが力である』と確認していた詩人メタスターシオは、『人間においては習慣がすべてだ。美徳でさえも習慣にすぎない』とまで断言した。(中略)習慣は若いうちにほど身につきやすく、一度身についたら終生失われはしない」とある。さらに海軍将校の話として「習慣は年と共にこり固まり、それが人間の性格を形づくる。習慣を変えるのは大人になればなるほど困難だ」とし、「二五歳までに人格をみがけば、あとは順調に進む」といっている。立派な習慣を若い内に身につけるように気をくばるのがいちばん賢明なのだ。理想への道がモラルになる:自分なりに、なにがしかの理想は持っていたほうがいい。さらに、その道に至る道を若いうちに見つけていたほうがいい。「そうすれば、おのずと自分を律する気持ちが生まれ、そこから自分なりのモラルと節操が形づくられ、まともに生きていけるからだ」(『超訳 ニーチェの言葉Ⅱ』)。