(補足)安倍世襲議員政治の本質・・・オルテガ著『大衆の反逆』で援用分析
20世紀前半、全スペイン人の政治への参加運動―政治の国民化―を提唱したスペインの哲学者オルテガ著『大衆の反逆』を援用し、安倍首相が人格性欠陥の異様な言動―――法を尊ぶと言いつつ憲法を蔑ろにしたり、国民に対してのみならず、オリンピック誘致で「放射能は完全にコントロールしている」と、国際社会にも平気でウソをつく。国民に対して不誠実極まりないのに、拉致問題では北朝鮮に“誠実な対応を”と平然と言う――を恥じることなく繰り返すのか、また、自民党幹部の“デモはテロ”“ナチス発言"などが起こるのか、を探ってみた。
それは、今の自民党政権は他党に比べ圧倒的に世襲議員比率が高い(54%、民主党は22%/2010年)ことに尽きる。自民党のリーダーたちは、安倍首相を始め高村正彦と麻生太郎の両副総理、石破茂幹事長、秘密保護法や集団的自衛権行使容認に積極的な町村信孝など世襲議員の「良家の御曹司」であり、オルテガが言うところの“慢心しきったお坊ちゃん”人間だからだ。それは「自分の好き勝手なことをするために生まれてきた人間」であり、その特徴は「『甘やかされた子供』であり野蛮人に似たような、ある種の不完全な人間の在り方を想起させ」、「贅沢が人間の中に生み出す幾多の奇形のひとつである」とオルテガは言う。
因みに集団的自衛権行使容認野党のみんなの党の政調会長水野賢一も民意を軽視する身勝手な“お坊ちゃん”世襲議員である。
集団的自衛権行使容認で国民の命を危うくし、社会の崩壊につながる貧富の拡大・固定化政策を推し進める異様な政治は、既得権益の世襲を望む「慢心しきったお坊ちゃん」、奇形児世襲議員によってもたらされているのである。
集団的自衛権行使という『直接行動』は、オルテガ理論をもってすれば、「従来の秩序を逆転し、暴力を最初の手段、さらに正確にいえば、唯一の手段と宣言することで、暴力とは、いっさいの規則の破棄を提案するところの規範であり、われわれの意図とその遂行との間のあらゆる中間段階を排除してしまう規範である。暴力は野蛮の大憲章(マグナ・カルタ)」なのであり、「暴力は、ありとあらゆる手段を使い果たした人が最後に訴える手段」なのだが、平和的外交能力欠如の安倍首相は、ナショナリズムを煽り、国民の生活と命を奪う貧困対策に向けるべき財源を際限のない武力競争に使うことになる集団的自衛権行使容認――オルテガの言う野蛮の大憲章――が国民の命を守る唯一の手段として、日本人絶滅の道を進もうとしている。
特定機密保護法案で、議論をすればその狙いが反対派を圧迫し抹殺するものであることが明らかになるので、十分な論議をせず国民の声を無視し強行採決したことや、集団的自衛権行使容認に向けて立憲主義を蔑(ないがし)ろにする暴挙(国の最高法規である憲法を解釈で骨抜きにする)に出たことは、オルテガの分析――「自分の道徳的、知的資産は立派で完璧であるというふうに考え、外部からのいっさいの示唆に対して自己を閉ざしてしまい、他人の言葉に耳を貸さず、自分の見解になんら疑問を抱こうとせず、また自分以外の人の存在を考慮に入れようとはしなくなるのである。彼の内部にある支配感情が絶えず彼を刺激して、彼に支配力を行使させる。したがって、彼は、この世には彼と彼の同類しかいないように行動することとなろう。したがって、彼はあらゆることに介入し、自分の凡俗な意見を、なんの配慮も内省も手続きも遠慮もなしに、つまり『直接行動』の方法に従って強行するであろう」――は、集団的自衛権容認に向けた安保法制懇メンバーやNHKの籾井勝人会長、NHK経営委員の作家百田尚樹、長谷川三千子埼玉大学名誉教授など自分の意志に沿う人間を要所に送り込み、意に沿う野党を責任野党と称して抱え込むことに通じる。オルテガは、子供の心理を軸として眺めれば分かるという。
さらに『大衆の反逆』を援用展開すれば、この“慢心しきったお坊ちゃん”は、「自分の意見を断固として強制しようとする人間のタイプ」であり、「能力をもたずして社会を指導しようと決心してしまった大衆のあり方の最も明瞭な現われを見るのである。(中略)鍵は彼らのその知的自己閉塞にあるのである。(中略)彼らの『思想』が、真の思想ではなく、恋愛詩曲のように言葉に身をつつんだ欲望に他ならないという理由はここにある」という。そういえば“美しい日本”、“国民の命と生活を守る”“法を尊ぶ”“被災者に寄り添う”“非戦の誓い”等々恋愛詩曲を詠い、独占的利権維持のために原発の再稼動を画策し、武器輸出で新たな利権確保に動くなど、まさに安倍首相そのものだ。
第一次安倍内閣が倒れた理由もオルテガを援用すれば説明がつく、それは「最良の共存形式は対話であり、対話を通してわれわれの思想の正当性を吟味することであると信ずることに他ならないのである。しかし大衆人がもし討論というものを認めたとすれば、彼は必然的に自己喪失に陥るであろう」と、精神的におかしくなって辞任したのだ。そして、ゾンビの如く生まれた第二次安倍政権では、“討論の息の根を止めよ”と、「普通の会話から学問を経て議会にいたるまで、客観的な規範を尊敬するということを前提としているいっさいの共存形式(立憲主義や対話/特定機密の意見を無視)が嫌悪されるのである」。さらに「これはとりもなおさず、文化的共存、つまり、規範のもとの共存の拒否であり、野蛮的共棲への逆行に他ならない。彼はいっさいの正常な手続きをとばして、自分の望むところをそのまま強行しようとする」と二十世紀前半にオルテガは論じている。これが第一から第二次の安倍政権の流れ、政治スタイルなのであり、集団的自衛権容認に対する言動は、まさにこれだ。
「政治において、最も高度な共存への意志を示したのは自由主義デモクラシーであった。自由主義デモクラシーは、隣人を尊重する決意を極端にまで発揮したものであり、『間接行動』の典型である。自由主義は、政治権利の原則であり、社会的(パブリック)権力(・パワー)は全能であるにもかかわらずその原則に従って自分を制限し、自分を犠牲にしてまでも、自分が支配している国家(ステート)の中に、その社会的権力、つまり、最も強い人々、大多数の人々と同じ考え方も感じない人々が生きていける場所を残すように努めるのである。自由主義とは至上の寛容さなのである。われわれはこのことを特に今日忘れてはならない。それは、多数者が少数者に与える権利なのである。自由主義は、敵との共存、そればかりか弱い敵との共存の決意を表明する。人類がかくも美しく、かくも矛盾に満ち、かくも優雅で、かくも曲芸的で、かくも自然に反することに到着したということは信じがたいことである。したがって、その同じ人類がたちまちそれを廃棄しようと決心したとしても別に驚くにはあたらない。自由主義は実際にあまりにむずかしく複雑なので、地上にしっかりと根を下ろしえないのである」。極めて困難なこの道が、成蹊大学卒の安倍首相を“戦後最低最悪の首相”から“成蹊(徳望のある人のもとへは人が自然に集まる)人”に変わる唯一の道なのだが、今までの言動から判断すると“慢心しきったお坊ちゃん”世襲議員に期待するのは酷だろう。
またオルテガは、学校では、大衆に近代生活の技術しか教えず、大衆を教育することはついにできず、「大衆は、より強力に生きるための道具は与えられたが、偉大なる歴史的使命に対する感受性は授けられなかった。彼らに対して、誇りと近代的手段の力がせっかちに植えつけられたが、精神は植えつけられなかった」と論ずる。安倍首相は道徳重視を言うが、必要なのは本人なのである。人の本質的な部分は幼少期に形作られるというが、オルテガの言う“お坊ちゃま”は、人の悲しみが分かる道義心は養われなかったのだろう。さらに言えば、一つの価値観を植えつける道徳ではなく、人生哲学を自ら考えさせる教育が必要なのである。もっともこのようなお坊ちゃん大衆を生んだのは、「すぐれた少数者の指導やリーダーシップの欠如」だとオルテガは指摘している。いまの自民党に優れたリーダーがいない結果の世襲議員政権なのである。これも納得。
このように、体質的な欠陥をもった人間が支配者として君臨し、最終的な決定権をもち続けるかぎり、オルテガが言うように「そうしたタイプの人間が時代の支配的人間像になった時には、警鐘をならし、生が衰退の危機に瀕していること、つまり、死の一歩手前にあることを知らさなければならないのである」。
“慢心しきったお坊ちゃん”、すなわち世襲議員の多い自民党によって権力の世襲と国民から巻き上げた税金を既得権益層の中で回すなど国の私物化が進んでいる。そして、世界的数学者の岡潔が言うように、「この世界は自分が何をやっているのかわからいままに、原爆や原発をつくり、マネー資本主義に突き進んでいる。『人の中心は情緒である』のだから、情緒という自然への通路を失った人間は、中心を失った存在になってしまっている」(『春宵十話』)のである。この日本の危機を回避するのは、無関心でなるがままにまかせるという決断を止め、政治学者丸山眞男の言うように、人間一人ひとりが独立の人間になり、「間違ってゐると思うことには まっすぐにノーというふこと」である。
後世に生きる日本人のために、この流れを絶つという決断――「『甘やかされた子供』であり野蛮人に似たような、ある種の不完全な人間」、権力・名声・富を求めるしか生きる意味を見いだせない世襲議員が牛耳る自民党への三行半(みくだりはん)(離縁)――に変えなければならない。 補足(2014.7.1現在)完