<芸術> 芸術は、人のこころを豊かにし、楽しい気持ちにさせるものでなければならないと思う。
1)「客観と主観とが直接に合致しなければ、いき活きとした生気ある芸術は生まれない」し、「大芸術だろうと、小芸術だろうと、あらゆる芸術作品において、細部までを決定する重大なものは着想である」(『人生について―ゲーテの言葉』)。
2)以下は『「芸術力」の磨きかた』からの引用だが「芸術は各自の感性によって彩られるものですが、それは対象を観察し、考え抜いた先に発揮されるものなんです」、「芸術というのはあくまでも人間の営みであって、人間のやることであるからには、どこかに必ず破綻があるはずです。それが受け手にとって不愉快な破綻に感じられるか、味わい深い破綻に感じられるかによって、作品の価値が大きく変わってくるんだと思いますね」。芸術はその人の性格・感性が表れるようだ。今習っている陶芸でも感じている。陶芸では、破綻だらけで、その中に見事な破綻作が続けば、“破綻の陶芸家”として目標の“人間国宝”に達するかもしれない。
3)「文章でも、絵でもそうだが、くだらない作家や画家は、観光地の絵葉書みたいに、自然をそっくりそのままうつすだけで、こと足れりとしている。
反面、すぐれた作家や画家は、自然のなかに人間の悲しみや喜びを投げ入れて描く。
しかし、そのためには、常に心の奥底に「人間とは何か」「人生とは何か」という切実な問題をたえず、問い続けていなければならない。
その底流の上に、人間や人生や自然を鋭くとらえられていてこそ読むもの、対するものの胸を打つのである」(伊藤肇『帝王学ノート』)。この域への到達は気の遠くなる道程である。
4)世阿弥の『風姿花伝』には「よき所を知らねば、わろき所をもよしと思うなり。さるほどに、年は行(ゆ)けども、能は上(あが)らぬなり。これ、即ち、下手の心なり。されば、上手にだにも上慢(じょうまん)あらば、能は下(さが)るべし。いわんや、叶わぬ上慢(じょうまん)をや。よくよく公案して思え。上手は下手の手本、下手は上手の手本なりと工夫すべし」とある。なお、上慢とは、悟りを得たと思ってたかぶること。芸術は、良いものと悪いもの共に役に立つとあり、どちらも良く観察することが重要だと言っている。もっとも良し悪しを見分ける能力がなければならないが、良し悪しを考えることで高まるのだと思う。また、「年は行けども、能は上がらぬ」のところは、人生訓にも通じる。よい考えを持たなければ、歳はとっても人間性は上がらないということで、どの道であれ、芸を極めた人間は、素晴らしい考えを持っている場合が多いのは、こういうことなのだろう。また、この項の前段に「上手にもわろき所あり。下手にも、よき所必ずあるものなり」があり、凡人は救われる。