(4)より良い社会づくりに向けて……自分は、この世で何ができるか?何をすべきか?
基本的考えに沿った夢と目標を持つことは、生きるエネルギー力となる。そして、その夢や目標には、自分が生かされている社会や組織、仲間のために何ができるかという思いが入ることによって、そのエネルギーは更に大きくなる。
しかし今、多くの人間が、社会のために何をするかよりも自分自身の生活の確保や幸福感を充たすことのみに執着せざるをえない資本主義下の過度な競争社会に嵌め込まれ、人間らしさを発揮できにくい環境に追い込まれているのではないだろうか。
人道に反する不条理な出来事があらゆるところで起き、いつまでも不可思議な社会が続く。喜怒哀楽、矛盾・不条理の中に、時折光る本来の人間性を見つけ感動する社会、それが善悪併せ持つ人間というものが生きるに社会なのだが、その中で、より良き社会づくりへの貢献について一市民として我々ができる最低限の社会貢献は、人間として恥ずべき行為をしないこと、そして、自分の人生のよろしきのみを考えるだけでなく、平等の生を与えられた人間が不幸にならない社会になるように小さな善行を積み重ねること、どんなに小さな事からでもよいから社会をより良くするための行動を起こすことだと思う。
人道主義に則した“善行”励行と人道に反した行為“悪行”を正すこと。それは人道主義「人間愛を根本におき人類全体の福祉の実現を目指す立場。その手段としても非人間的なもの(たとえば残虐行為)を排斥する」(『広辞苑』)をもって、一歩一歩より善き社会に向かって行動を起こすことである。そうやって何千年もかけて先人たちがやってきたからこそ進化した今の人間社会がある。人間として生まれた以上、人道・公共のために尽くす、人間として一番大切な「仁」を発揮することだと思う。人道にそって生きようとする人間が増えれば、より良き社会が形成される。
そして日本社会の秩序を保ちつつ夢のある正しい方向に向かわせるために、政治行政への参加、公職選挙で国民としての義務を果たす――経済優先という近視眼の判断ではなく、将来の日本のあるべき姿や次世代の人のためを考えた投票をする――ことである。
社会的リーダーは、反倫理的に振舞うようになる
2012年初、アメリカの研究者が行った千人対象の調査で「社会的地位の高い『勝ち組』ほどルールを守らず、反倫理的に振る舞う」という結果が出た。社会への影響力の大きい人間ほど腐っているのだ。企業でいうなら、本来地位の高い人間ほど、仲間と共に企業ビジョンを追求したり目標達成に向けた日々の活動を通じて、従業員のため、仲間のために「何をするべきか」ということを考えて判断・行動する人間であるべきなのだが、それとは逆に、調査結果は、企業内での昇進を最重要目標に置き、昇進のためなら道理を捨てて這い上がってきた倫理観の薄い人間の多くが経営陣に上り詰めていることを示している。
このようなアメリカのリーダー層の特性は、アメリカの社会システムに追従する日本も、同様の結果になるだろうと想像されり。それは、お金(交付金)による原発推進、米軍基地移設への誘導や東日本大震災時の各地域の電力会社の経営陣の情報隠蔽、前述した2013年暮れのみずほ銀行による暴力団融資事件とそれに伴う頭取の非常識な対応など、常識では考えられない反倫理的言動を見れば十二分に納得できるし、国の行政レベルにおいても、天下り先の画策を含め国民の血税の無駄遣いや利権拡大に奔走する高級官僚や権力闘争に明け暮れ、長年叫び続けた公務員改革や経済再生など無策無能の補填を安易な消費増税で国民に転嫁する政治家たちを見れば分かる。政治家も官僚も、国民の税金から高額の生活費を享受していながら、税金の無駄遣いを放置し更に国民からの搾取を画策しているとしか思えない様相を呈しているが、改革はいつも検討開始と言うだけで、一向に進めようとしない。行政府は、まさに二重詐欺師の巣窟、伏魔殿なのである。「地位の高い人ほど反倫理的に振舞う」というアメリカの調査結果が日本も同様に起こっていること疑う余地はない。それはアメリカ以上に酷い状況にあるのではないだろうか。このままでは、国の反倫理的リーダーたちに国の主権である国民は命を含めすべてを奪われてしまうだろう。
すべての人間は、ただ一度の有限の人生を歩む。一人ひとりの人生がそれぞれに意味があり、大切な人生である。だからこそ、この世に生まれた人間として、人をにする社会システム、特に、人を不幸にする理不尽な権力者を出さない世の中にしなくてはならい。組織の不条理を正す勇気ある人々を守る仕組みや正義感の強い人たちがドロップアウトしなければならない組織の存在を許さない社会づくりが必要と思う。
人物評価軸を正せば社会は良くなる……似非リーダーを排し、真のリーダーを探そう
2011年3月11日の東日本大震災・原発事故対応の理不尽な対応でこの国のリーダーたちが反倫理的な似非リーダーであることがより明らかになったのだが、被災地救済よりも保身のための権力闘争に明け暮れる国会議員、既得権益拡大のために走る高級官僚をはじめ、社会秩序維持や生活のベースとなる企業においても、先に示したように、道義心の薄いリーダーが知らず知らずのうちに蔓延(はびこ)ってきている。それは、“何を大切に生きるか”が定まっていないいわゆる世渡り上手な人物、または人として一番大切な道理を権力と富を得ることによって無くした人物が、政府をはじめ、あらゆる組織に似非リーダーと生まれているのだが、日本社会が長期にわたって国民から希望を喪失させている諸悪の根源は、そういう人物を国や組織のトップに選んでしまう人物評価軸の狂いにあると思う。
「たくみに言葉を飾ったり、たくみに顔色をとりつくろったりする人物には、ほとんど仁(人間愛)の道は無いと言ってよいという意味の『巧言令色鮮(すくな)きかな仁』」(史跡足利学校『論語抄』)なる人物がなんと増えたことか。
2014年春先、みずほ銀行の口座を解約した。窓口で女性行員に、聞かれるともなく解約理由を「暴力団への融資もあるが、それ以上に責任の取り方に問題があり、トップに居座り続けることへの憤り」だと説明し、さらに「組織のトップは、従業員が“この会社はいいなー”と愛せる会社にするのが最低限の責務」だと続けたら、女性行員は「会社経営陣は、自分たちに銀行の社会的責任やお客さま対応について訓辞を述べる一方で、トップの恥ずべき不始末の対応を我々にさせる」と今にも零(こぼ)れそうな涙を抑えながら語った。「仁」のない権力者が出れば権力をもって保身に走り、多くの人間を不幸にする。それは社会生活を壊し、人間社会の秩序を乱し、人心を汚し、再生不能の荒廃社会が続くことを意味する。
2500年以上前の孔子の時代は、道徳観の薄い我欲の強い人間が統治者になりやすく、我欲の強さゆえに民に不幸をもたらすのが常だった、と思われる。故に統治者は「徳」を備えるべきであるという道徳思想が生まれ「大学」「論語」「孟子」「中庸」の四書や、「近思録」「菜根譚」などが編纂され、統治者の徳が繰り返し論じられてきた。権力者の心得として「仁」を涵養し、自らを律する必要性を説いたわけだが、それが出来ないのがほとんどの人間であり、我欲で成りあがった権力者が“徳”を得るのは不可能に近い。人間の性(さが)が起因の権力者の行状、権力者によってもたらされる不条理の不滅性からみても権力監視システムは、人間社会を崩壊させないためには無くてはならない必須のシステムなのだが、前述したように権力監視システムが機能していないのが今の日本の重大な問題なのである。道徳思想が編纂されても、考え方・判断と行動を一致させることは難しく、道理を貫ける聖人君子は極めて少ないが、日本の表舞台に顔を出す今の日本の国や企業リーダーたちや安倍内閣が選ぶお抱え学者たち、NHK会長、内閣法制局長官を始め、あまりにも人として問題がある。類は類を呼ぶ。聖人君子は少なく探し出すことは難しいが、『大衆の反逆』にあるように「本人の資質からいって当然無資格な知識人がしだいに優勢になりつつあるのである。(中略)以前ならばわれわれが『大衆』と呼んでいるものの典型的な例たりえた労働者の間に、今日では、練成された高貴な精神の持ち主を見出すことも稀ではないのである。」で、今のリーダーたちの言動を見れば、大衆の中に優れた人格者が多いのは間違いない、と断言できる。
「巧言を労する知」がなければ、組織のリーダーになる可能性は低くなるだろうが、「狡猾に振る舞う知」があって「道理、徳」の薄い人間が権力者になったら、多くの人間に不幸をもたらし、組織や社会全体を潰す。曰く「国家・組織は頭から腐る」。その最大の原因は人物評価軸の狂いであり、これを正すには人物評価軸を「仁、義、信」の三点に置くことが必要だと思う。それは「仁」「義」で人の道を定め、それを「信」、たがわず判断・実行する人物を選ぶことである。昨今の政治家に多く見られる、言っている事とやっていることがまったく逆で、良心の呵責もない人間に権力を与えることは日本社会の破滅につながる。パスカルの言葉にあるように、「正義なき力は暴力である」。行政に関る人間の判断基準を変えなければ国家危機に陥りそうだ。
為政者は、長期の視点で物事を判断しなくてはならないのだが、この国をどうしたいかのかビジョンも掲げられず、あらゆる政策の判断基準となる長期目標が定まらず、対処療法的な近視眼的対応しかできない。今だけを考える赤字国債の垂れ流しや途方もなく長い将来にわたって地上のすべての生命体の命に関る放射能被爆を起こす原発を推進する感覚、常識では考えられないことが続く。加えて、集団的自衛権の容認や平和憲法の改悪を考え、国民に本質を悟られないように特定秘密保護法を強行採決で通す。歴史の審判、時間の先例に耐えられないから、それによって人としてあるまじき言動を永久に隠そうとする。最大の長期スパン思考は、“人として正しいか”であり、ノーブレス・オブリージ(高い地位に伴う道徳的・精神的義務)なのである。
朱子学では、人間は生まれながらにして五常の徳を本性として持っていると説く。人間に内在している本性のに気づき、本性を磨く道を進むのが本当の人間、慕われるべき人間であり、そのような人物が統治者として選ばれないで排除されていることが今日の日本のあらゆる問題を引き起こしている原因と思われる。人間の本性を気づかせる哲学的教育と本性の発揮度で人物評価をし真のリーダーが選ばれれば、よりよい社会に向かうと思う。
国政を変えるには優れた統治者を選ぶことだが、前述したように権力や富を持つ統治者は統治期間とともに倫理観、道徳心が薄れるのが常である。それゆえに、安倍首相は、国会答弁の場で、法制局の人間に野党が質問したおり、「俺に答えさせろ。どっちが偉いんだ!」と言った。“偉い”とは、すぐれているひと。人に尊敬されるべき立場にある、という意味であり、自ら言う言葉ではないのである。
人を不幸に陥れる狡知で卑劣なる輩、社会秩序の乱れを増長させる不届き者が引き起こす不条理を人間社会から“仁”のこころをもって排し、道理を貫くことを奨励、評価する社会にしなければならない。それには、ポラスの原則(「言葉を信じるな、信じられるのは行動だけだ」)で人物評価し、あらゆる組織で人間力の高い真のリーダーを選び出すことが最優先事項だと思う。人間として正しい考えを持ち、言行と行動が一致する人物こそが、真のリーダーなのだ。
真のジャーナリズムを探し、支援しよう
人間は権力や富を持つと間違いなく既得権益の保持拡大に向かい我欲が前面に出て仏性から離れていく。だから米国の大統領などほとんどの民主主義国家では統治者の任期が制限されている。本来の人間に戻れなくなる前、統治者から支配者に変貌する前に、権力から法によって離れさせる。長い人間の悪しき特性観察から得た知恵である。さもないと権力者とそれを取り巻く既得権益者によって都合のよいように人事・行政を行い、国民に重税を課し、間違いなく格差拡大社会が定着進行する。世襲議員も同様の影響をもたらす。
権力側にいながら排除された政治家や官僚によって雑誌などで暴露された悪名高き官僚も、若かりし頃、国家、国民のために働くという高い志を持って公僕になったと思うが、高級官僚となった途端に、私利私欲のために特殊法人などの天下り先を作り税金の無駄使いを画策する。税金で生活を保障されたうえに詐欺まがいの行為(二重詐欺)をする。その行為が恒常化し、無意識下で省庁の主要業務になっているように見える。官僚主導体制の改革を叫べども何もできない政治家、日本の根源的問題である統治システムの改革、すなわち官僚主導体制改革よりも、批判しやすく大衆受けのいい政治批判に明け暮れるマス・メディアの存在。利己的気質に成り下がってしまった国民にも問題はあるが、詐欺的官僚を国民が雇っていて、国を統治する非倫理的な内閣・与党議員、高級官僚は、権力を持った人間の際限のない欲望の追求により、膨大な不正(二重詐欺行為)を生んでいる。これはある意味凡夫である人間の必然悪なのだろうか。
それを正すためにメディアがあり、ジャーナリズムが存在し、司法があり憲法がある。権力への監視機構が無く国民が不幸な目にあっているのが、北朝鮮やミャンマー、シリアである。「真のジャーナリズム活動ができているかどうかが国の質を決めていく」といっても過言ではないだろう。
長年の欲望で満ち溢れた政官の権力者が統治する日本において、統治サイドの自己改革と国民のための政治を行う議員の訓育が望まれ、その目的のために松下幸之助が熱い思いで今から三十五年も前に『21世紀の日本』を著し、松下政経塾を創設し、そこから排出された民主党野田政権が生まれたが、そこは権力と名声を好む議員が集まり、松下幸之助の狙いとは真逆の結果を招いたのはご承知の通りである。この日本では、どんな政党や首相が生まれても陳腐化し腐敗した官僚制度改革を正し、行政システムを刷新し、より良き社会への転換力になりえないことが長い歴史が示している。
国家権力の暴走を防ぐためにある憲法さえも解釈で勝手に変えようとする現政権に対抗し、国民のための公僕組織が本来の役割を果たす組織にするために、真のジャーナリズム活動――統治権力、特に権力が集中している官僚組織への監視――が唯一の頼みである。
国会議員や大企業経営者は、国民、組織構成員の生活の質、幸不幸への影響力など社会全般に与える影響の大きく、権力を持てば倫理観が薄れていく人間の性(さが)から鑑み、その言動が厳しく監視されなければならない。監視すべきジャーナリズムを本来の姿にすることが日本社会の浮沈を握る重大且つ喫緊の課題と思うのだが、ジャーナリズムには、政府の進める原発推進や集団的自衛権を支援する社説、よりによって自らの義務であるジャーナリズム活動の放棄につながる特定機密法案を後押しする政府広報誌的新聞社もある。政府を隠れ蓑に、保身に繋がる省庁の利権を優先し税金をそのために使う官僚の監視をもっとつよめなければ、政権交代すれどもいずれも官僚の傀儡政権では国民のための社会を実現させることは永遠にできない。税金の無駄遣いは拡大の一歩であり、英国のように、少なくとも税金の最終執行責任を省庁トップの次官にとらせるようにすべきだと思う。
日本には真のジャーナリズムは存在しないという情けない状況にあり、メディアは真のジャーナリズムを発揮していないと感じている人間は、着実に増えてきている。権力側についた似非メディアを無視し、真のジャーナリズムを探し、それをサポートする運動を起こす必要がある。
人として何が正しいか?何が将来にわたって国の主権者である国民にとって良いことなのかを判断基準に新聞を選別していく――本来の使命を忘れた似非ジャーナリズム新聞の購読を止め、真のジャーナリズムを発揮している新聞に切り替える――ことが、ジャーナリズムの復権につながる第一歩だと思う。それは、思いもよらず似非ジャーナリズムの組織に身を置いてしまって肩身の狭い思いをしている良識ある社員に誇り高いジャーナリズム活動を取り戻すという、救済活動にもなる。
国民の悪行を憎む「仁」の声、真のジャーナリズムを育てる国民の声が必要なのである。ジャーナリズムの「仁」に期待大であり、弱者を救う正義の使者となってほしいのである。「仁」を持つ真のジャーナリズムが頭角を現すメディア環境――のジャーナリズムを保護し育成するシステム――を築きあげなければならないと思う。それができるかどうかは我々国民にある。
看過してはいけない二つの悪行
聖徳太子の十七条の憲法第六条に「悪をこらしめて善をすすめるのは、古くからの良いしきたりで、人の善行はかくすことなく、悪行を見たら必ずただせ」とある。1300年以上も前から、悪行を放っておいては、国は乱れる、といっている。『論語』にも「子の曰わく、惟(た)だ仁者のみ能(よ)く人を好み、能く人を悪(にく)む」とある。仁者(じんしゃ)は、思いやりの心があるからこそ、善きひとを好み、他人を不幸にする者、人が住む社会の秩序を乱す者を憎むことができる。そして、闘い方は、相手が組織であれ個人であれ、道理を持って対応するのが「仁者」なのである。
孔子も「道徳心が失われていくこと、学問が廃れていくこと、正義を知っていながら実行する者がいないこと、悪いと知っていながら誰も改めようとしないこと、社会がそんな状態になっていくのがわたしの一番の心配事だよ」と言っている(『高校生が感動した「論語」』)。社会悪に対して黙っていたら社会秩序が崩れていく。国民は反社会的行為に対し声を上げて抗議をし続けなければならない。悪行を改めるように促す社会風土がなければ、人の道を外れた反社会的行為者が続出する。国民のすべての人が道理を外した行為をする社会を想像すれば容易に分かるはずだ。
正すべき“悪行”は、「人心の荒廃に繋がる社会秩序を乱す行為」と「権力や集団の力で、人を排除したり、不幸な目にする行為」の二つ。悪行をする権力者や集団を正し、悪行の再発、拡散を防がなくてはならない。集団のパワーや権力をもって他人に危害を加え不幸にする行為と社会全体の秩序を乱す二つの不正義には、決然たる態度で立ち向かうことがより善き社会に向けた利他的行為であり、社会の進歩への貢献であり、子孫に対する義務だと思う。
道理を度外視して仁者を排除する者には勝てそうも無く、自然体では“悪貨は良貨を駆逐する”ことになる。だからこそ、人を不幸にすることと社会秩序を乱し、人間社会を殺伐とさせる行為に対して物申す人間の存在がより善き社会づくりには欠かせない。その存在を保護せず、無視し、時に排除する社会風土が夢の持てない今の日本社会を作ってきたのではないだろうか。ここは、大いに反省し、社会風土の浄化のためにできることからやらなければならない。
“悪行”の黙認者は共犯者
悪行を正し、善行を評価することが自然と出来る社会になるように努力することが今を生きる人間の義務、“義”である。社会秩序を乱す行為や他者に危害を加え、不幸にする行為を黙認することは、社会悪を増長させる悪行の共犯者であり、人間としての義務不履行者である。正義感ぶった思いあがり人間とか、「お前は何様か?」と思われるだろうが、自然科学の進化に較べ進歩の遅い人間社会秩序が曲がりなりにも前進してきたのは、世の中の不条理、理不尽な事が二度と子孫の身に起らないように立ち向かう思いあがり人間によってもたされてきたのは明らかである。今日多く見られる自分の損得に関係がなければ、世の中の不条理に対し無関心を装い黙認する行為は、社会秩序の乱れを助長させる。そのような行為がなくなる社会への転換が必要だと思う。
個人間のいざこざは、一種の人間社会のざれごとであり、当事者間でどのようにでも処理されればよい。殺人まで行けば警察が入り、司法が裁く。また自分個人に降りかかる災い、火の粉は自分自身で払いのけるしかないし、他言する必要は何もない。先に挙げた二つの許せない行為――権力や集団の力で個人に危害を加え不幸にする行為と社会の秩序を乱す行為――を放っておいては社会全般に悪習として根を張り、人間社会を劣化させる。卑近な例で言えば、身体障害者専用駐車スペースへの健常者の駐車、電車内でのシルバーシート付近での携帯電話の使用や電車内での長時間化粧などがある。他人に迷惑をかけなければ何をしても自由だと身勝手な行為をしている人間を注意せず、無関心を装う行為が多くの不届き者を生んだ。これは、1300年以上前の聖徳太子の十七条の憲法「悪行を見たら必ずただせ」に反した結果である。
ドイツではバスの行列に割り込んだ男を女の子がカバンで殴っても、周りの人間が女の子に加勢するのが常識として根付いており、男はすごすごと列の最後尾へと引き下がる。多分日本では割り込んだ男が逆切れし暴力を振るっても周りの人間は素知らぬ態度を取るだろう。この無関心さも含め、些細なことではあるが正さなければ、以前のニューヨーク地下鉄のように、治安悪化が進む。それは、地下鉄の落書きなど些細な悪行の横行ととそれを黙認することで、他の悪行も許される車内文化によってもたらされたのだが、電車内を綺麗にするという小さなクリーン作戦で治安が回復したとのことだ。このように、些細な“悪行黙認”で社会秩序は乱れる。日本社会は今、そのとばくちにあると思う。
善き社会に反するもう一つの悪行は、組織の権力者や集団が、その権力や数をもって個人を不幸にする場合である。企業でいえば経営不振回避能力のない企業経営陣が、本来ならば、より能力のある人間に経営権を譲るべきなのだが、苦境に陥った経営責任もとらず、経営回復策として安易な首切りを行い居座ったりする。また、企業内での不条理は、社内的に処理される場合がほとんどで、政治問題とは違って社会的にインパクトの大きい不祥事以外は公になり難く、独裁に陥りやすい。事実、2011年の東日本大震災によって、いままで隠されていた電力会社のやらせ行為による情報の操作や隠蔽など反社会的行状の数々が明らかになったように、反倫理的な経営陣が主導する組織の論理が優先され、浄化される機会もなく、密かに着実に非人道的な風土文化が形成されていたことを物語っている。従業員は、生活の糧をその企業から支給されているという弱い立場にあり、家庭を守らねばならず、このような不条理な行為に対してほとんどの人間が黙認してしまう。企業の不条理を正そうとする正義感の強い従業員が現れれば、裏で喝采はすれど表立って支援することはなく、自分に火の粉がかからないようにするため、すべてが闇に葬られるケースが多くなる。
また人生訓にみられる清濁併せ呑むのが良識ある大人の対応として評価される風潮によっても、企業内不条理が黙認され、その結果、東日本大震災でみられたような東京電力という醜い組織を生んだ。これは原発事故対応の不祥事に関連して明らかになったのだが、東電は原発をより安全にするように提案した技術者を排除したようだ。これは氷山の一角にすぎず、腐敗の進んだ組織だからこそ昇進した反倫理的幹部の手によって数多くの人道的良識者が排除されていたに違いない。予想外に、企業よりも官庁で組織の悪行、悪弊を正そうとする気概のある人間が現われて来てはいる。それは、本来ならば国民の血税から給料をもらって国家国民のために働く使命を持つ上級役人が、使命を忘れ官僚組織の既得権益の維持拡大に奔走するという、あまりにも腐りきっているから、身を賭して行動を起こさなければ国体が壊滅すると感じる官僚が現われてきたのだろう。それほど官僚組織の腐敗が進んでいる証拠でもある。
企業は社会基盤を支えるものであり、その倫理的乱れは社会全体に悪影響をもたらす。闇に葬ることなく公にし、二度とそのような不条理が起こらないように手を打たなければ、社会全体の崩壊につながる。他者には“仁”の心をもって「優しい目線」を持つことが基本だが、権力や集団によって引き起こされる不条理には立ち向かわなければならない。それは利他の精神発揮に他ならない。非義に通じる大人の対応を廃し、「悪行をみたら必ず正せ」の意識と実践の積み重ねによって、バスの行列に割り込む不徳な人間を空気が諌めるドイツような社会風土づくり、不条理な行為を抑制する企業文化づくりが必要である。理不尽なことに耐えていると人間としての感性が鈍り、結果として社会全体が不条理を増長させることになる。
嘘つきは非人間の始まり
“嘘つきは泥棒のはじまり”という。昔はこの言葉を巷でよく聞いたが、今はそれほど聞かない。“嘘つきは泥棒のはじまり”や“弱いものをいじめるな”は、人として最低限守るべきもので、嘘をつくことは、人間としての道を外すことであり、“人間ではなくなる”という意味があったと思う。「人間として正しく生きよ」という教えの代表格だったのではないかと思う。人を殺してはいけないと同列で、理由は言わずもがなで、人間として当然のことであった。しかし、今は誰でもいいから人を殺したくなって殺したという人間が現れ、政官財民のあらゆる層でウソや騙しが横行している。政治の世界では、2011年の民主党政権下での野田首相が、任期中は消費税増税をしないという公約を掲げながら、2012年末増税をすると言い出した。政権を失った最大の原因が国民を騙した“ウソ”であることを当の民主党は知ってか知らないのか反省の弁として語らない。その後の選挙では、政治不信による低投票率を追い風に違憲状態(一票の格差)下で、高い世襲議員率(ほぼ4割)を誇る自民党が、組織票をバックに政権を拾い安倍IJ(違憲状態)首相が生まれたが、これも脱原発依存を選挙公約に掲げながら、政権を握ると原発を重要なベースロード電源(安定供給電源)として原発推進へと転換し、国民を騙しウソで政権を握った。さらに有権者の20%強の票を得たにすぎない政権が、公約にはない今世紀最大の悪法と言われた特定機密法案で、次の集団的自衛権行使など国家の方針に背く者の“口をふさぐ”という暴挙に出た。
政権は、長期政権の自民党による財政危機の尻拭いを消費税増税で国民に負担させる結果となった“ウソで国民からお金を搾取する”民主党から、原発推進や集団的自衛権行使で“ウソで国民の命を奪う”自民党に移ってしまった。経済(お金)が命より優先する社会が更に鮮明になってきている。両“嘘つき”政権が、国民を政治不信に追いやった罪は大きい。
イギリスを始めほとんどの国では、政治家のウソは、政治生命に終わりを意味する致命傷なのだが、日本では、巧みに平然とウソをつく政治家が国のトップに駆け上がる。
日本は嘘つきに寛容な国になってしまった。“嘘つきは泥棒のはじまり”は、“ウソは総理大臣のはじまり”に変質してしまったのである。国のトップの“ウソ”を弾劾しないメディアと社会の風潮が、大手ホテルの食品偽装や多発する詐欺などあらゆる層に伝播した感がある。
人殺しは極刑に処されることによって人殺しの連鎖は抑えられるが、嘘つきは、軽犯罪として処され、社会全体に広まってしまった。社会秩序への影響を考えた場合、嘘つきと人殺しは同列であり、“嘘つき”を許しては、社会全体の無秩序化が進む。日本社会をより良い方向へ転換させるためには、あらゆる悪行の伝播源となっている“嘘つき”を極刑に処さなければならないほど事態は深刻だと思う。日本を取り戻すには、多発する詐欺行為の刑罰強化、嘘つき政治家の弾劾で、社会秩序と政治の浄化を図るしかなさそうだ。もう一度“ウソは泥棒のはじまり”の意味と社会的狙いを取りもださなければならない。“隗(かい)より始めよ”である。
矛盾だらけの社会での生き方
道理を通し、より良い社会の実現のために貢献しながら、組織的に排除された仁と義を発揮した勇気ある人間を守る機構がなければ、より善き社会に向けた速度は遅くなるが、人生で遭遇する様々な問題・課題に対し、より良い社会づくり貢献を念頭に、自らの基本的考えにそって判断・決断し、自分のできる範囲で少しずつ行動を起こしてほしいと思う。このように生きるという気持ちがあれば、好きに生きても構わないともいえる。
志高き人の前には、現状を良しとする既得権益者をはじめ、自分さえ良ければ良しとする人間が立ちはだかる。特に、既得権益者は妨害を加えるのが常で、それを正そうとする志高き者の道は、幾多の障害に阻まれ、少し前なら暗殺の憂き目に遭うほどの厳しい抵抗を受ける。私利を強く求める人間は、なりふり構わず戦う病的特性をもっており、卑劣な手段で攻めてくる。権力悪や組織悪への個人的対抗は、歴史を紐解くまでもなく難事業である。資本主義と個人主義社会のもと、物欲、権力欲の大きさが人を評価するという利己主義に染まった現代の社会のもとでの成功者――私利追求の強力な自己実現力、好戦的、戦闘的、姑息で小利口な戦闘的精神を持つ人間、あるいはその集団――に対抗して、仏性に近づくことを人生の価値とする優しい人間が願いを果たすことは不可能に近い。しかも、人の道よりも富や地位・権力を優先する者は多く、多勢に無勢である。例えば、ボクシングの試合で、グローブの中に鉄の塊を入れて攻め立てる。仁者は、たとえ相手がそうであってもルールを守りながら闘う。結果は火を見るより明らかで、仁者は負ける確率が高い。故に、「正義は必ず勝つ」と言う言葉がむなしく存在する。
したがって、人として正しく生きようとする利他の心を持つ人間には、強靭な精神力が要求される。利他のこころは精神を鍛え、利他の対象が大きいほど精神力は強くなるが、障害も大きくなる。それが人生の醍醐味だと思うことが肝要だ。
この項の末尾に、幸か不幸か、宿命的に高い志を持つことになってしまい厳しい道を選んだ者の心構えを先人の遺した言葉を参考に考察してみた。心構えとして生かしてもらえればと思う。考慮すべき点は三つある。ひとつ目は、道理をわきまえず、暴虐の限りをつくす悪人でも、人情美にあふれるドラマに涙するように元来人間には仏心が宿っており、人間の持つ道徳心と精神的に葛藤しているのである。内省が起こらないとしたら人間ではないのであり、性善説に立脚し、人を不幸に陥れる、社会秩序を落とす行為を正すことは、その人物の排除よりもそのような行為が二度と起こらないようにするという視点で望むこと。二つ目は、人間社会は、いつまでたっても不完全であり、人生は喜怒哀楽があるから面白いという思いを持つこと。三つ目は、どうにもならないであろう人間社会の不条理さを少しでもよいから少なくしようとする大きな志を持った自分の凄さ、自分に与えられた使命を誇りとして捉え、立ちはだかるさまざまな壁に気長に挑戦することが自分の人生を生き抜くエネルギーのひとつになっているということを自覚すること、である。
それらが相まって、自分の人生道を彩りのあるものにすると思う。その過程を楽しみながら、生き抜いてほしい。
最後に。。。内的悩みにおいて、深刻になっては心の病になるので注意が必要だ。人間の不完全さを理解し、それを楽しむ気持ちを忘れてはいけない。また、悩みに挫けないためには、内外のサポートも必要だ。内には、利他を思う高い志、楽天的性格、外には、安全基地となる良き家族、良き友がサポートになる。これらを持ち合わせた者が「正しい考えと行動の習慣化」によって人間的に成長する。
そして、そのように形成された「善い人間は、よしんば暗い衝動にうながされることがあっても、決して正しい道を忘れはしない」(『人生について―ゲーテの言葉―』)し、苦難を精神的に乗り越えたり、死を意識することで形成された善い人間は、残りの人生をさらに高い次元で人間らしく生き抜くことができるのである。
■ 幸か不幸か強い利他の志を持ってしまった者の心構え
現代人にとって不満と矛盾だらけの現代社会ではあるが、為政者に反抗することは死を意味する数世紀前よりも数段によくなっているのは確かだ。それは強い利他の心を持って「善く生きる」運命というか性分を持った人間がいたからこそ達成されたのだと思う。しかし、この進化は容易になされたわけではない。いつの世も利他を思う強い気持ち、高い志を持つ人道的改革派は少数派であり、必然的に険しい道を歩まなければならず、その多くは、多数派である私利私欲者、既得権益保持者の強大な権力と財力によって打ちのめされたり、排除されたり、思いつめて自滅に追いやられたであろうことは想像に難くない。それでもなお使命感をもって強大な権力に抗して、少しずつ前進させ次世代の志高き人間に引き継がれてきたからこそ、十分ではないだろうが平和な今があるのだと思う。世の中を良くしてきたのは、口先だけの表層的人道主義者ではない本物の社会改革派の人たちであり、志の高さが仇になりその人たちが抹殺されたり排除されては“より善き社会づくり”が途絶える。社会的損失は甚大である。
世の中の不条理を正し、世の中を少しでも良くしたいという利他のこころを持つ者が、富と権力を持ちそれによって倫理観も喪失した巨大な力をもつ我利我利亡者の壁に抗して不条理を正すことは、非常に稀であると捉えておく必要があり、僅かな前進でも“良し”とし、次世代にバトンタッチするという気持ちを持つことが肝要であろう。
以下、利他を思い“より善き社会づくり”を願う人が挫折することなく、意思の道を進むための険しい道の解釈や心構えについて先人の教えに助けを借りながら考察を試みた。これをヒントに納得性を得ながら“意志の道(意志道)”を進んでほしい。
1)大前提は、ユートピア(理想社会)は実現することはないから理想なのであるが、人間の力で世の中はよりましになるという理想主義の概念がよりよい社会をつくりだす力となる。
政治学者の山口二郎氏は『若者のための政治マニュアル』で以下のように論じている。「ユートピアに懐疑的であるということは、理想を捨てろということを意味するのではない。理想はそう簡単に実現しないという覚悟を持った上で、それでも理想を追求する態度こそ、正しい理想主義である。今の世の中に、何も問題がないはずはない。その意味では、現状を否定することこそ、変革のエネルギーを供給する。しかし、単純な特効薬を投与することで一気に世の中を変えることはできない。今の仕組みの中でもうまく行っている部分はあるわけで、そこを無視して全面的な変革をと叫んでも、変えることによる弊害のほうが大きくなる。その意味では、現状を受け入れることも、有意義な変革のためには必要である」。
2)何度となく表してきたが、心しておかなければならないことは、この世は矛盾だらけの人間が生きている不可思議な世界であるということ。
現在の不都合を改革しようと試みる者は皆、「みんな正しいことに同意してくれるのに、なぜ行動しないのかと嘆く。その根源的なところを哲学者池田晶子さんが『人生のほんとう』で述べている。現代は人間が崩れてきていて、「勝ち負けがお金を基準にして決まるらしい。人がそれを疑っていない。ゆえに、小さな子供までがお金が欲しい、金儲けをしたいと言う。子供が夢ではなくて欲望を語る時代というのは、おそらくなかったでしょう」というように、現代は利己主義時代であるということ。さらに、「快楽を人生の価値として、欲望充足という原理で生きる、それが人生だと思う人は、実は大昔から大半はそうだったんでしょう、昔の人の本などを読むと、古代の賢人たちも嘆いています、世の中はどうしようもない、と。(中略)どの時代にも、『考えて善く生きる』というような言葉を発する人は少数派ではあったんです」とある。昔から大半の人が自己の欲望を満たすことを最優先に生き、“仁”という他者をおもいやり、公を思う心は二の次だった、といっている。また、世の中を良い方向にもっていく立場にある権力者ほど際限のない欲望、既得権益の維持拡大に走り、権力をもって、“仁者”を排除する。公を思う “仁者”は、本来あるべき人間であるがゆえに、我欲に負けた我利我利亡者にとって眩く妬ましい存在であり、徒党を組んでも排除したい存在なのである。いつの時代も人道的改革者は少数であり、改革の道のりは険しく、難事業に挑まざるを得ない運命なのである。利他の心を持ったからこそ、数少ない人しか味わえない体験ができるのであり、その希少価値性を誇らしく思い、それを楽しみながら進むしかないことを心すべし。
人間社会は、聖人の比率が高くなることはないようにできており、これが何千年たっても変わらない人間社会の真理であり、聖徳太子の「世間はうそいつわりで、ただ仏だけが真実である(世間虚仮(こけ)唯仏(ゆいぶつ)是(ぜ)真(しん))」の言葉まではいかないにしても、世間は、理不尽、不条理なことが多く矛盾に満ちているということは間違いなさそうだ。だからこそ人は本来の人間らしさを見た時涙し、人間に生まれたことをこの上なくうれしく感じる、ということを押さえておくべきだろう。
3)既得権益を握る体制側に改革を理解させることは難問中の難問である。
これは本文でも表現は若干異なるが言及したが、塩野七生著『ローマから日本が見える』の改革についての記述を援用させてもらう。
「改革はむずかしい。なぜなら、どんな改革であれ、それによって損をする人たちがかならず現れる。いわゆる既得(きとく)権益(けんえき)層の存在です。
というのも、カエサルの言葉を引用すれば、『人は自分が見たいと欲する現実だけを見ようとする』存在であるからです。改革によって既得権益が失われることに心を奪われている人たちに、改革の意義を説いたところで理解されないのも当然だと思わなければならない」とある。既得権益層の強力な権力組織に抗しなければならなず、改革は限りなく不可能に近い。そして「改革をやろうとすれば、結局は力で突破するしかないということになる。(中略)衆知を集めての改革は、理想としては美しくても現実的な方策ではないことを彼は知っていた」とある。武力によるクーデターしかないということだが、現代の日本社会では現実的ではない。改革対象が自滅するか、素晴らしいリーダーの突然変異的出現という奇跡を待つしかないかもしれない。
もう一つの方法としては、時間がかかるが、既得権益層以外の仲間を増やし、真のリーダーが選ばれる土壌づくりが考えられる。以下その方法論になるが、同書にヒントがある。
「改革とは自分たちの苦境を直視することから始まる以上、反省や自己批判といった後ろ向きの話になりがちです。しかし、それをやっていたのでは、かえって改革をやる意欲は生まれてこない。さらに言えば、改革によって社会が変わると言われて、素直に歓迎できる人は少数派で、将来に対する不安を感じるのは当然の心理です。
この点、カエサルの演説はたとえ苦い現実を語っても、聴衆は逆に元気が与えられ、明日への希望を得た気分になったと言います。(中略)現代日本のことでいえば、なぜ一連の改革が成功しないかといえば、一つには改革の意義を反対派に分からせようとばかりしていて、賛成派を増やそうという努力が決定的に不足している面もあるのではないでしょうか。
新しい時代を作ることになるほどの大改革は、誰にでも理解されるものではない。その意味で改革者とは孤独であり、孤独であるがゆえに支持者を必要としているのです」。改革は、抵抗勢力になる既得権益サイドを理解させるよりも賛成派を増やし、その流れを主流にし、“どちらが得か“という既得権益サイドの特性で動かすことなのかもしれない。
同様の指摘が、『9割の病気は自分で治せる』(岡本裕著)にある。この本は、“治癒力を高め価値ある長生き”をするために読んでおきたい一冊だが、現在の医師の本来業務から逸脱した医療体制の改革を強く望む医師である著者が、次のように書いている。「メリットがなければ人は実際には動きません。正義や道理だけでは、理解は得られても、人が動かないのはみなさんもよくご存知だと思います。また、既得権益を持った人たちがいる限り、なかなか事を大きく変えることは難しいものです。一人ひとりがメリットを個人的に感じて、行動に移すことができるならば、可能性は大きく広がります」。ほとんどの人が、損得のみで動くことは、哲学者の池田晶子氏が『人生のほんとう』で述べているが、正義と道理、それにメリットならどんな人間でも動くだろう
。
人生には、食べることや、争うことや、権力を奪い合ったりすることなどより遥かに大事なことがあると、理想の飛行技術を求めてスピードの限界に挑戦し、長老たち幹部に追放されながら、同じように追放された仲間とともに他のカモメたちに自由に飛びまわれる世界があることを気づかせ、古い体質を変えていく孤高の『かもめのジョナサン』(リチャード・バック著)のように、同志を増やす努力を続けるのが、既得権益層の中から改革者を探すことよりも現実的なのだろう。時間は掛かるがそれだけ前進しているという実感が得られ、改革のエネルギーを継続させることができると思う。
また、この本の解説者(五木寛之)は、「管理社会のメカニズムの中で圧殺されようとしている人々が、この物語にひとつの脱出の夢を托(たく)するという可能性もわからないではないが」と前置きして、理想を追求するカモメを美化し、残るカモメの群れを馬鹿にする、その姿勢に強い抵抗を感じるという。自分はすべて正しいという人への忠告。“自分の中の悪に向き合え”なのだろう。
多様な視点が存在するのである。
4)同志を得るのは、これもまた至難の業。
「他人がいつも自分と同じように考えたり行動するようなことは絶対にないのだ。人もものごとも、自分の意のままにならいことのほうが圧倒的に多いのである。世の中はそうしたものだ」(『自分のための人生』)。さらに「理屈が達者で、論争に強いなんていうのも考えものだ。人間は他人の理屈に屈することはまずない。自分で納得しなければ、本当には承知しない。だから論争でいかに負かしても、ぜいぜい相手に不快感を与えるくらいのものだ」とある(森毅著『大事な話』)。相手が自ら考えていることと一致していなければ、自分の意見の正しさを説けば説くほど、思いは遠のくということをいっている。これは“実感!”
それでもこの状況を乗り越え先に進まなければならないのが志高き者たちの運命である。『交渉力入門』に、普遍的な原則として、信頼関係がないところでは、何を説明しても受け入れらず、交渉ごとでは、お互いに得るものがあるというウィン・ウィンという問題解決の方法で信頼関係を築くことが大事で、「部分的に譲っても、全体で目的を達成するように考えることが重要で、その考え方が、交渉力の基礎となる」とある。根源的に、人は「愛する人の話しか聞かない、聴けない」。また愛や信頼があっても「共に学ぶことができる人物を得られても、同じ目標へ進む人物を得ることは難しい。同じ目標へ進む人物を得られたとしても、同じ決断をする人物を得ることは難しい。同じ決断をする人物を得られたとしても、共に実行する人物を得るとなると、こりゃもう至難の業だよ」(『高校生が感動した「論語」』)であり、さらに、自分を含め「あらゆる人間は、必ず自分が正しいと思っている。正しいのは常に自分であり、間違っているのは常に他人だ。口に出して言いはしなくても、根底では誰もそう思っている」(『さよならソクラテス』)のであり、結果を急いではならない。
付録)『大事な話』(森毅)に「東京は建前の町だから、自分のかっこよさを強調する。大阪は本音の町だから、自分のドジさをことさらあげたがる。東京人が自分がいかに気分良く体験をしゃべれるかに重きを置いているのに対して、大阪人は聞いてくれる人がいかに楽しんでくれるかを考えるともいえる。言葉をかえれば、東京人は見せる側、大阪人は見られる側だ。どちらのコンセプトを強く押し出すかで話の内容はまったく違ってくる」とある。これは面白い視点だと思う。志の高い人間は、正義感が前面に出て、東京人的な話し方になる傾向があるのではなかろうか。目的は志を理解してもらい同志あるいは理解者になってもらうことであり、信頼を得る確率が高まるのは大阪人的会話アプローチのような気がする。
5)あまりに眩しすぎて理想論を嫌う人間の存在。
「マンデヴィルは、いかなる潔癖な道徳的行為の陰にも『自負心』が潜んでいることを見抜いています。善人然とした人々の『いやらしさ』その『臭み』は、だれでも覚えのあることでしょう。逆に、悪人然とした人々の『よさ』にも感じているはずです。また、正義を振り舞わす人ほど『いやらしさ』も感ずるでしょう」。これは『私の嫌いな10の言葉』、『私の嫌いな10の人びと』など、異端?哲学者中島義道氏が『半分<人生>を降りる』の中で拾い上げた文章。そう感じるのも人間だが、ガンジー、マザー・テレサやキュリー夫人には自負心はなかったように思う。あるかないかのオンオフ的発想ではなく、自負心があるかないかにかかわわず善行が世の中を変えてきたのであり、善行を行わない人間で社会全体が覆われたら人間社会は間違いなく良くはならないと思う。「善人然としたいやらしさ」、そういう人間もいるが、それは個人的な好みの問題であり、“悪行を非難し善行を奨励せよ”と説く孔子のいうように、善行を行う人間が増えると社会は間違いなく良くなるのであり、意に介さないことだ。より善き社会づくりのためには、利他を思う志高き者が必要なのだ。志高き者よ、わが道を進め!である。
ただし、「絶対という思想がいかに非人間的なものであるか、……世の中すべての現象は全否定できないと同時に、全肯定もできない」(『狼たちへの伝言』)のだから、自分の考える理想や正義以外は認めないというように、理想や正義を振りかざし、排他的になったら自滅する、ということを心しておかなければならない。
それは、塩野七生氏も『男たちへ』で、ローマ史研究から得た完全主義者の不幸について以下のように記している。
「完璧を期したいとする、心がまえは悪くない。ただ、すべてのことがそれで通せると思いはじめると、不幸をまぬがれなくなる。
完全主義者は、なぜか、自分に対してそれを要求するだけではすまず、他人にも要求するものなのだ。ところが、完璧を期す、ということ自体は、意外と主観的な基準によって決められることなのである。(中略)このように、「完璧」そのものが客観的基準をもたない以上、完璧を期す、ということだって、千差万別にならざるをえない。そして、その千差万別なるものをいちように他人にも強いるという行為は、それこそ、傲岸不遜、人間性の多種多様性を無視した、はっきり言うと無知なる行為、ということになってしまう。
人間性を無視したことを望む者は、人間社会に生きる身である以上、不幸にならずにはすまない。この点ではまったく、完全主義者は、原則に忠実なる男が不幸にならずにはすまないと同じ理由で、不幸を宿命づけられた存在なのである」と語っている。
これは、人間の多様性を理解しないで、他者を含めて完全を迫る完全主義者のことを言っている。理想を求める志高き人間は、ここでいう完全主義者ではないが、同じような過ちを犯す可能性がある。心しておくべきだろう。ここでいう完全主義者ではなく、矛盾だらけの人間とその人間たちが生きる社会の不条理性、真理を理解したうえで、より善き社会に向けて高貴な道義心、“仁”と“義”を持って自らの人生を悩み楽しみながら生きよ、である。
6)仕事での成功者と人としての成功者は別次元。
『高校生が感動した「論語」』に「善い政治が行なわれている時期に貧しく社会的地位も得られないというのは、自分の能力を生かし切っていない証拠だから恥ずべきだが、ロクでもない政治が行なわれている時に豊かで出世しているというのは、さらなる恥と思うべきだね」と、あるように、素晴らしい企業の経営陣は、上に行くほど素晴らしい人間であるはずだが、現在はどうもそうではないらしい。それは2012年のアメリカの調査結果「社会的地位の高い『勝ち組』ほど反倫理的に振る舞う」で示された。どうしようもない企業では上に行くほど間違いなく人間失格者が多い。それは2011年3月11日の東日本大震災時の東京電力の経営陣や長崎県知事などの理不尽な言行で明らかになったが、反倫理的リーダーが反倫理的人間を後継者に選ぶ。類が類を選ぶ負の連鎖である。今日のような利己主義社会での成功者、特に組織のトップ層のほとんどは人格的に平均以下なのだと思っていた方が間違いなさそうだ。社会的地位が高くなるに従い倫理観が薄らいでいく人間性喪失患者を相手にしているのだから、慎重に対応しないと権力によって排除される。クワバラクワバラである。
そして、「みんなが考える以上によく考えて広い思考の幅を持っている人は、組織や派閥に属する人間としては不向きだ。なぜならばそういう人は、いつのまにか組織や党派の利益を越え、いっそう広く考えるようになっているからだ。
組織や派閥というものは、考え方においても人を枠にはめておくのがふつうだ。それはドングリの集合体のようなものであるし、小魚の群れのようなものである。
だから、考え方の問題で組織になじまなくなっても、自分だけがおかしいと思う必要などない。それは、組織の狭い世界を越えた広い次元に達したということなのだから」(『超訳 ニーチェの言葉』の「組織をはみだす人」)、東京電力のようなどうしようもない企業や反倫理的な経営者によって不遇な目にあった人間は「強く優しい人間」になる有資格者なのであり、こころの中で胸を張って生きれる、のである。
7)改革者は組織では優遇されないだろうが、不幸ではない。
贈る言葉①「ビジョナリーな人は自分の進む道筋を、不運と予期しない幸運でいっぱいの冒険だと考えている。そこで通用するのは、決然とした覚悟と、開かれた心以外には、ない」(『ビジョナリー・ピープル』)。冒険を楽しむことの大切さを言っている。大志を持ち続ける心構えといえよう。
深刻にならないこと、横道、回り道で楽しい物を見つけながら目標に少しでも近づければいいと楽観的に考えなければ、難事業は成し得ない。
贈る言葉②「自分の身に何が起こるかではなく、それにどう反応するかが重要なのだ。もちろん外的な環境要因によって、肉体的あるいは経済的に害を受けて悲しむこともあるだろう。しかし、私たちの人格、基礎的なアイデンティティそのものまでが、それに害される必要はない。かえって人生のつらく、厳しい経験によってこそ人格は形成され、内的な力が育成される。それによって難しい状況に対応する能力が高まり、ほかの人にも模範を示し感動と励ましを与えることができるようになるのだ。(中略)苦しみや難しい状況を克服している人の生きざまほど、心の琴線に触れるものはない。
困難な状況ではパラダイム転換が起こることが多い。困難に直面した人は、従来とは全く違った見地から世界、自分自身、周りの人、自分に要求されている事柄を見るようになる。そうした状況においても主体的な人の態度は、自分自身の価値観を映し出すものであり、周りの人々の精神を高揚させ、彼らに勇気と希望を与える」(『7つの習慣』)。不条理によって高い志を閉ざされ不遇な目に遭った人ほど、より善く生きるための人の道を深考するようになる。貴重な機会が得られたことは幸運なのであり、“艱難汝を玉にす”なのである。
とはいえ、自身の信条に従い獄死した三木清を幸運と、思うのは哀しい。理不尽さを痛感した人間は人情の機微を汲み取る力が大きく、普通に人生を送っていたときよりも全く違った、異次元の感覚に置かれる。彼が著した『人生論ノート』の幸福についての項にあるように、「幸せを武器として闘う者のみが斃(たお)れてもなお幸福」であり、「単に内面的であるというような幸福は真の幸福ではないであろう。幸福は表現的なものである。鳥の歌うが如くおのずから外に現れて他の人を幸福にするものが真の幸福である」という異次元の感覚なのである。利他的行為が異次元の幸福をもたらすのであろう。
8)人間として生まれたからには「仁」と「義」に生きよ。
井上靖氏が孔子とその高弟たちの遺した言葉から編纂された『論語』の成立過程を想像し、孔子の思想を推測し著した『孔子』に、いかなる状況にあっても、人間は正しく生きなければならぬと、以下の記述がある。
「われわれ人間が為すことは、それがいかに正しいことであれ、立派なことであれ、事の成否ということになると、すべてを天の裁きに任せなければならない。一つの仕事の遂行に当って、天からいかなる激励と援助を受けるかも知れないし、いかなる支障と妨害によって、行手を阻止されるかも判らない。こうしたことは大きい天の取り計らいであって、小さい人間の理解し得るところではない。
併(しか)し、そうした中にあればこそ、人間は常に正しく生きるということを意図しなければならぬ。天が応援してくれるか、妨害するか、そうしたことは一切判らないが、兎(とni)も角(かく)、人間はこと地上に於て、正しく生きることを意図し、それに向かって努力しなければならないのである」。
仁と義を守り人間らしく生きよ!それが人生を価値あるものにする!!!
9)そして最後に、「愉快なことを理解できない人間に、世の中の深刻な事柄がわかるはずがない」し、
「この奇妙な世の中に住んでいる自分と他人をまず観察してみるのだ。それから、腹を立てながら生きて
いくか、ユーモアのセンスを育てながら生きていくかを決めることだ」とある(『自分のための生』)。
行き詰ったらユーモアのセンスを磨くネタだと思うこと。これが極意かもしれない。