『「憲法改正」の真実』(2016年3月)の縮訳 2020.8.3-10.23
樋口陽一氏(「護憲派」の泰斗(たいと)にして、憲法学界の最高権威)と小林節氏(自民党のブレインでありながら、反旗を翻した「改憲派」の重鎮)の二人が自民党草案全体を貫く「隠された意図」を解説した『「憲法改正」の真実』(2016.3.22)の縮訳を試みた。
本書は、第一章「破壊された立憲主義と民主主義」、第二章「改憲草案が目指す『旧体制』回帰とは?」、第三章「憲法から『個人』が消える衝撃」、第四章「自民党草案の考える権利と義務」、第五章「緊急事態条項は『お試し』ではなく『本丸』だ」、第六章「キメラ*1のような自民党草案前文」、第七章「九条改正議論に欠けているもの」、第八章「憲法制定権利と国民の自覚」、第九章「憲法を奪還し、保守する闘い」で構成されている。対論を終えて、樋口氏は、「安倍政権が突き進んできた政治手法のひとつひとつが、立憲主義に対するあからさまな挑戦としか言いようもない」と述べている。< >内は、意志(いし)道(どう)の勝手なコメント。
冒頭小林氏は、「二〇一五年九月一九日未明、憲法違反の平和安全法制整備法と国際平和支援法と名づけられた戦争法案の違憲立法によって、日本の戦後史上はじめて、権力者による憲法破壊が行われ、(国の根幹が破壊されつつあり)今までとは違う社会、異常な法秩序の中で生きることになった。そして今度は、憲法を否定した権力者が、憲法を改正しようとしており、この事実を私たちは深く受け止め、この状況をいかに打破するかを考えなくてはならない」として、「法治国家の原則が失われており、専制政治の状態に近づいている」と警告している。因みに、「憲法を守らない権力者は独裁者である」(小林氏)。
各章の記憶しておきたい文言を拾い上げると、第一章では、憲法を破壊した勢力の与党の国会議員の多くが、「そもそも、憲法とはなにか」という基本的な認識の欠如――憲法は、主権者である国民が幸せに暮らすために国家権力を管理するマニュアルであり、憲法を守る義務は権力の側に課され、国民は権力者に憲法を守らせる側であるという立憲主義を解さない――「憲法に違反するということに、なんの躊躇もない」という人たちだという。これは自民党のブレインだった小林氏の言葉だから真実だろう。
さらに小林氏は、「憲法改正草案は、自民党議員たちのお粗末な憲法観をストレートに表しているもので、鍵は、世襲議員たちで、自民党内の法務族、とりわけ改憲マニアとも言うべき議員のなかには、利権が絡まないので、票にも金にもならないが、地盤の強さだけで勝てる世襲議員が多く、自民党の憲法調査会には、不勉強なくせに憲法改正に固執する改憲マニアの世襲議員だけが残ってしまった」といい、樋口氏は「その典型が安倍首相」と補足。この自民党世襲議員のなかに現憲法は、アメリカに「押しつけられた憲法」と憎悪する者がいるが、小林氏は、「日本国憲法は、一般の人たちにとっては悔しくもなんともない。日本国憲法のもと、人権が保障されるようになったし、平和で豊かでよかったなというだけのことですよ」という。<GHQ管理下で制定された憲法ではあるが、単純に押し付けられた憲法ではないようで、今は押しつけ論を言い出さない状況にある>
それにしても、旧体制下の支配者の末裔の恐ろしい人たちに政権を渡してしまったものだと語る。また、小林氏は、憲法によって権力を制限し、憲法を権力に遵守させる立憲主義の危機の端緒は、「2015年夏の(安倍政権下で行われた)安保法制成立までに、三つの憲法破壊――憲法九条を無視した解釈改憲で自衛隊を海外派兵可能にしたこと、正式な憲法改正の手続きを飛ばして憲法の内容を変更したこと、国会議員に課された九十九条の憲法尊重擁護義務違反――があった」ことを上げ、「世襲議員たちが、いよいよ『憲法改正』を実現し、自分たちが社会を支配できるような旧体制(明治憲法以前)を『取り戻そう』としている」として、「10年前に、世襲議員の最も多い自民党が身を切る改革の一つとして検討した『世襲議員の制限』を世襲議員の弊害の観点から再検討すべきだと思う」という。
また、樋口氏は「<立憲>を理想とする側の人がどこまで<民主>をとり入れるのか。逆に<民主>を基本とする人はどこまで<立憲>のほうに拠ってくるか。そのバランスが重要だ」といい、小林氏も「多数派だったらなんでもできるという絶対民主主義は、非常に危ない。民主的な決定プロセスはもちろん大事だが、そのプロセスを経たとしても、憲法に書かれた人権を踏みにじるような結果にならないとも限らない。そこに歯止めをかけるのが立憲主義」という。
<この言からも、多数派だから少数派の意見を聞かず強行採決を連発し、民意(辺野古反対や原発廃止など)さえ無視する安倍政権を継続させることは非常に危ない。民主と立憲のバランスに関して言えば、橋下前大阪市長は、「民主的に選ばれたのだから好きなようにやらせろ」と常に言っていたが、安倍前首相も、そうやって憲法を軽視してきた。このバランスは、うまくバランスの取れる人間性の問題でもある。だからこそ、リーダーになる人に求められる最重要要件が人間性・品性なのだろう>
この章の最後に、樋口氏は、「立憲主義という『法の支配』も、民主主義という『人民による支配』も否定して、今進んでいるのは、自分たちの都合のよい、『法で人民を支配』する政治を自民党はやろうとしているのに、議員もメディアも、みんな鈍感になっているようで」、「次世代の人たちは歴史を振り返り、今を生きる人たちを恨むに違いない」という。
第二章「憲法草案が目指す『旧体制』回帰とは」で、小林氏は「この草案を読み解くことは、自民党がこの国をどうしたいのか、どういう社会を構築しようとしているのか、どんな価値を理想として見ているのかということが、しっかりと映し出されており意義がある」と言い、樋口氏も「憲法がなんなのかも分からずに政治家をやっている自民党議員による改正草案はあまりにひどく、自民党がとんでもない社会を目指していることがよく分かる」、「基本的におかしいのが、国家権力と国民の関係が逆転していること。草案では、国民に憲法尊重義務を課していて、近代憲法としては、この時点でアウト」、そして「自民党草案のように万が一、改憲されるようなことになれば、日本が金王朝の北朝鮮のようになってしまう」と、締めくくっている。
第三章「憲法から個人が消える衝撃」では、樋口氏は、「日本国憲法で一番肝心な条文をひとつだけ言えといわれたら、十三条のすべての国民が『個人』として尊重されることが憲法の要」といい、小林氏は、「『個人の権利』を常に否定したがる自民党の改憲マニアの性癖」、「人は人として生まれただけで幸福に生きる権利があり、幸福とはそれぞれが異なった個性をもっていることを否定せずにお互いに尊重しあうことで成立するので、その幸福の条件を国家は侵害するな、というのが憲法の要で、『個人』から『人』へのたった一文字の変更だが、この一文字を削ることは、日本の将来に禍根を残す」という。
第四章「自民党草案の考える権利と義務」で、小林氏は、個人という概念や生まれながらにもっている権利が、自民党の憲法改正草案では消去されているという事実を確認した上で、「同時に恐ろしいのは、彼らが国民に多くの義務を課そうと躍起になっている点だ」と指摘。自民党の改正草案の第十二条(国民の責務)に、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない」とある。「『権利には義務を伴う』という話は、正しく聞こえるが、憲法における『権利と義務』は、そういった代償的な関係にはなく、どうして国民が権利を得るために、国民に義務が発生するのか。自民党の説明は説明になっていない」と説く。さらに樋口氏は、権利と義務について明治の政治家・伊藤博文の有名な以下の言葉(明治憲法の草案を枢密院で審議していたときの発言)――「仰(そもそも)憲法ヲ創設スルノ精神ハ、第一君権ヲ制限シ、第二臣民ノ権利ヲ保護スルニアリ」(『帝國憲法制定會』岩波書店〔一九四〇年〕)、歴史に名を遺す明治の元勲たちが『憲法は権力者を縛って、人民の権利を守るものだ』」を紹介。これを受けて小林氏は、「自民党の政治家にきかせてやりたい」、「安倍さんも伊藤博文と同じ長州人なのに、これを受け継ぐ誇りはないのでしょうかね」と、嘆く。関連して、改憲論者で、「美しい日本の憲法をつくる国民の会」共同代表の櫻井よしこ氏が講演で「権利と義務のバランスを取り戻さなくてはいけませんね」と論じたのを、小林氏が「現憲法の権利を定めた条文に、馬鹿みたいに義務なんか添えなくても、ちゃんと好き勝手にするなと書いてありますから、嘘を教えないでくださいね」と指摘したら、「櫻井さん、顔面蒼白で言葉がなくなっちゃった」を紹介。
<基本的なことが分かっていないまま、あちこちで講演をやっている櫻井氏も、講演依頼をする者も恥ずかしくないのだろうか>
第五章の「緊急事態条項は『お試し』でなく『本丸』」で、小林氏は、「自民党が緊急事態条項の新設に躍起になっているのは、『俺たちの好きにさせろ』と言っているのに等しい。改正草案の緊急事態条項では、内閣が『はい、これから緊急事態!』決めてしまえば、それだけで、立法権は内閣のものになる。今のように与党が過半数を超えているときに緊急事態の宣言を行えば、次の選挙が行われるまで何度も延長は可能で、権力はフリーハンドでやりたい放題」で、「議員の任期延長宣言を重ね、与党が過半数を維持すれば、ロジックとしては『永遠の緊急事態』をつくることも可能」と、その危険性を指摘している。これが、「民主主義的な選挙によってナチスが第一党になり、首相になったヒトラーがワイマール憲法そのものを実質的に無効化してしまった」(樋口氏)のであり、小林氏は、「今は、2013年に麻生太郎財務相の発言『ナチスの手口に学んだらどうか』の通りのことが起きている」と指摘。
<緊急事態条項が憲法に入れば、選挙を1年先送りにされた香港、そして上記のヒトラー政権のドイツが日本で再現されることになる>
この本丸(国民に義務を課す緊急事態条項)について、小林氏は、「この緊急事態条項は、内閣が緊急事態であると認定した瞬間に、三権分立と地方自治と人権保障を停止するという、大変危険な条項で、これは日本国憲法そのものを停止させ、独裁制度に移行する道を敷くのと同じだ」といい、「緊急事態の宣言が発せられた場合には、国民は、『国その他公の機関の指示に従わなければならない』と改正草案(九十九条三項)にあり、憲法に、国民の義務が書かれてしまう。現行の国民保護法では、国民への要請は協力を求めるという形でしか規定されておらず、あえて国民に協力の義務を課していないが、改正法案の緊急事態条項では、『従わなければならない』としている。つまり、権力の側に「憲法を守れ」と言うより先に、国民に「憲法に従え」と言っている。国民が国家に注文をつけるものが憲法だが、国民に『憲法に従え』というこの草案は、もはや近代憲法ではない。緊急事態条項は、永遠の緊急事態を演出し、憲法を停止状態にすることができることだ」と言う。
樋口氏は、「『憲法改正』のこの真実を、そしてこの事の重大さを国民は知らなくてはいけない」といい、「現代のまっとうな立憲主義国家では、緊急事態に対する法制を実際に運用しようとするときには、裁判所による監視と抑制の仕組みが必ず採り入れられている」として、「そもそも緊急事態が発生したのか、それにどの程度の緊急性があるのかについても、裁判所が独自に認し判断する権限がなければならない」(『日本国憲法に緊急事態条項は不要である』「世界」二〇一六年一月号)と、指摘。
しかし、「統治の根本に触れる、あるいはきわめて政治性の高い行為については司法は判断しないということが、日本の判例になっており」(小林氏)、「もし司法が力をもたない状態のまま、緊急事態条項を導入するとしたら、恐ろしいことに誰も肥大化した行政をチェックできない」(樋口氏)。「アメリカにも国家緊急権はありますが、司法が強く、連邦最高裁判所の判事に選んでくれた恩義のある政党に対してだって、遠慮なく違憲判決を出せる風土があり、自立した人々が、権力分立を機能させるアメリカと、日本は全然違う」(小林氏)と説明。<日本の司法は、原発訴訟などで見られるように、政権に忖度しており、情けない存在なのだから、緊急事態条項が成立したら日本は暗黒時代に突入>。
第六章の「キメラのような自民党草案前文――復古主義と新自由主義の奇妙な同居」で、前文に潜む大問題として、樋口氏は、「憲法にもちこまれた道徳は日常も縛る」を上げ、「『家族を尊重せよ』というのは道徳でしょう?憲法に道徳をもちこむことの危険性は、いろいろな角度で指摘できると思います。一種の思想統制の根拠となっていく可能性もある」と指摘。小林氏も「法と道徳を混同するな、というのは近代法の大原則」で、「法と道徳は峻別せよ、と何度言っても、彼ら(自民党の世襲議員)は聞く耳をもたない」という。「憲法に道徳的な規定を盛りこんだら、どうなるか。たとえば放蕩息子が馬鹿な借金をつくったとき、連帯保証人になっていなければ、親がそんなことは知らんと、現在なら言えますが、『家族なのに親が息子を助けないとは、公序良俗に反する。憲法違反だ』とやられたら、どうします。また離婚協議中に相手の悪いところをあげつらったら、『家族のくせに協力しないとは、憲法違反だ』と反論されるかもしれない。結婚という人生のなかの大きな決断が失敗だと分かったときに、離婚して新しい人生を再開させる。そんな当たり前の自由が、この草案では否定される可能性がある。家族尊重の義務が憲法に入るとはそういうことです。不用意に、道徳的なものを憲法に盛りこんだら、日常生活レベルでも混乱が広がることは必至」といい、「自民党が、明治憲法下の日本がもっとも狂乱していた、まさにあの戦争後半の一〇年間くらいの社会を理想としているのは確かですね。全体主義が支配し、一部のエリート――それは、今の三世議員、四世議員の祖父たちでもあるのでしょうが、彼らが国民を支配していた時代を指して、自民党は『昔は良かった』と繰り返している」と、自民党を仕切る世襲議員たちの狙いの危険性を明かしている。
<また三木義一(よしかず)(当時青山学院大学長)も、東京新聞の本音のコラム(2019.7.25)で、「国会議員は、私たちの税金を決定し、その使い道を決める人たちだ。いわば国民の税金を預かり運用する仕事である。その仕事を家業にすることが民主主義社会として許されるのか、私には疑問である」、「世襲議員の背後には、不公正な税制度で甘い汁を吸っている選挙人たちもいる」と、世襲議員の弊害を指摘している>
復古主義と新自由主義の奇妙な同居の項で、安倍政権は、「世界でもっとも企業が活動しやすい国」を目指すと、外国のお金持ちばかりが集まるダボス会議――新自由主義者たちの会合――で宣言したが、樋口氏は、「自民党の憲法改正草案が憲法になれば、(格差拡大を生んだ)新自由主義が国是になってしまう」といい、草案の前文の「活力ある経済活動を通じて国を成長させる」に対し、自民党のブレインだった小林氏は、「まさに財界向けの草案で、要するに我が国は、金儲けを国是としますよ、ということ」だといい、さらに「新自由主義は、ごく一部の人たちだけが儲かるシステムで、たとえば労働市場を自由に、ということで派遣業が儲かれば、あの竹中平蔵氏*2が会長を務めるパソナの利益があがるだけで、労働者にはなんの得もない。新自由主義のような馬鹿げた方針を憲法の前文に書き、復古的な美辞麗句でごまかしていたら、この国は滅びますよ」と辛辣に批判。
さらに、樋口氏は、「効率重視、効率の拡大を進めて、無限の経済成長を目標に置けば、『国土と郷土』『和』『家族』『美しい国土と自然環境』『良き伝統』の全部は壊れる」という。
<浜矩子*3の考えを援用すれば、新自由主義者の竹中平蔵氏は、全体主義を目指している安倍政権と共謀して、富める者をより強く、強き者をより強くするために動いている>
「日本国憲法の要は、『すべての国民は、個人として尊重される』という十三条の条文」だが、「改正草案では、経済活動の自由を最大限に保障する代わりに、個人の心の自由という非常に大切な領域を、一見、善意に満ちた道徳的なスローガンによって、踏みにじっており」(小林氏)、「しかも、グローバル化を推進し、新自由主義に基づく政策を続けるうちに、個人が個人として生きていくことがとてもつらい社会をつくってしまったことを反省せずに、それを憲法前文で国是にしようとしており、現在の政権中枢ないし周辺にいる人たちの、人間性そのものが問われている」(樋口氏)という。
第七章「九条改正議論に欠けているもの」では、憲法第九条に関して、小林氏は「第二次世界大戦前の支配者の孫たちが、中国・韓国との関係を改善する努力を怠りつつ、安全保障の環境が悪化したと主張し、『米軍の二軍』で構わないから軍隊を持ちたいという理由で、憲法九条を書き換えようとしたが、それができないから、とうとう違憲の安保法制を通してしまった。そして今度は、憲法のほうを安保法制に合わせようとしている」という。
九条改正議論に関して、護憲的改憲派の小林氏は現状の九条の精神を明確化するという立場で私的な改憲案を以下提案している。
<小林氏の私案は、現憲法(平和憲法)を基本スタンスに、且つ国際貢献など具体的に記述し、解釈改憲を許さない形になっており、意志(いし)道(どう)も方向性に賛成>
小林氏私案:「歴代の内閣法制局の解釈の明文化です。まず、九条の平和主義は維持。そのうえで、個別的自衛権の保持を明記。日本国憲法はその前文で、『諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した』と掲げており、これは素晴らしいことで、問題は平和主義を堅持しながらも、日本の領土や主権を侵害してくる事態に、どう対処するかだが、九条に『日本が攻撃された場合には、自衛のために個別的自衛権を行使する』と書き込む。『個別的』と限定することによって、安倍流にアメリカに追従して、集団的自衛権で世界のどこまででも戦争に行きますよというようなことを防ぐ意味もある。あくまで個別的自衛権を行使するために、専守防衛『自衛軍を保有する』と明記する。
もうひとつの要点は、日本は経済大国ですから、国際社会の一員として、自衛軍を用いた国際貢献は行うとする。これは民生部門での協力だけではなくて、集団安全保障ということになる。つまり、世界の秩序を乱すものに対しては、国際社会が協力して警察官となって対処する。その活動には参加するよ、ということ。そして、それが正当なる活動に限定するために、事前に国連安全保障理事会の決議を要する、と明記する。これなら、同盟国アメリカの要求で組織されるような有志連合には、憲法上、絶対に日本は参加できないと言い続けられる。有志連合は、国連決議(国際社会の合意)なしでアメリカが勝手にやっていることですからね。そして、軍の暴走を排除するためにも、海外派遣に際しては国会の事前承認を必要とするとも明記する――集団的自衛権は行使しない。しかし、交際連合が求める集団的安全保障には貢献するということ。
このように歴代の内閣法制局が示してきた見解を明確にして、現行の憲法に自衛隊もきちんと位置づけられていれば、二〇一四年の閣議決定による解釈憲法も、二〇一五年の安保法案可決も不可能だったはずで、現行憲法と自衛隊の関係性が曖昧だったせいで、憲法が乗っ取られてしまったことを防げる。勝手な解釈を許さない九条を将来的にはつくりたいし、そういうまっとうな議論ができる土壌をまずはつくっていきたいというのが、私の改憲論。」
これを受けての樋口氏は、「九条を戦後、ずっと保守してきたことの価値が出てくる。日本政府の戦争責任に対する姿勢は不十分なものであったが、主権者たる国民が、九条を廃棄させずに、保守してきたことが、世界の多くの人々のあいだで信頼を受ける日本という地位をかろうじて築いてきた。専守防衛のための国防軍をもつというならば、徴兵制であるべきで、全国民が、女性も含めて、短期間ずつでもその軍に関与していく必要があると思う。戦争が好きな者だけで軍隊をつくれば、(かっての関東軍のように)国民的な常識から乖離した集団になってしまう。志願制という意見もあるかもしれないが、私は反対。現にアメリカでは、表向きは志願制だと言いながら、貧困層だけが志願する経済的徴兵制が問題になっている。国民のための軍隊だと言うなら、貧しい若者だけに負担を押しつけ、血を流させるという方法は公正だと思えない」。これに続けて、小林氏は、「今の改憲を提唱している政治家たちは、まさに兵站なきあの戦争を遂行した人たちの子孫ですからね。その世襲議員一族は、間違いなく徴兵逃れを画策するだろう」と加えた。
戦争責任のドイツと日本の違いについても二人は言及。ワイツゼッカー(1984―1994ドイツ連邦共和国大統領)は、「祖父世代のドイツ国民が犯した「負の遺産」を免れることはできない。引き継がれるのは罪ではなくて、責任である。子孫を罪からは解放するけれども、責任はドイツ国民全体が背負い続けるのだ」という樋口氏の言葉を受けて、小林氏は、「なるほど、『未来志向で考えて、過去の話は、無しにしよう』という安倍首相の談話のレベルと一緒にはできないですね」、「未来の世代に責任はないと言って、喝采を浴びた安倍談話をワイツゼッカーの重い演説と同じにしては、あまりに失礼ですね」と語る。
<「無かったことにしよう」という安倍首相の言葉は、被害を被った側が言うのはいいが、加害国の首相が言うべき言葉ではない、と思う>
加えて小林氏は、「アメリカがはじめた戦争でまともに終わった戦争はない。ヴェトナムもアフガニスタンもイラクも、結局は動乱が拡大した。むやみに戦争をしたがるアメリカに日本がついていったら、新しい敵をつくるし、人も殺さなくてはならないし、国内ではテロによる報復を恐れなくてはならない。しかも軍事費*4がかさんだ揚げ句、アメリカのように国家が破産寸前の状態に追い込まれる」といい、「九条があったからこそ、日本は海外で戦争をしないですんだということで、最近このことをしみじみありがたく感じます。こう言うと、『平和主義というお題目で戦争を防げるのか』という反論がすぐに返ってきますが、少なくとも、アメリカの戦争につき合わなくてすんだのは、まぎれもなく九条の効果」と言う。それを受けて樋口氏も、「確かに、日本が他国から襲われなかったのは、日米安保、つまり米軍と自衛隊の存在のおかげでしょう。しかし、冷戦時代に世界各地で戦争が絶えなかったなかで、アメリカの軍事的同盟国でありながら、日本が外に出ていって戦争をすることなく戦後七〇年を迎えることができたのは、まぎれもなく憲法九条のおかげで、派兵できない、とアメリカに言えたのです」と。さらに小林氏は、「九条がある以上、日本が派兵できないことをアメリカ側ははっきり認識してたんですよ。いくらアメリカがわがままだとはいえ、他国に憲法を無視せよとは言えなかった。さすがにあの超大国も立憲主義の国ですから、そういう意味で、九条は防波堤になってきた」と同意。
<『街場の戦争論』で内田樹(たつる)氏は「国連拠出金がアメリカに次いで世界第二位の国であり、平和憲法を掲げ、戦後一度も海外派兵をしていない、つまり世界のどこにも敵のいないはずの国だから2020の東京オリンピックが決定した。けっしておもてなしではなく、オリンピックが誘致できたのは、安倍首相が嫌いな第九条のお陰」と言っている>
小林氏は、ホワイトハウス高官から直に、「日本はいつ九条を変えてアメリカとともに戦争できる国になってくれるんですかね」と聞かれたようだ。改憲を提唱している兵站なき戦争を遂行した人たちの子孫である安倍首相(当時)は、集団的自衛権行使容認を日本の国会で議論する前に、アメリカ議会で米国の意向に応えた。国民の命を守ってきた防波堤(憲法九条)を壊した安倍は、国民を戦争に送る売国民奴!?>
小林氏は、このようなことが起きているのは、「小選挙区制で、地盤の強さで勝てる議員だけが残り、党内から実力派の議員が消え、党本部に逆らえない世襲議員ばかりになった」からだと言う。
第八章「憲法制定権力と国民の自覚」で、小林氏は、「三分の二という改正のハードルを一般法律と同じ過半数とする憲法九六条先行改正というやり方をひねりだしてきた。権力を握っている人たちに、簡単に憲法を改正させないのが、憲法の当然の前提なんですよね。だから、三分の二以上という特別多数決で縛っているところを外そうなんてこと自体がそもそも、不見識のきわみ」で、「改正しやすい憲法になったらそれは憲法ではない、そういう動きは怪しいものだと覚えていてほしい」といい、樋口氏は、「法律の改正のような基準で憲法の改正を認めていたら、社会が安定しません」という。
樋口氏は、「欧米のメディアは、安倍政権は保守政権ではないと見抜いていて、革新ナショナリスト勢力だと書いていた。日本の新聞は、いまだに保守政権として分類しているが、とんでもない。戦後の体制を離脱する、あるいは壊したいと言っているのだから、今の自民党は革命政党です」、「集団的自衛権を行使できるようにした二〇一四年七月一日閣議決定による憲法九条の解釈変更が大きな区切りだったが、二〇一五年九月に決定的になった。衆院憲法審査会で小林先生が長谷部恭男さんらと安保法制を『憲法違反』と断じて大きな抵抗のきっかけとなったが、二〇一五年夏の国会審議の模様を通じて、権力が憲法を遵守しないという異様な状態があからさまになった」と言及。
小林氏は、安倍政権の一連の壊憲について「憲法擁護義務のある権力者が憲法を擁護せず、違憲立法まで行うこの状況は、クーデターと言っていい」と樋口氏の見解に同意。また樋口氏は、「安倍政権の場合は逆に、権力を掌握して独裁的に国会運営をして、実質的に憲法停止状態をつくってしまっているが、日本国憲法というのは、立派に我々の望む生き方を支える社会の基盤として、良い『はたらき』を見せており、『うまれ』にこだわって、これを正当な憲法と言わないのはおかしい」と指摘し、「確かに、ポツダム宣言を蹴って、国民全員が死ぬまで戦う道だってあった。悠久の大義を貫くために死になさいという教育を、現に私たち世代は受けていた。しかし、大日本帝国はそれを選ばず、主権の行使としてポツダム宣言を受諾した。だから、押しつけ憲法だから嫌だ、と言ったところで、仕方がない。ポツダム宣言受諾という決断をして、自分が始めた戦争をともかくも自分の意志でやめることにしたのですから」という。
憲法制定権力者としての国民の自覚の項で、小林氏は、「連合軍が事実上、憲法制定権力を行使して日本国憲法ができて、名義人は日本の国民大衆になった。幸い、とても良くできた憲法をもつことになった。だから、憲法制定権力を握った連合軍による押しつけ憲法で構わない。国民主権と人権尊重と平和主義を基本理念とする日本国憲法は、私たち一人ひとりが幸福の追求ができるように書かれた立派な憲法なのだから」とした上で、「違憲政府を倒す運動、この憲法奪還の運動が成功すれば、はじめて我々が革命を体験することになりませんか」と述べている。
第九章「憲法を奪還し、保守する闘い」で、小林氏は、「安保法制という名の戦争法案が成立してからというもの、政府が憲法を反故にするという異常な状態に突入している。憲法によって縛られるはずの権力者が、憲法に違反する立法を行い、その後も、憲法をいいように解釈したり、無視するような政治を続けている。まさに、憲法停止状態。憲法を無視するということは、権力者が専制的に国民を支配する(独裁化の)前兆で、このような権力者に対しては、護憲派も改憲派もその違いを乗り越えてともに立ち上がり、私たちの憲法を取り戻さなくてはならない。現在は幸いまだ「投票箱」が機能している。反故にされた憲法を奪還するためのこの戦いにおいては、言葉という武器が有効です。その言葉を用意するのが、この局面での憲法学者の使命だ」と、決意表明。
樋口氏は、「あの改正草案を法の専門家が読めば、その理想とする国家像は、欧米をはじめとする近代立憲主義国と価値観を共有する道から日本は引き返し、東アジア型の権威主義、専制主義の国家に向かうようなものだと言わざるを得ない。これは、近代国家の否定で、普通の国の原則を捨て去るということ。こんな思想をもつ人々が、現在の日本の権力の中枢にいる」といい、小林氏は、「目指すところは、独裁国家、北朝鮮。つまり、①主権者・国民が権力担当者を縛るためにある憲法で、逆に、権力者が国民大衆を縛ろうとする②各人の個性を尊重することこそが人権の本質なのだが、それを否定して、国民すべてを無個性な『人』に統一しようとする③海外派兵の根拠を憲法条文の中に新設し、その実施条件を国会の多数決(時の政権の判断)に委(ゆだ)ねてしまう④国旗・国歌に対する敬譲や家族の互助といった本来、道徳の領域に属する事柄を憲法で規律する。まさに、皇帝と貴族が支配する家父長制国家」と、総括。
そして、樋口氏は、「自民党の改憲勢力は、戦争の責任を否定し、一方で、正当な誇りをもってよい歴史については、あまりに無知。明治体制のもとですら、立憲政治を確立すべく帝国会議の議員たちは、藩閥・軍閥政治と緊張関係をもって政治を行ったという誇りを持つべき憲政史を忘れている」といい、小林氏は「要は改憲マニアたちが目指すのは、天皇機関説事件で憲法なき社会になった後の大日本帝国で、そうした戦前期の支配層の子孫たちが望む社会に、私たち国民は戻りたいのか。要するに、支配層に仕える臣民に戻りたいのかが問われている。『殿様』気分の政治家に対して、君たちは雇われの身なのだ、とつき放す力が本来、国民にはある」という。さらに小林氏は「この後日本が専制国家になったら、次の世代の人々は、「引き返えせるときに『知る義務』を怠ったのは誰だ、というでしょう。その責任は、まさに、今、投票権をもっている私たちが負うべきものだ。政治家や官僚を暴走させないように主権者・国民が権力者たちを管理する憲法が遵守されていない今は異常な状態であり、そんな状況でつくられる憲法は危ない」と指摘。
<これが“安倍政権下での改憲は許されない”、の意味>。
樋口氏は、「日本社会の構造という意味でのconstitutionまで破壊している。日本銀行、内閣法制局にはじまり、日本放送協会まで、戦後を支えてきた社会の構造を次々に破壊しようとしてきている。市民に『知る義務』を果たしてもらうには、『言論の自由』が残っているうちが勝負だ」と、今が分岐点だといい、小林氏は、「『戦後レジームからの脱却』と言いつつ、対米従属を強化、そのくせ国民に対しては戦後の自由の価値を否定して、東アジア的な専制をねらう。この体制が定着しないうちに、憲法を奪還しなくてはなりません」という。
討論を終えて、樋口氏は、「戦後七〇年の自国史を支えてきた基本法を『みっともない憲法』と呼んで国民の矜持を傷つける政治の最高責任者。この政治勢力に基本法を左右させて良いのか。自分自身としてなにができるか。共著者二人のあいだで、そして読者とともに問い続けてゆきたい」と締めくくっている。
<注記>
*1 広辞苑:「ギリシアの神話で、ライオンの頭、山羊の体、蛇の尾をもつ怪物」。
*2 竹中平蔵:(樋口氏曰く)ダボス会議(新自由主義者たちの、外国のお金持ちばかり集まる会議(格差社会が自由主義を壊すことについては論じない)。最近では、農協改革、大学改革、そしてTPP(環太平洋経済連携協定)と、日本の美しい社会基盤を壊す政策ばかりで、小林氏は、「たとえば労働市場を自由に、ということで派遣業が儲かれば、あの竹中平蔵氏が会長を務めるパソナなどの利益があがるだけで、労働者には何の得もない」と語っている。最近でも、経産省と電通と結託した持続化給付金の再委託問題にも絡んでいて、まさに竹中氏は政権の奥深く潜入した悪徳政商。
*3 浜矩子の時代を読む「自由主義を蝕む新自由主義」(東京新聞2019.7.7)に、自由主義と新自由主義の意味について以下がある。「自由主義の自由であるということは、隷属していないということ。自由な人は、権力の圧政から守られている。自由な環境の下で、人々は何ら不当な制約を受けずに自己決定することができる。自由な個人は、その基本的人権を侵害されない。(中略)自由な人々は、お互いの自由を尊重する。だから、相異なる文化や思想信条の持ち主たちがお互いを受け入れ、共生することができる。問題なのは自由主義ではなくて新自由主義なのではないか。(中略)ざっくりいえば、そこにあるのは、市場の力への盲従と弱肉強食への礼賛だ。このような特性を持つ新自由主義は、容易に国家主義と結びつく。なぜなら、市場による容赦なき選別が進み、強き者がひたすら強くなる世界は、国家権力の基盤固めと反体制勢力の排除を目指す者たちにとって、実に好都合だからである」
*4 「第九条は平和主義を誓っているが、日本は現在、世界で八番目に大きな戦力を持っている」(『揺れ動く大国ニッポン』1988著)現在は、非核保有国で最強の軍備。 以上