<読書・学び> 「読書は深考のための手段である」(田辺昇一『人間の魅力』)であり、福沢諭吉のいう独立自尊への入り口。
1)文字は人類最高の発明で、これほど人間に価値をもたらしたものはない。『本を読む本』(M.J.アドラー、C.V.ドーレン共著)という面白いタイトルの本に「精神の成長は人間の偉大な特質であり、ホモ・サピエンスと他の動物とが大きく違っているのもこの点である。動物にはこのような成長はみられない。だが人間にだけ与えられたこのすぐれた精神も、筋肉と同じで、使わないと萎縮してしまうおそれがある。(中略)それは精神の死滅を意味する恐ろしい病である。多忙な生活を送っていた人が、引退すると急に衰えがくることが多いのもこのためである」とあり、さらに「自分の中に精神的な貯えをもたなければ、知的にも、道徳的にも、精神的にも、われわれの成長は止まってしまう。そのとき、われわれの死がはじまるのである。
積極的な読書は、それ自体価値のあるものであり、それが仕事のうえの成功につながることもあるだろう。しかしそれだけのものではない。すぐれた読書とは、われわれを励まし、どこまでも成長させてくれるものなのである」とあった。体験しなくても本を読んで精神修行できるのである。
2)「学問なんていうのは、何も書物をたくさん読んでいることではない。本当に考えて書を読む。書を読んで考える。そこに本当の学問がある」(安岡正篤『酔古堂剣掃』)。
そして「いい書物の条件とは、『人生いかに生きるか』をどれだけ深く考えさせてくれる本であるか、といえるでしょう」(『跡無き工夫』)。
3)「交友関係と同じように良書とふれ、その最良の部分を見習うことが大切だ。(中略)新らしい本を初めて読むより、古い本をくりかえし読むほうがよほど得るところは大きいはずだ」(『自助論』)。古典は「眼光紙背(しはい)に徹す」に値する書物で、時間の洗礼を受けた古典からは数千年の知恵が得られる。それはニーチェも言っている。古典には賢人たちの叡知が熟成されている。そこで以下の書物を薦める。
・『言志四録』と『采根譚(さいこんたん)』:「佐藤一斉の『言志四録』は、西郷南洲をはじめ、多くの明治維新の志士たちが愛読し、暗誦したものといわれていますが、これは人生の書として、行動の指針として、不滅の価値をもつものであり、中国、明代に著された『采根譚(さいこんたん)』とともに、この書を座右の書とする人は多いといわれます」(鎌田茂雄『己に克つ生き方』)。
・『近思録』:「幕末・明治の人間は、少なくとも当時の指導者階級であった者は、みな幼少時から『近思録』を叩き込まれ、これで訓練されてきたのである」(山本七平『人望の研究』)。
・「大学」「論語」「孟子」「中庸」の四書。
4)「思考力に限界はない=考え抜けば答えは出る」(船川淳志著『思考力と対人力』)。その上で「人生は“学び”の連続」であり、「満ち足りた人生を送っている人たちは、いくつになっても何かを学んでいる」(『HAPPIER』)のである。
梅原猛氏は、仮説をつくりだすのが学問であり、その仮説をつくるには、言われてみれば当然なのだが「まずは定説の部分をしっかり理解しておかなければならない」(『16歳の教科書』)。数々の仮説をつくりだし話題を提供してくれている梅原氏の学びのスタイルは、「まず、疑うことから始める。常識を疑っていく、いままでの通説を疑っていくわけです。(中略)それは懐疑といってもいい。懐疑がやはり学問の基礎なんです。とくに哲学という学問は、その懐疑の学問といっていい。ソクラテスもやはり懐疑から出発しています。近世の哲学者、ルネ・デカルトという人も懐疑が出発点です。懐疑がないと、学問はだめです、そうして、ずっと懐疑を追求していると、ある日、突然、答えが見つかる。(中略)懐疑と直観。それから粘り強い演繹と帰納、それで、はじめて学問ができてくる。これは自然科学でも、人文科学でも同じです、学問というのはその過程なんです。
それは頭がいいというだけではできません。いや、むしろ頭のいい人にはできないといってもいい。とくに世渡り上手な人にはできない。なぜならば、常識を疑うということはたいへんなことだからです。これは孤立することを意味する。いままでの学問とちがった前提に立つわけですから、今までの学者をみんな敵にしてしまう。
利口な人は、そんな危ないことはしません。直感がひらめいたって、それを抑制してしまう。『こんなことをつっついたら危険だ』と自己抑制して追究しない。そういうことが続くと、だんだんひらめかないようになってしまう。ひらめきのない学問ほど、おもしろくないものはありません」(『仏のこころと母ごころ』)と、励ましの言葉である。
5)信念の経営者ともいえる伊藤忠商事名誉理事の丹羽宇一郎氏は、「読書でしか得られないものに論理的な思考力がある。物事を掘り下げて考える力や、本質をとらえる力は読書をすることで培われる。考えながら読書をしている人と、そうでない人は思考の仕方に違いが生じ、二十年ほど経つと、その差は歴然としてくる」(『危機を突破する力』)。「自分で考える読書が本当の読書」で、「論理的にものを考えるための訓練は読書以外にない」と言い切っている。さらに人生に大切な相手の立場に立って考えるには、人と共感する力と想像力が必要で、「人間の想像力を広げる唯一にして最大の方法が読書」であり、「読書のない人生を送ると、一人前の大人として成熟するのは難しい」と読書の力は絶大と評している。“時間を見つけたら読書!”なのだ。
6)読書ではないが、本を書くということは、「古い自己を乗り越え、人間として新しく脱皮したことの証である。それは決して個人的な自己満足ではなく、同じ人間として自己を超克しえたという例を示すことによる、他の人々への励ましであると同時に、読者の現在の人生に対して謙虚に役立とうとする奉仕の行いでもある」(『超訳 ニーチェの言葉Ⅱ』)。書くということは、自分の考えをまとめつつその考えを自分のものとして強化させる力を持つ。
7)引き続いて、読書と書くということについて、知の巨人 立花隆氏の話を記す。クローズアップ現代(2014.12.10)「広がる読書“ゼロ”~日本人に何が~」に出演した時の話だが、「文章が自分に与えるイメージ、ある文章を通してその人の脳を刺激する仕方は人によってものすごく違う」ということを前提に、司会者の問い「立花さんが、本を読むことで、思考力。発想力を培ったのに役立ったのは?」に対して、「本は、ひとまとまりの知識が獲得できる総合メディアだ。人間の脳というのは、基本的に、知・情・意が総合されている。知とは、知識。情は、感情。意は、意欲とか知識。それが全部あるのが脳。本を語るとき、一般に知のメディアと考えるが、本は、情の部分がものすごく大きく、意の部分がものすごくあって、いろんな人物の行動を通して、人間の意志の世界、それにどれほど人間が突き動かされて、その中でどういう判断をするかが重要なのかを学習することができ、その人の人生にとって、ものすごく重要。本は、そういうことを物語化した、エピソードの集積によって、その人が学習する。いろんな人の意を決する場面というものが、どういう結果をもたらしたか、それは本を通して疑似体験を自分の中に入れることによって学習できる。全部合わせた体験を与えてくれるのが本というメディア。本は、総合メディアとして考えなくてはいけない」と言う。
また、「思考力を鍛える上で何をするか?」との問いに対して、「読むだけではなくて、その次のステージとして、アウトプット、つまり何かをまとめて書くという体験に行かないと、より読書が深められない。知識を深める、知的な内容のものを深めるだけでなく、その全体をまとめるためには、書くということが必要。これが、考える力が付くことにつながる」と言っていた。何事もそうだが、血肉化には、自分で考え、まとめることが人格形成の智慧になるということだろう。
8)最後に「書物をひとりで読むということは、あらたな道を一人で切り開いていくと
いうことにほかならないのである」(『孤独な群集』)。