(1)正しく生きるための考え方
人生は長距離障害物競走に例えられるが、トラックレースのような平坦で整備されたところだけを走るのではなく、トライアスロン・レースと山岳レースの混合コースを、時には未踏の地をひとりで進まなければならない。現代社会は、過剰なほど競争を煽る資本主義社会であり、生きていくためには他人にかまわず自己の利益のみを追求しなくてはならない我欲社会とも言える状況にある。それは、誰も逃れる事の出来ない生きる上での必然である苦(障害)――仏陀の弟子がまとめた八つの苦しみ「生・老・病・死」「愛別離苦」「怨憎(おんぞう)会苦(えく)」(恨んだり憎んだりする人と会わなければならないという苦しみ)「愚(ぐ)不得苦(ふとっく)」(求めるものが得られないという苦しみ)「五蘊(ごうん)盛苦(じょうく)」(健康で心身が活発であるのに、かなえられないものがたくさんあるという苦しみ)――を含め、煩悩がもたらす多種多様な障害が襲い掛かる過酷な世界であり、人間らしく生き抜くには強靭な精神が求められる世界でもある。
この世で様々な苦(障害)に遭遇したとき、何かを拠り所に、その時々で納得性を得ながら生きていく、障害と対峙しながら頂(いただき)(人間としてあるべき姿)には立てないだろうが精神的に成長して行かねばならない存在が人間なのだが、そのためには「人間として何を大切に生きていくか」という信条――物事を正しく解釈し、判断・行動の規範(基準)となるべき基本的考え(信条――が定まっていなければならず、人として正しく生き抜くための基本的考えを心底に刻み込むことが最重要かつ最優先課題だと思う。これは苦難や障害に遭遇した時に、苦しみを消し去り心に平安と元気をもたらす自分自身の隠家(かくれが)となり、生きる上での心の支柱となる。
人は自分の考えに沿った意見が心地よく、強く心に感じ、汲み取る。換言すると、自分の中にあるものを拾い上げる。人としてどう生きるかが定まっていないと、人の行うべき正しい道、道理を守ることよりも物欲、金銭欲、名誉欲や権力欲を優先するという考えを持つ可能性も出てくる。そしてその考えは人生経験を通じて常道下され、人として恥ずべき人生を送ることにもなる得る。基本的考えが道理にそったものであれば、さまざまな経験、あらゆる知識の中から基本的考えに合致するものを抽出し汲み取り、その考えが強化される。
また、世の中に、人生をいかに生きるかというHow-to本は多々あるが、同じ状況、同じ問題は何ひとつなく、問題に遭遇するたびにHow-to本を紐解いて問題を解決してもその場かぎりの対処法で終わってしまったり、いろいろな場面で己の利害損得で物事に対応したり、他人の考えに振り回されたりと、人生経験が自分の肥やしにはならず、自らの意志で生きているという手ごたえが感じられない納得性の乏しい、虚無的な人生を送ることになるだろう。さまざまな経験を生きる糧にするためにもHow-to本に頼らず、自らが考え抜いた信条(基本的な考え)――人の道に沿った倫理的な判断基準――に即して自らが考え、苦(障害)を乗り越えることである。
基本的な考えによって、どのような事態に遭っても納得性の高い判断と行動が可能になり、その積み重ねが人格形成に繋がる。基本的考えは、意義ある人生を歩むためのパスポートといえる。
何を大切に生きるか(基本的考え)で、人生の質が決まる
基本的考えは、その人の人生観となり、どのように定めるかで、その人の人格と人生の質を決めることになるだろう。道理(人の行うべき正しい道)にそった信条は内省の習慣化によって強化・深化し、どのような環境、境遇下にあっても正しく生き抜く推進力となる。したがって、道理に沿った自らの信条(何を大切に、どう生きるか)を出来るだけ早い時期に定めたほうが良い。それは、過激化する競争社会、情報化社会に飲み込まれず、且つ煩悩に惑わされずに浩然(こうぜん)と生きるためにも欠かせない。
乙川優三郎の『露の玉垣』(新潮社)の中に、自分の生き方を貫こうとする主人公の勘定方が、少録から勘定奉行になった寡黙な老奉行を評する次のくだりがある。「男が登りつめた道を思うと、手の届く可能性を感じる一方で、彼にあって自分にはない人間の核のようなものが人生を決めるような気がしていた。情況に振り回される人間と、目的のために情況を変えていく人間の違いでもあろう。頭では分かっていながら判断が甘くなるのは、信じられるものが自分の中にないからであった。体裁にとらわれない、したたかな老人を見ていると、彼の独自性にあやかりたい気がする」。人間の核――人として何を大切に生きるかという人生の価値観「生き方・信条」――がその人の人格、さらには人生の質を決めている。
基本的考えは、人間として生き抜く上で時代が変わっても変化することのない不易なるもの、すなわち人間の本性、良心に則したものであり、人間に備わっている仏性を感じ意識することで自然と心の中から滲み出てくるものだと思う。人生経験を通じ、シナプス結合が進み、雪達磨式にその考えは強化され、人格を形成していく。さらに、この基本的考えを信条として強く意識することで、もうひとりの自分の心(仏心)が、道理にそっているかどうかを常にチェックし、道理に反していれば、それを質(ただ)す力となる克己心を育てていく。その内省の繰り返しによって信条の骨肉化が進み、無意識下で道理を順守できる人格が形成され、人生を正しく生き抜けるようになると思う。
『7つの習慣』では、「個人のミッション・ステートメントが正しい原理原則に基づいていれば、個人にも揺るぎない方向性が与えられる。それは個人の憲法となり、人生の重要な決断を行なう基礎となる。激しく変わる環境の中にあって、個人に不変の安定性と力を与えてくれるのである」という。また、『自省録』では、「人間各々の価値は、その人が熱心に追い求める対象の価値に等しい」という。さらに「あらゆることにおいて理性に従う者は、悠然とかまえていながら同時に活動的であり、快活でありながら同時に落ち着いている」(同著)のであり、人格形成と平常心を持って生きていく上で欠かせない。
“基本的考え”は、道理に則したもの
では、基本的考え――何を大切に、どう生きていくか――とは、具体的にはどのようなものであるべきなのだろうか。この基本的考えを言葉で表現し、どのように獲得すべきか、2500年以上の昔から賢人たちが、万人が納得する真理を論理的に探究する哲学や神秘的物語で成り立つ宗教を起こし、そして、何千年もかけて想像力と感受性に富んだ数多くの理解者、創造的解釈者が、それら先達の思想を進化させてきた。それでも万人が納得する真理を表現するものは、いまなお人生哲学や宗教でも存在せず、人間は「人としてどう生きるべきかの問い」の万人が認める真理(規範)を求め続けている。
ユニークな哲学書『ソフィーの世界』の中に、サルトルの考えとして以下の記述がある。「人間には拠り所となるような、そんな永遠の本質なんかないし、頼りになる永遠の価値も基準もなく、死ぬまで自分のことは自分で決める運命にあり、どんな選択をするかとてつもない重みを持っている」のであり、「聖書とか哲学の教科書にも生き方についての一般的な答えはない」という。ある宗教の信者はすべて人として立派とはいえず、無宗教者でも素晴らしい人がたくさんいることから明らかだ。何を大切に生きていくか――自分の人生を自分の責任で生き抜くための規範――は、自分自身の考えで定める必要があるということだ。そして、「どう生きるべきかを世間に合わせるのは、自分というものから逃げた人格や個性を失った人間である。その上で、まず問題になるのが、道徳的な決断だ」としている。何をどれほど重視するかで、道徳は人それぞれ異なる。先達の思想の助けを借りて、どう生きるかの自分の規範を考えてみよう。
道理に則した善い行為の徳として、『哲学の饗宴』によれば、古代ギリシャにおいては、重視されたのは勇気で、規律正しく行動に節度があるという節制、社会の一員としての責任を果たす正義、知恵を加えた四つが代表的な徳目で、これ以外に、キリスト教の核心である信仰、希望、愛という三つの「対神徳」が合流し、合計七つの徳目が形成された、とある。古代ギリシア時代という時代背景もあり、勇気が最も重視したようだが、基本的考えを考えるに当たっては、民の幸不幸を左右する統治者の在り方、統治思想、政治思想として重視された儒学の五徳について考える方が理解しやすく、参考になると思う。
儒学で重視される五常の徳の順番は「仁・義・礼・智・信」で、孔子は、乱れた世の中を正すには、人間の生きる姿勢から正さなければならないとして、“仁”と“信”を説いた。それぞれの重要度は時代背景、価値観(個人もしくは集団が世界の中の事象に対して下す価値判断/『広辞苑』)によって異なると思うが、次に記す五常の徳の意味をもとに、自分なりに徳の順序を考えてみると面白く且つ役に立つと思う。
因みに、聖徳太子は「仁・礼・信・義・智」とした。最上位の「仁」は儒学と変わらないが、「礼」と「信」を重んじた。これによって日本社会の特徴である「和の精神」が築かれたようで、憲法十七条の第一条にある「和を以(も)って尊しと為す」は、和を何よりも大切にし、いさかいを起こさぬことを基本とせよ、と和を最後の砦とした。皆共に凡人なのだから、異端者を排除したり仲良しグループを作らず、協調の精神でさまざまな考えを集め議論を活発にしろと定めている。今日、それは組織の和を乱さない事のみが強調されて「和の重視」がりっぱな大人の対応であるかの如き誤解されていると思う。それは、2011年の原発事故時の東京電力の情報隠蔽、情報操作など数々の悪行を暴く内部告発を抑える力として働き、不祥事を組織ぐるみで隠蔽する好ましくない組織を生み出す要因のひとつだと思う。日本の舵取りを担っている政官財、特に、独裁的になりやすい閉じられた組織である官僚組織、東京電力のような独占企業を正すために、聖徳太子時代とは異なり、「義」を「礼」よりも上位に置く社会通念化が必要だと思う。よって個人的には、昨今の表面的な技法とかハウツー的知識の多寡やプレゼンテーション能力で人間を評価する風潮に意を唱えるために、意図的に最後尾に単なる知識・技能としての「知」を加え、「仁、義、信、礼、智、知」とした。
五常の徳の意味だが、広辞苑よると、「仁」とは、やさしさ、いつくしみ、思いやり、とある。相手の立場にたって考え、他人を傷つけない配慮だと思う。「義」とは、道理(人の行うべき正しい道)で、利害をすてて条理にしたがい、公共のためにつくすこと。ただしさ。「信」は、欺かないこと。言をたがえないこと。まこと。「礼」とは、社会の秩序を保つための生活規範の総称。規範・作法にのっとっていること。また「智」と「知」とは、ともに物事を理解し、是非・善悪を弁別する心の作用で、仏教では「智」と「知」を分けて使うことが多く、「知」は一般の分別・判断・認識の作用、「智」は、高次の宗教的叡智の意味に用いる、とある。
個人的に前述の順序にした理由だが、人間社会の秩序守り、日々の生活で人間らしく生きる上では「仁」がもっとも重要な徳と考え、次に、他人を不幸な目に合わせないことにつながる「義」を重視した。そして昨今の説得能力重視による人間の評価軸の狂いが引き起こす不都合――「巧言令色、鮮(すく)なし仁」的人間の増加――に抗するために言行一致を重視し「信」を三番目に置いた。そして、「礼」。人間社会の秩序が乱れては生きている基盤が壊れる。その次に「智」。「智」は、善悪を判断する心の作用だが、「仁」や「義」が織り成す「情」がなければ、白黒の判断を機械的にやり、非情に走る恐れや善悪が分かっていながら私利私欲・保身のためにやり過ごすということになるので「仁」「義」「信」「礼」が「智」より優先し、「智」を五徳の最後に置いた。「仁」と「義」から成る「情」があって「智」が発揮されるからである。
また、前述したように「知」は、知識が豊富で技能に優れるという意味で、この表面上の「知」を重視した昨今の人物評価によって、人としてもっとも大切な「仁」を欠いた人物が今日の国や組織の上層部に多く排出されているように思う。それは国民の生活よりも政争に明け暮れる国会議員や省庁の利権拡大に走る高級官僚、東京電力を始めとした企業トップの言動をみれば明らかなのだが、人物評価の狂いから起こるこの不都合に警鐘をならす意味から、単なる知識が豊富なこと、言葉の巧みさの「知」を最後に置いた。「知」重視の評価で国家の中枢にのぼり、多くの国民を不幸にした戦争に走った旧日本軍、ユダヤ人大虐殺のホロコーストを生んだヒトラー、これらは皆「仁・義」の心が薄いずる賢さをも含む「知」でのし上がった人物が国を統治したことで起った悲劇である。
福澤諭吉は『学問のすすめ』で、『実語教』から「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」の一節を引いている。いうまでもないが、この智恵とは知識のことではない。知識と智恵は違う。智恵(智慧)とは、物事を人間として正しく捉える力で、人間らしく生きるための力である。「智」なければ「知」は原子爆弾のような凶器となり、「智」あっての「知」である。したがって『橘(たちばな)曙覧(あけみ)「たのしみ」の思想』にあるように、「教えられたことをただ学ぶだけで、さらに深く思索しなければ、単に知識を得るだけで知恵など生まれてこない」のである。
くどいようだが「仁」あっての「智」である。「仁」なき「智」は、善悪が分かっていながら非情に走り、人間性を喪失させる。富や権力欲、名士欲の強い人間が、知識と知恵を使って、勝ち組に入るために巧みに権力者に擦り寄り狡猾に立ち回る。その自己実現パワーは強大で、人間としての道を外さないことを第一義に考える良き市民を圧し、今日の功利主義的個人主義社会の成功者と評される。それが人生の目的ではないはずは誰もがわかっているが、将来への不安に苛まれて過剰な競争社会を生き抜くことが優先される。人生の意義など考えず無意味に、惰性で生きてはいないだろうか。このような時こそ道理に則った基本的考えを定め、それに沿って人間として正しく生き抜くことが何よりも大切なのだと思う。
我欲を制御する克己心を高めよ
欲望は、すべての苦しみの種でもあり、心身を蝕み身の破滅を招く劇薬である。一方、「欲望は人間の生きるエネルギーといわれるように、この欲望があったからこそ文明は進化してきたのだし、人生の生き甲斐もそこにあるといえるからだ。いうなれば人間から欲望を取ってしまったら、それは生きる楽しみを奪うようなものなのだ」(『橘曙覧「たのしみ」の思想』)し、哲学者池田晶子も「人間は、存在する限り欲望をもつ。欲望とは、それが何なのであれ、その人にとって『よい』と思われるものがあることだ。『よい』と思われるものがあるからこそ、人はそれを欲する。欲することで、生きていられる。欲望を持たない人は、そもそも生きてはいないはずだ」(『さよならソクラテス』)というように、欲望があるのが人間であり、その欲望はなくせないし、永遠になくならないのである。
梅原猛氏の言う「一生、煩悩との闘いですよ。しかし、あんまり煩悩を絶ってしまうと、今度はエネルギーがなくなってきます。だから煩悩は絶つのではなくて超えなければならない。むしろ煩悩をいい意味で利用していくことが大切なんです」ということだろう(『仏のこころと母ごころ』)。
私利を願う心は、けっして卑しいものではないし、生きるためのエネルギーにもなり、人間には“捨欲(しゃよく)はできない”。死ぬまで身の破滅を招く恐れのある欲望と伴に生きなくてはならに存在なのである。それゆえに、仏陀は、人間にとって最大の問題――苦しみの種である欲望をいかに制御して生きるか――について教えを説いた。善く生きるには、欲をコントロールする強い心、克己心と“足るを知る”鍛錬が必要なのである。生きるということは、そのようにして欲望と伴に生きることなのだ。
どんなに清潔で心の強い人間でも富と権力を獲れば間違いなく欲に火がつき豹変する。強靭な道義心と正しい道を内省する克己心を鍛え、更なる物欲や権力欲の火が燃え盛る前に自らを、欲望を制する“足るを知る”世界に引き戻さなければならない。、
これは並みの人間には至難の業である。人間には善悪が共存し、時に善人、時に悪人になる。人間の本能ともいえる我欲を制御する抑止力の強さ(範囲、深さ)、特に、自分の損得に係わる事態でも我欲を制御できるかどうかでその人の人格が決する。あの鋭い経済批評で新聞記者から人気を得ていたみずほの銀行の頭取は、暴力団への融資問題での身の処し方を間違えたように。
自分に欲望をコントロール力がないなら、人間らしく生きるためにも、我欲に負ける前に身を引く時期を公言するか、富や権力をもつことによって忘れかけている人の道を思い出させ、諫言(かんげん)してくれる人を傍に置かなければならない。それによって身の破滅を逃れる可能性が出てくる。
また、利他行でも救われる。自分が不幸では他人を幸福にすることは難しい。富なくしては利他行が出来ないこもある。マザー・テレサやキュリー夫人など数少ない人道主義者が自らを犠牲にして偉業をなしえたのは、彼女らの人間性から発した強い利他の思いに共感し、満たせば満たすほど断つことが難しくなる我欲を振り切って援助の手を差し伸べる利他の心を持つ人間がいたからであり、最終目的が利他行のためであれば、富の追求は、私利私欲から切り離される。
大河は利他、その流れの中で我欲を制御する習慣が克己心を高める。
利他行は心身を強くする
人生に悩みは尽きない。悩みについて、第二次世界大戦でユダヤ人であるが故に強制収容所に送られた『夜と霧』の著者であるフランクルのことばを思い出す。壮絶な経験をしたフランクルに対し、自分が今までに経験した悩みはあまりにも小事で、引用するのを憚るが、悩むことで重要なのは「どのように悩むかだ」とフランクルは言う。そして、「有意味に苦悩することができるのは、何かのため、誰かのために苦悩するときだけなのです。つまり、苦悩は、意味で満たされるためには、自己目的であってはならないのです」と語る。私利を考えれば考えるほど思い悩み、問題は深刻になり自滅する。「物事に真剣に向き合うのはよいが、深刻に向き合ってはいけない」という先輩の言葉を思い出す。我欲からくる悩みは、いつまでも身にまとわりつき心身を蝕むに違いない。
一方、人間の本性から生まれる利他の思いは、たとえ悩みの突き当たっても、使命感を伴っており、逆に障害を乗り越える大きなエネルギーを生み、人間を前進させる。深刻な悩みを招く我欲を捨て、悩むなら人間を大きくさせる利他で真剣に悩むことだ。
歴史に名を成した人物の多くは「利他」のために生きた人物である。「待っている仕事、あるいは待っている愛する人間、に対してもっている責任を意識した人間は、彼の生命を放棄することが決してできない」(『夜と霧』)のであり、「誰か」があなたを待っていて、あなたを必要としている「誰か」や「何か」があれば、生き抜けるという。社会のためや仲間や家族のためという利他の思いがあれば、幾重もの難題が同時に襲ってこないかぎり、いま流行のうつ病になることは少なく、障害を乗り越える力も大きくなるに違いない。
それは医学的にも証明されていて、鎌田實(みのる)医師によると、人間には幸せホルモンと言われるものが二つあって、おいしいものを食べたり、温泉に入って気持ちよかったり、自分が幸せを感じたり、感動した時に分泌されるセロトニンと人を幸せにしようとするときに分泌されるオキシトシン。このオキシトニンは、ストレスを緩和し、感染症の予防や生きる力を与えてくれるもので、誰かのために尽くそうとすると脳内に分泌されるとのことだ。進行がんのために手術ができず、緩和ケア病棟へ移された人を救う力を持つとのことで、人のために尽くすことが自分をも生かすということが医学的にも立証されている。
正しい考えに沿う利他の志は、強く生きるエネルギー源となり精神安定剤にもなる。偉大な社会貢献をした人間が小さい時には大人しかったという話をよく聞く。利他の志は、幼少時の環境が原因で物事を悲観的に考える習性を持つことになったペシミストであっても、逆境を乗り越えやすい特性を持つオプティミストに変える力があるのではないだろうか?
習慣が人格をつくる
習慣は人格形成の大きな力である。人間の本性――人間は本来、人間道にそった正しい考えを持っている――は、人間の種子(たね)として内在しており、人としてどう生きるかを考え始めることで発芽し、内省の習慣化によって人として正しく生き抜ける力として花を咲かせ、無意識のうちにその考えに沿って物事を判断し行動するようになる。
『五輪書』に「道々事々をおこなふに、外道(げどう)と伝心あり。日々に其道を勤ると云(いう)とも、心にそむけば、其身はよき道とおもふとも、直なる所より見れば、実(まこと)の道にあらず。実の道を極めざれば、少(すこし)心のゆがみに付て、後には大きにゆがむもの也」とある。根本的に間違ったことを信念にしてしまった人間は、どれほど努力しようとも、真実正しい道からドンドンずれていってしまうことになる。
卑近な例だが、障害者専用駐車スペースに健常者が駐車するように、誰も見ていなければ、注意されなければ何をやってもいいだろうという考えを持ったとしよう。不正行為を繰り返す習慣が、あらゆる悪行を平気で行なうことにつながり、羞恥心さえも感じなくなり、人としての心を喪失した道徳心のない人間を作り上げる。深く嵌ってしまう詐欺師しかり、である。因みに、米国では、このような姑息で道理に反する駐車違反者は、通常の駐車違反より高い罰則金を課している。これはこれとして、そこまでしなければ地に落ちた道徳心が守れない社会であることを認めていることであり、情けない状況なのだが、日本もその域に達してしまったようだ。また、テニスのセルフジャッジ方式の試合で見受けられるのだが、際どい場所に落ちたボールをすべて「アウト!」と繰り返しコールしているうちに、明らかなインコートのボールを「アウト!」とコールするようになる。些細なことを端緒に、あらゆる場面で同様の行為が拡がり、人道に反する重大な過ちを犯すようになり、過ちを過ちとも感じない人間となる。過ちを過ちと感じないのだから、論語でいうところの「過ちをしても改めない、〔本当の〕過ち」なる人間になる。
良い習慣を持続するには強い意志力が要求される。『橘曙覧「たのしみ」の思想』では、意志力は、理性のなせる業ではなく、魂から出ているようで、理性と意志との違いは、「わかりやすくいえば、理性とはものごとの善悪・是非を推理して合理的に判断する力であり、意志とはそれをやり遂げる心のことだ」とある。勿論、意志力に強弱はある。「長いものに巻かれよ的に、意志を簡単に曲げる者もいる。同書には更に、「天風先生はこう喝破する。『現代人は理性こそがもっとも尊いようにいわれているが、じゃ聞くが、理性で心の中で思っている悪いことを制御できますか。理性とは単に良い悪いが判断できるだけで、それを止める力はなんいんだぜ。それを止めるのが意志力だろう。つまりそれは魂がそうさせるんだぜ』」と意思の重要性を説く。このことは、禁煙において、理性は良くないと判断するが、禁煙できるか否かは意志力により、天風先生の言葉を借りれば、禁煙できないのは魂がないか魂がひどく弱いということになる。
『己に克つ生き方』にあるように、「善がしっかりとかたまるのも、悪がしっかりとかたまるのも、『初一念』が積み重なった結果にほかならず、最初の初一念もたいせつならば、それが積み重なることはもっと恐ろしいこと」で、道理の道を進むか非道理の道を行くかで、時が経てば経つほど、経験を積めば積むほど、人格に差がでてくる。そして、福沢諭吉のいう「道徳は言葉にはない、人心の機微のうちにある」という域に達する。
正しい考えを持ち、それに沿った判断や行動の習慣を積み重ねることがより良き人生を過ごす極意であり、習慣が人格を形成するのである。なお、習慣の大切さ、習慣パワーの凄さについては(3)項でも触れる。
死を意識して生きる
習慣を変えるきっかけは、楽しいとき、幸せなときや絶頂のときではなく、苦難に会う、仏教でいえば「四苦八苦」(生・老・病・死の四苦と愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦を加えたもの)との遭遇やそれについて考え、悩むときにある。諺にあるように「迷わぬ者に悟りなし」なのである。「可愛い子には旅をさせよ!」や「獅子は我が子を千尋(せんじん)の谷に落とす」「逆境が人を強くする」「艱難(かんなん)は汝(なんじ)を玉にす」など多くの人生訓がある。また『ビジョナリー・ピープル』の中で、医師で作家のレイチェル・ナオミ・リーメン博士の言葉として次の引用文がある。「最も大切な教訓をひとつ。
それは、人は人生で最もつらい経験をきっかけに、よりよい生き方を学び、周りの人たちがよりよい生き方をするための力にもなれる」(『失われた物語を求めて』(中央公論新社))。人は、辛い人生を経験することが、よりよい生き方を考え、人の痛みが分かる本来の人間になる上で不可欠なのだと言っている。それは2014年初めの二つの選挙結果が示している。1月19日の沖縄県名護市長選挙と2月9日の東京都知事選挙である。友人は選挙前に、この両選挙で、沖縄人と東京都民の人間の質が分かるといっていたが、米軍基地の辺野古移設が争点だった名護市長選挙では、お金で何でも出来るという感覚の自民党幹事長が、税金を自分のお金のように名護市民に基地再編交付金としてちらつかせ移設誘導を迫ったが、名護市民は半永久的に自然を壊し、住民に基地による生活不安を強いる基地移設に対して、未来の名護市民のために反対の意思表示をした。一方、東京都民は、国土と命を奪う原発を地方に任せ、原発推進を政策に掲げる自民党(都連)の推薦候補を選んだ。我々は、人間として恥ずべき行為をする政権与党に国の統治を任せてしまっているのだが、名護市民の心は、お金で心を奪おうとした自民党よりも遥かに高貴なのである。選挙結果の差は、自らの、目の前の損得だけを考える、あるいは何も考えていないで過ごしている都民に対し、沖縄県民は、第二次世界大戦の内地決戦以来、いかに生きるかという人間にとって根本的な問題を常に考えながら日々を過ごしてきている。その心の在りよう、考える対象の深さの差なのだと思う。
さらに、利他の思いの志が高い者ほど、遭遇する障害は大きく悩みは深く、人生をいかに生きるべきかや生きる意味を宗教あるいは仏教や論理的な哲学を通して、深く考えるようになり、人として大きくなれるのである。「利他のこころは人を作る」。
人間にとっての最大の苦は、死かもしれない。道元は、「死を考えて生きよ、という。死を考えるならば、この生きている人生をどんなに大切にしなければならないかが、切実に分る」といい(『己に克つ生き方』)、実在主義のハイデッカーも「死を意識すると、人生がかけがえのないものであることに気づく。未来を見据えて前向きに生きていく」という。論語でいうところの「死中、活有り」という生き方である。
かなり前になるが、作家の五木寛之氏がレポートした「21世紀・仏教への旅」(NHK2007年放映)を観た。韓国の中学生だったと思うが、お寺での宿泊合宿で自分の大切な人に向けて遺書を書くという場面があった。これは、感受性の高い年頃の中学生にとって大きな内的変化を促すと思われ、死ぬことを意識することで、人生を見直すきっかけになり、人生に意味を考え、人間として正しく生きようと考えるようになると思われる。死を意識する“メメント・モリ(死を忘れるな)”が、人に本来の人間のあり様を考えさせるのである。二千年近く昔の西暦二世紀、プラトンの理想国家の如く哲学的にローマを統治した皇帝マルクス・アウレーリウスの『自省録』でも、「現在の瞬間が君の生涯の終局であるかのように、自然(徳)にしたがって余生をすごさなくてはならない」とある。
死を目前にした時、追い詰められた人間が宗教的な哲学に深く染まるし、他人から理不尽な扱いを受けた時も同様に今まで以上に人としての道を強く意識するようになる。公を思う志高い人間が時の権力に迫害され、獄中で残した言葉は深い。昭和初期の治安維持法違反で投獄された大学教授三木清の『人生論ノート』、安政の大獄に連座した維新の思想家、吉田松陰の『留魂録』など、死を目前にして、より人間の本性からの言葉を紡ぎ出している。
「強くなければ生きていけない。優しくなければ生きる資格がない」
人生を生き抜くために、『プレイバック』(レイモンド・チャンドラー著)の私立探偵フィリップ・マローの言葉「強くなければ生きていけない。優しくなければ生きる資格がない(If I wasn’t hard, I wouldn’t be alive. If I couldn’t ever be gentle, I wouldn’t deserve to be alive.)」を心に留めて置きたい。
精神の強靭さは、家族の生活を支えるとか、組織で一緒に働く仲間のために働く、他人を楽しい気持ちにさせるということも含め、利他から生まれる。道理に沿った優しさと強い利他の思いが精神面を強化し、人間として生き抜いていくエネルギーを高めるのだ。
この項の終わりに「周りの人を楽しく和ませる、和(なご)みを感じさせる人間」について触れる。孔子は「知者は絶えず頭脳を回転させており、川のような流れ動くものに心を惹(ひ)かれるが、仁者は心を静かに保っているから、山のようにどっしりとしたものと我が身を一体化させる。さらに言えば、知者は自らを楽しませることを知っているが、仁者はそこに居るすべての人を楽しませ、生き生きとさせることができる」と言う(『高校生が感動した「論語」』から引用修正させてもらった)。他者を楽しませることは“仁者”ができる技であり、簡単ではないが、その分挑戦し甲斐のある高い目標である。その高い目標への道程を楽しめるようになれば最高だと思う。
職場の自分の席の前の壁に、誰かが掛けてくれた。
「ただいるだけで」(相田みつを)
あなたがそこに
ただいるだけで
その場の空気が
あかるくなる
あなたがそこに
ただいるだけで
みんなのこころが
やすらぐ
そんな
あなたにわたしも
なりたい
みつを
基本的考えについての追記
人道に則した基本的考えを人生哲学・信条として強く意識することが、納得性の高い有意義な人生のスタート地点であり、人生を生き抜く上で大切なことであることを述べてきたが、以下もう少し触れてみる。
ⅰ.強く思えば、どこからともなく助けをしてくれる人・事象が現れる。五徳について考えている時に、92歳の元総理大臣が著した『保守の遺言』(中曽根康弘)に出会った。その中に「カント哲学は、『真・善・美』を解き明かそうとするものであった。カントが示す『善』なる行為とは、『かくかくの行為をせよ』と良心の命じるものに従えということ」で、「現代のような激動の時代に対応するためにもっとも基本的で、かつ大切なことは、先の『善』ともつながる『道』、つまり『道徳性』である、と哲学は教える。テクニックでもなければ理屈でもない。道徳性のあるところに、人は安心し、共鳴と協力の情熱、そして勇気が湧き上がる。それが政治の源泉である」と記していある。
国のトップとして使命感をもって事に当たった人が修羅場を乗り越えてきた経験から、何を大切にすべきか、何を拠り所にしてきたかが重さを伴って著されていた。カントの考えとしての「それぞれの人間のうちに本来秘められている良心の断言命令に従え」に共感した。基本的考えは、人間が本来もっているところの「善」の道にある。
「善」は本来人間が持っているものだから自然のままで生きれば誰もが善き人になるはずなのだが、現実の社会では自然のままでは生きることは不可能であり、本来の姿を発揮できないのが人間である。だから不完全な人間社会がいつまでも続く。不条理な社会故に人道にそった人情劇に涙する。様々な欲を捨てきれない真理に加えて、本来持っている人間性を発揮するための土地(社会環境)も肥料(社会秩序)も与えられず、人道から外れているか否かも分からない人間が育てられ跋扈(ばっこ)する。
人間社会は、無限数の性格が織り成す摩訶不思議な世界でなのである。その不可解な世界を万華鏡を覗くように楽しく見ることができる域に達しなくては、人生を楽しみながら充実したものにはできないと感ずる。
政治のあるべき姿として、元首相は同書で「『大学』、つまり社会の指導的立場にある者が修めるべきは、実利のための学問ではなく、世の中のため、人のためという目的、合理性と道徳性が不可欠である。『明徳』、いわば人間が生まれながらに持っているはずの優れた性質(人間性)、すなわち最高道徳を高めて、それによって周囲の人々を感化し、そのことによってのみ政治は国民の信頼と協力を得られる。それがまさに政治の王道なのである、という教えである」をあげている。この域に達した老獪な人間ならば、国策捜査も死をも恐れることなくはなく、誰もなし得なかった、我欲旺盛な現役の既得権権益者には出来そうもない時代遅れの官僚主導体制の改革をしてくれるのではと、密かに期待してしまう。老害もあろうが、若くて「仁」の乏しい我利我利亡者の統治者がもたらす害の方が大きいように思う。
以上が著書から感じたことだが、視点を変えて論ずれば、中曽根康弘元首相は読売新聞中興の祖で原発の父ともいわれる正力松太郎(だから読売新聞は原発再稼働を叫ぶ)と共に原発利権構造生みの親なのだが、今となったら原発は国家のためのだったのか私欲のためだったのか定かではないが、人間とは共存できない放射線(汚物)をばらまく原発導入の責任をどうとるのだろうか。「言うは易し」である。最高道徳を高めよという元首相は本根を語ってこそ高い人を持った政治家であったと評価される。
ⅱ.人の考えは、その考えにそった受け入れやすい情報でさらに強化されることを前述したが、養老孟司氏の『まともバカ』に、なるほどと感ずる記述があった。現実をどのように捉えるかは情報処理装置である脳が決め、Y(出力)=aX(入力情報)で表され、現実をどう捉えるかは、気分や信念、正義、真善美などの感情係数a(重みづけ)で決まり、この係数は、好き嫌いで決まる、とのことである。多様なDNA、多様な性格、多様な経験、多様な価値観などによって、それぞれの人間の係数aの重み付けが異なり、現実の捉え方は無限にあるがそれを決定付けるのは好き嫌い、すなわち自分の考え方に近いもの心地よいものだけを拾い上げる。先に述べた基本的考えが年齢と共に強化されることが、これで理解できる。曰く、「人間は好きなことしか見聞きしていない、やっていない」。
自分の考えに合うものを好み拾い上げる、ということで、話は少しばかり飛躍するが、経団連理事の方の講演で「なぜこの人が経営者?という人が70~80%いるが、これは選出のプロセスが原因」というようなこと聞いた。これは現経営者の気質に合う、気に入った人間を後継者に選ぶ、すなわちリーダーに相応しいかどうかよりも好き嫌いで後継者を選んだ結果の不適正経営者70~80%の出現なのだろう。上司に気に入られることを重視する人間は、上司への服従の重み付けaが異常に高く、会社や従業員にとって好ましくないことや反倫理的な判断・行動であっても上司に従うことを優先する。高い確率で不適正経営者が存在することは、自分さえ良ければよい、勝てば官軍的発想の我欲度の重み付けの大きい企業人が予想以上に登用されていることを意味する。書店は金儲けの書物で溢れていて金持ちになることを煽る。格差拡大を生む行き過ぎた競争社会とそれを修正できない社会システムに原因があると思う。
平成二十二年六月十七日、二股温泉の帰りに、水戸の弘道館に寄った。藩主徳川斉昭創設の藩校であるが、そこに「至善堂」(最高善の堂)があった。ちょうど『大学・中庸』(金谷治訳注)を読んでいるところであり、『保守の遺言』と合わせ、3重のシンクロニシティ*(といっていいのか疑問符付だが)に遭遇した。強く想うことで考える糧が得られる。
*シンクロニシティ(共時性):「意味ある偶然の一致」のことで、非因果的な複数の事象(出来事)の生起を決定する法則原理として、従来知られていた「因果性」とは異なる 原理として、カール・ユングによって提唱された。何か複数の事象が、「意味・イメージ」 において「類似性・近接性」を備える時、このような複数の事象が、時空間の秩序で規定されている世界の中で、従来の因果性では、何の関係も持たない場合でも、随伴して現象・生起する場合、これを、シンクロニシティの作用と見なす(ウィキペディアより)。
ⅲ.五徳の優先順位
これもシンクロニシティなのか。あることがきっかけで十年近く会っていなかった偉ぶらない気さくな先輩のお宅をお邪魔した折に、『橘(たちばな)曙覧(あけみ)「たのしみ」の思想』(神一行著)を頂いた。ちょうど五徳の順序について考え終えた時で、「仁」をトップに据えたのだが、<「思いやり」と「正義」はどこへ行った>の項で納得の解釈を得た。それは、「仁」とは、一言でいえば、人間としてもっとも大切な「相手をおもんぱかる心」、「思いやり」のことで、「儒教ではこれを道徳観念の根本中心に据え、天道の発露とみなした。いうなれば『仁』は、仏教における『慈悲』、キリスト教における『愛』に相対するもので、それゆえに五常のトップに位置している」という。
また孟子のいう「『惻隠(そくいん)の心は仁の端なり』であり、他人の不幸を切実にあわれみ、痛ましく思う心は、誰にもあって、しかもこの心こそは人として守るべき仁の徳の萌芽だというのである」(同書)。そして「『仁』の『人を思いやる心』より、『利益の追求』のほうが勝っているのが現代人なのである」とあり、「仁」は世界共通の徳のトップでありながら、国を始めとした日本の組織リーダーたちの「仁」の欠落が日本に不幸をもたらしていると思う。
さらに同書では、いま一つの徳の利害をすてて条理にしたがい人道のためにつくす「義」について、いかなる人間においても、どのような社会形態であっても人の世の基本であり、「『義』(正義)が守られなければ秩序ある社会が築けない」という。現代は「仁」だけではなく「義」をも失っているように思う。日本では、聖徳太子が、当時の荒れた世相を正すためだろうが「礼」「信」を重んじたために、五徳の順番を孔子の「仁・義・礼・智・信」から、「仁・礼・信・義・智」に変えたが、長い年月を経て「義」が疎んじられ、孔子の考えた徳のベスト2、すなわち人間の道を進む上で欠かせない両輪「仁」と「義」を失っているのが現代人の特性になってしまったかもしれない。
それは、虚業のマネーゲームが引き起こしたリーマン・ショックや東日本大震災によって引き起こされた原発事故の東京電力の反倫理的対応など、「義」を忘れたが故の人災が世界中で起きていることからも明らかであり、その反動として、世界中で「義」の議論が起こっていて、『これからの「正義」の話をしよう』や『論語』が注目された。秩序ある社会を取り戻すために、世界的に「義」の復活が望まれている。
さらに「義」について、『橘曙覧「たのしみ」の思想』には次のように論じている。「『義』の発想は、現代人の多くの人が行動判断の基準としている近代合理精神とは対極的にある」とし、「義」と「利益の追求」は、資本主義社会の二元的問題なのだという。その上で、「『義』には単に『正しい行いを』というより、『打算や損得を離れて』との意味があるので、これを行うには人間の根源的なエネルギーとされる『欲望』を抑制しなければならない(中略)この義を守るためには、よほどの自律心がなければ至難の業」であると。凡夫にとって、とりわけ富と権力を獲得した者には「義」を守ることは不可能に近く、“人として正しい道をいきるんだ!”という強い信念をもった人間にしか為し得ない心の問題なのである。
ⅳ.「智・情・意」
『現代語訳 論語と算盤』に、「智・情・意」について考えさせられる記述があった。引用文の前段の「知識」は、意志道が加えた「知」を意味し、善悪を区別する「智(知恵)」なくしては、「知(学識)」は無価値で、さらに「情」がなければ、「知恵(智)」は発揮されない、という。また「情」は激しいときもあり、それをコントロールするのが「意(意思)」で、意思が精神活動の大本とある。まさに“意思道”を進むことが重要なのだが、最後に、意思だけ強くては、頑固者とある。心したい。以下引用。
「人として知恵が充分に発達していないと、物事を見分ける能力に不足してしまう。たとえば、物事の善悪や、プラスとマイナス面を見抜けないような人では、どれだけ学識があったとしても、よいことを良いと認めたり、プラスになることをプラスだと見抜いて、それを採ることができない。学問が宝の持ち腐れに終わってしまうのだ。この点を思えば、知恵がいかに人生に大切であるかが理解できるだろう。
しかし、『智』ばかりで活動ができるかというと、決してそうではない。そこに『情』というものがうまく入ってこないと、『智』の能力は十分に発揮されなくなってしまう。
たとえば、『智』ばかり膨れ上がって情愛の薄い人間を想像してみよう。自分の利益のためには、他人を突き飛ばしても気にしない。そんな風になってしまうのではあるまいか。
もともと知恵が人並み以上に働く人は、何事に対しても、その原因と結果を見抜き、今後どうなるかを見通せるものだ。このような人物に、もし情愛がなければそれでよいという形で、どこまでもやり通してしまう。この場合、他人に降りかかってくる迷惑や痛みなど、何とも思わないほど極端になりかねない。そのバランスの悪さを調和していくのが、『情』なのだ。
『情』は一種の緩和剤で、何事もこの『情』が加わることによってバランスを保ち、人生の出来事に円満な解決を与えてくれるのである。もしも人間の世界から『情』という要素を除いてしまったら、どうなるだろう。何事も極端から極端に走って、ついにはどうしようもない結果を招いてしまうに違いない。だからこそ、人間にとって『情』はなくてはならない機能なのだ。
しかし、『情』にも欠点があって、それは瞬間的にわきあがりやすいため、悪くすると流されてしまうことだ。特に、人の喜び、怒り、哀しみ、楽しみ、愛しさ、憎しみ、欲望といった七つの感情は、その引きおこす変化が激しいため、心の他の個所を使ってこれらをコントロールしていかなければ、感情に走り過ぎるという弊害を招いてしまう。この時点で、『意志』というものの必要性が生じてくるのである。
動きやすい感情をコントロールするものは、強い意志より他にはない。だからこそ、「意」は精神活動の大本ともいえるものだ。強い意志さえあれば、人生において大きな強みを持つことになる。しかし意志ばかり強くて、他の『情』や『智』がともなわないと、単なる頑固者や強情者になってしまう。根拠なく自信ばかり持って、自分の主張が間違っていても直そうとせず、ひたすら我(が)を押し通そうとする。(中略)強い意志のうえに、聡明な知恵を持ち、これを情愛で調整する。さらに三つをバランスよく配合して、大きく成長させてこそ、初めて完全な常識となるのである」。引用終わる。
「仁」と「義」を遵守する強い「意志」で「情」をコントロールすることなのだ ろう。「『自己制御』が『徳』の基本である仁に至る道」である(『人望の研究』)。