(2)人生の目的・価値、幸福観
人生をいかに生きるか、何をしたいのか。大きくは社会のために尽くすことから身近な家族を幸せにするまで対象は無限にある。人生の目的や夢の実現に挑戦するなど、いずれも意味ある人生を強く、正しく生き抜く上で欠かせない。
人生の目的や夢に利他のこころが織り込まれることによって生き抜くエネルギーは強くなる。生き抜くエネルギーは目的や夢の大小よりも利他の思いの強さに比例すると思う。自分のみの幸せが目的では、生きる力は弱く、悩みと不安によって容易に人生に挫折することになるだろう。
ドイツ強制収容所の想像を絶する体験をしたV.E.フランクル著の『夜と霧』に、強制収容所の囚人の心理学的観察の記述がある。強制収容所において内面的な拠り所を持たなくなった人間のみが精神的人間的に崩壊し、自分の存在の意味そのものが消えて、内的な崩壊現象が生じた、とあった。未来を信ずることのできない、目的に向かっていきることができない状態では、人間は将来に向かって存在するということができず、自分の存在の意味そのものがなくなれば、生きて行くことができない、という。何かのために、誰かのためのという利他の思い、目的を持ち続けることが凄惨な収容所にあっても人間性を失わず生きる力となる、と語る。過酷な状況に置かれても、人間の持つ素晴らしい面を失わない精神科医ならではの崇高で強靭な精神性に合掌。
広辞苑によれば、目的は、成し遂げようと目指す事柄。行為の目指すところであり、哲学的には、意志によってその実現が欲求され、行為の目標として行為を規定し方向づけるもの、とある。そして、目標とは、目じるし。目的達成のために設けた、めあて。的(まと)であり、目的をとげるために目標を立てるということになる。喜怒哀楽の長い人生、紆余曲折はあるが、意義ある人生を送るための目的や夢を果たすために目標を道標に、一歩ずつ前に進むことが意義ある人生を生き抜くことにつながる。
人生の目的は人間性の高揚
人生の最終目的は、何だろう。哲学的には「人が生きることの意味と価値とは、精神性すなわち真善美の追求である」(『さよならソクラテス』)。
京セラ創業者の稲盛和夫氏は、『生き方』で「『この世へ何をしにきたのか』と問われたら、迷いもなく、生まれた時より少しでもましな人間になる、すなわちわずかなりとも美しく崇高な魂をもって死んでいくためだと答える。俗世間に生き、さまざまな苦楽を味わい、幸不幸の波に洗われながらも、やがて息絶えるその日まで、倦(う)まず弛まず一生懸命生きていく。人間性を高め、精神を修養し、この世にやってきたときよりも高い次元の魂をもってこの世を去っていく。これが人間が生きる目的」といっている。人間は、生まれてから大人になるにつれて、純粋な心(仏性)が濁ってくるのが常で、生まれた時よりより少しでもましな人間になる、というのは異議があるが、“少しでもましな人間になる”という下りがいい。
孔子は、人生の価値は「結果」ではなく「過程」であると言い、ソクラテスも「人生の目的はただ生きることではなく、善く生きることである」と、今から2500年も前に言っている。完全なるものはこの世に存在しない、完全な状態には永遠に到達しないのが人間で、人間はただいつまでも人としての在り様を探求する定めにある。この真理を受け入れられれば、人生で遭遇する苦難も楽しみながら生きていける。人の道を外さないという基本的考えを信条に、好きなことに寄り道しながら求道プロセスを楽しみながら生き抜く――「志(最終目的)をもって、生を喜びながら生き抜く」――ゆるぎのない生き方が“かっこいい!”。
稲盛さんは「精神を修養し人間性を高める」といい、孔子は「善く生きる」という。それはどちらも、人間としての総合力――人間力(あるべき人間としての力)――を高めることだと思う。稲盛さんは、著書『生き方』の<「考え方」を変えれば人生は一八〇度変わる>の項で、人生・仕事の結果=考え方×熱意(情熱や努力)×能力(才能や知能)と、3つの要素の掛け算で、人生の結果を表した。要素の中で、考え方がもっとも重要で、心のあり方や生きる姿勢はマイナスポイントがあり、考え方次第で人生は決まってしまう、と言う。
これに倣って、人間力を次のように定義してみた。
人間力=EQ(心の知能指数:人としてどう生きるか)×実践力(言行一致力の高さ)×IQ(知能指数)
道義にそった正しい目的を定め、それを目指して生きる。それが人間力を高める核であり、重要度は、EQ>実践力>IQと考える。人間の道に沿った考えを持つものは、EQはプラスに働くが、最悪の人物は、人間の道を外した考えを持ち(EQがマイナス)、且つIQの高い狡猾人間な人間である。人間が集まる組織では、当然ながら上に立つ人ほどEQの高さ、人徳が問われる。そうでなければ権力の悪用によって多くの人間を不幸にする。それは我欲をコントロールできなくなった既得権益者の政治家、官僚や企業のリーダーたちに多く見られるが、人類破滅につながる原発推進する原子力村の人間を観察してみるとよく分かる。ここまでは稲盛さんのほぼ定義と同じだが、昨今の日本の政官財のリーダーたちによく見られる、美辞麗句を発しながら判断・行動が伴わない人間、言っていることと真逆の動きをする「言行不一致」者を排するために、稲盛さんの定義にある“熱意”を、“実践力(言行一致力)”に置き換えた。
高い人間力を持つ真の見識者の基本的要件は、人としての正しい考え(EQ)とそれに沿って物事の本質を洞察する力、判断・行動力の高さである。
夢は持ち続けてこそ価値がある
夢は具体的であることが望ましい。漠然とした夢では実現に向けた行動には繋がらない。四年に一度のオリンピックで金メダルを獲る人は、金メダルを目標に、そのための具体的努力をしたから獲れたのであり、それなくしては間違いなく獲れない。
金メダルを獲るという夢を強く願い、諦めず続けたことで報われた人が金メダリストとなり、「諦めずに努力したから夢が叶った」という。諦めず求め続けても叶わないことがほとんどなのだが、諦めたら間違いなく叶わない。いまだ「諦めたのに金メダルが獲れた」と言った人は皆無なのである。追い求めても達成できない人間は数え切れないが、ある意味夢を追い求めるのが人生でもあり、夢に届かなかなくても人間的に大きくなれる。目的も夢もなく生きている人とは桁違いに充実した人生を歩んでいることは間違いないと言えよう。夢やその実現のための目標を定め、その過程を楽しみながら追い求めることにこそ価値があるのだろう。
具体的な夢を見つけられない状況もあるだろうが、具体的な夢を見つけられないからといって人生を諦め、生きる価値がないと思わないことだ。見つからなければ、見つかるまで人としての道を外さないように誠実に生き、周りの人の信頼を高める日々を送る。それによって精神的成長が図れると同時に、その生き方によって必ず道が開ける。ただただひたすらに人間として正しく生きて行くことだ。
比較できない絶対的な幸福観を持て
「わたしは、心地よさや幸福などを人生の目的だと思ったことは一度もありません」(『アインシュタイン150の言葉』)というアインシュタインは別格として、ほとんどの人は人生の目的を漠然と「しあわせに生きる」ことだ、と答えるだろう。
では、しあわせに生きる、生きたという状態はどういう状態なのだろうか。
資本主義社会で成功するかどうかが幸不幸を決めるのではないことは、発展途上国の人たちの方が、日本よりも物質的に貧しいにも関わらず幸せだと感じている国民の比率が高いことからも明らかである。GDP(国内総生産)ではなく、GNH(国民総幸福量)を目標に定めたブータンの人々の幸せ度は高く、日本はGDP世界第三位(2011年時点)にもかかわらず国民の多くが不安を感じ不幸感満載状態だ。
それは、金欲、物質欲、権力欲などの欲望を満たせば更なる欲望を生みことから、満たす満たさないに関らず、不満足感を感じて永遠に満たされない状態を引きずって生きていくことになる。同時に、満たされれば満たされるほど、ほとんどの人間が反比例的に人間らしさを失って反倫理的で卑しい人間になっていく。社会的成功が幸せだと思い、それを追い求める生き方は、強靭な精神性をもっていないと際限のない欲望の道をひた走るだけの無意味な人生、人間性をも失う危険性を孕む“不幸の鳥”を追い求める人生を送ることになるだろう。
それは、三木清が『人生ノート』でいうところの「成功と幸福とを、不成功と不幸とを同一視するようになって以来、人間は真の幸福が何であるかを理解し得なくなった。自分の不幸を不成功として考えている人間こそ、まことに憐れむべき」存在なのであるが、資本主義社会(消費社会)がもたらした過度な競争社会は、いわゆる負け組みといわれる憐れむべき不幸な人間を量産してきている。それが利己的な荒涼たる格差社会を作り上げて来ていると思われる。
「『財産』『地位』『名誉』といった目に見える即物的な幸福観は、一見すると幸せをあたえてくれるように思えるが、それらはつねに他者と比較した相対的なものであって、それ以上のものが登場したときには逆に不幸のタネになってしまうのである。これこそ、幸福に対する絶対的な価値観をもっていなかったからともいえる。(中略)この絶対的な価値観をもっていない人は、いかに金持になろうと、いかに立身出世しようと、幸福にはなれないのである」(『橘曙覧「たのしみ」の思想』)。
また、「他人の幸福を嫉妬する者は、幸福を成功と同じに見ている場合が多い」(『人生論ノート』)のであり、もし、他人を見て羨ましいと思う気持ちがあるなら、比較することのできない絶対的な幸せ観を持っていない証拠であり、自分の求める幸せとは何か、を再定義しなくてはならない。充実した毎日を過ごすためにも、心にゆとりをもたらす上でも重要なことだ。
他との比較ではなく絶対的なしあわせとは、何か。
「人生の目的は幸福な人間になることではない。それは、役に立つ人間、高潔な人間、思いやりのある人間となり、自分だけがなしえる生活を送る、それも立派に送る、そういうことだ」(『ビジョナリー・ピープル』)。人としてどう生きるかという理想(志)の追求そのものが幸せと言う。モンテーニュが四百年ほど前にいったように、「人生に喜び(幸福)を見出すかどうかは、その身の上話ではなく、心の持ちかたで決まる」(『ビジネスマンの父より息子への30通の手紙』)のであり、幸せは主観的なもので何が幸せ感は人それぞれである。
ただ、人として一番大切な“仁”、利他の行為が充実した幸福感をもたらすのは医学的に立証されており、家族を含め、どんな些細なことでも他の人のためになろうとすることが心の穏やかさや健康や幸福感にも繋がる。他への貢献は使命感を伴う幸福追求となり、生きるエネルギーを高め、心の平安を伴う素晴らしい人生にもつながるに違いない。
自分にとって何が幸せなのか
自分にとってなにが幸せなのかを具体的に捉えていないと、メーテルリンクの戯曲『青い鳥』のように、“幸せの青い鳥”を求めて彷徨(さまよ)い、心が満たされず焦燥感や虚無感に襲われた日々を送ることになるだろう。さらにそれが高ずると自分は生きる価値がないなどと絶望感に襲われ、生きる力を衰弱させるだろう。
絶対的な幸福観は、「物質的豊かさ」ではないことは明白で、『なぜ生きる』にあるように、「一切の滅びる中に、滅びざれる幸福こそ、私たちすべての願いであり人生の目的」だが、生きて行く生活基盤の確保や将来への希望がなくては、幸福感は感じないだろう。幸せの前提条件というか付帯条件がありそうだ。
一つは、生活の安全・安心(生命を維持するための生活基盤の確保)。二つ目は、心の平安(自分の生き方が、人間の正しい道を外していないという確信)。そして、三つ目は、人との交わり“絆”。この三つが幸福の前提条件ではないだろうか。
一つ目の安全・安心に関しては、一足飛びには確保できそうもない。国民の生活を守るべき行政を担う政治家や官僚の怠慢により国民が幸せに生きる基盤が崩れてきており、2012年の衆議院選挙前時点、大いに問題がある。貧富の格差拡大、社会福祉制度の疲弊、無駄遣いの官僚体制を温存したままの消費税増税、命を確実に奪う原発の再稼動など既得権益層保護のための施策を繰り返す国政下では、生活基盤の脆弱化が進む。幸せのためには自ら生活基盤を確保しなければならない状況にある。それによってさらに、自己防衛のための行き過ぎた競争社会が続くことが予想される。日本の行政システムそのものの革新が望まれる。それには、人間評価軸を正し、真のリーダーや真のジャーナリズムを探しだすことだが、根っこのところは、それを可能にすることができる国民の質の向上にかかっていると思う。
幸せの二つ目の条件は、(1)で触れたように、どのような状況下であっても幸福だと感じるには、人間として正しく生きるという考えを固めることだ。いかなる場合にも正しい道を生き抜くという信念と際限のない我欲をコントロールできる“足るを知る”精神を持つこと。これによって心にゆとりができ毎日が充実する。こころに平安を感じることなくしては、幸せ感はないと思う。平安を呼び戻すことのできる人間がどのくらいの割合で存在するかが、日本社会の将来を決めるとも思う。
三つ目の人とのつながりの“絆”だが、余程の人間でないかぎり、人とのつながりがなければ幸福な気持ちをもてないのではないとか思う。孤独は精神力を養い人間を成長させるが、死ぬまでひとりぽっちで生きて行くとしたら、強靭な精神の持ち主であっても寂しさに息が詰まる。孤独に耐えられる人間であっても、その背後に人間を感じていいなければ幸せな気持ちにはなれないのではないだろうか。
少しばかり道を外れるが、人とのつながりは誰でも良いというわけではない。我欲が異常なほど強く、私利私欲のために姑息な手段で危害を加える人間は避けなければならない。脳科学者茂木健一郎氏は『「脳にいいこと」だけをやりなさい!』で、脳は相手の感情を拾いやすく、自分のエネルギーを高めるためには、人間関係がとても重要で、「どんな人と一緒に時間を過ごすかは、人生を大きく左右します。だからこそ慎重に相手を選びたい(中略)悪い感情を拾ってしまわないためのてっとり早い方法は、『幸福感を吸いとってしまうような人とはつき合わない』こと」と言う。だから、そのことに「罪悪感を感じる必要はない」といっている。人生を左右する脳への影響上、幸せの条件的にも友選びは重要な視点なのである。
そして、三つの前提条件に加えて、人それぞれ固有の幸せの条件、心の問題といわれる部分が乗っかり、その人固有の幸福観が決まる。心に平安をもたらすうえで、“絶対的な幸福感”について考えることは重要な意味を持つ。
是非とも自分の求めている幸福観を心の中に描いてほしい。
参考)幸せとはなにか
『「哲学」は図で考えると面白い』では、幸せの概念(古代ギリシア)は、①快楽に幸福を求める快楽主義(エピクロスが提唱)…人間行動の目標は快楽であり、それが幸福にむすびつくとし、もっとも幸福な状態とは、肉体的な苦痛がなく、精神的に平静であることで、欲望の奴隷では快楽は得られず、こころの平静もない。欲望に支配されてただただ、快楽を貪るという生き方とは違うのであり、間違って解釈されている場合が多いいが、肉体的苦痛を避け、精神的平静を保つ、エピクロス自身が実践した自然に溶け込んだ質素な生活を送ること。②-1 禁欲主義(ストイズム。ストア派が語源)…キリスト教の倫理観、道徳観と通じる。快楽主義とはまったく反対の行き方に幸せがあるとした。人間の本質は理性にあり、その理性は宇宙の理性と同じものだと考えた。だから人間は理性に沿った生き方をしなければならず、人間の欲望や感情は理性によって支配されるべきであり、欲望や感情にしたがって生きることは、理性に背く生き方としている。欲望、感情を抑え、理性にしたがって生きることこそ、もっともよい生き方であり、幸せなのだということで、それを実践しているのが賢者である。②-2 ストア派の流れをくみ、快楽主義に批判を加え、徳(道徳)に本当の幸福があるとセネカは考えた。セネカによれば快楽は壊れやすいものであるのに対し、徳は気高いものだとされる。だから、楽しい生活ではなく、善き生活を送ることが幸福なのだ、という。③生きていることは苦悩に満ちているとする厭世(えんせい)主義(ペシミズム)でも、生の苦悩から開放されるためには、みずからの欲望を捨てさる禁欲が必要だと説いている。
以上からは、快楽の中に幸せがあるのか、あるいは禁欲の中に幸せがあるのか、なのだが、二元的ではなさそうだ。快楽主義では、人間社会に生まれてきた価値に疑問符が残るし、禁欲主義では息苦しいし、厭世主義では、後ろ向き。他者と共に笑える人生であることがなければならないと思う。
参考として、もう少し紀元前三〇〇年頃にゼーノーンが創始したストア派の幸福感について記す。哲学者が統治するというプラトンの理想国家の如く統治した西暦二世紀のローマ皇帝のマルクス・アウレーリウスの『自省録』によると、ストア哲学の基調は、「自然と合致して生きること」で、ここでいう自然とは宇宙を支配する理性ないし理法を指しており、「徳に従って生きること」であり、「すべて生命を有するものの義務はその創られた目的を果すにある。しかるに人間は理性的に創られ。ゆえに人間はその自然に従って、すなわち理性に従って生きれば、自分の創られた目的を果すことができる。そのためには絶対に自律自由でなくてはならない。他人にたいしてしかり、また自分の肉体からくる衝動や、事物にたいする自分の誤った観念や意見にたいしてもそうであって、これに囚われてはならない。なかんずく死にたいする恐怖から解放されていなくてはいけない」として、「人間の幸福と精神の平安は徳のみから来る。徳とは宇宙を支配する神的な力、すなわち『宇宙の自然』に服従し、その自然のなすことをすべて喜んで受け入れることにある」。