on the road

【UTCP on the Road】 遠くへ (藤田尚志)

2009.04.03. (本エッセイは元々UTCPのために執筆されたものです。)

人にはそれぞれ思考の原風景とでも言うべきものがあると思う。「満足いくものが書けたとき、そこには風景が見える。自分の書いたものの中に風景が見えるか、見えるとすればそれはどんな風景なのだろうか」――「哲学と教育」の第3回フォーラムに参加すべく乗り込んだパリ行きの飛行機の中で、西山雄二さんと長時間話した中で一番心に残っている言葉だ。彼の答えは、「誰かに手を差し出している風景かな。『握手をしよう』って」というものだった。これはとても彼らしい答えだ。以来何となく考えてみた。「私は?」

airport.jpg

たぶん旅立つ風景だ。空港や駅、大学でもいい。人が慌ただしく行き交う場。そこに独りで佇み、どこかへ出発するのを待っている。若干の期待と若干の 寂寥。遠くへ、さらに遠くへ――私の書いたものを読む人がどう思うかは分からないが、少なくともそれが、私が仕事をしているときに根底にある気分 (Stimmung)であるような気がする。

それはハイデガー的なノスタルジーとはおそらく違う。彼はノヴァーリスに倣って哲学することの根本気分を「郷愁」と呼んだが、私にとっては世界の中 にいること(世界内存在)が問題なのではないし、「随所に家に居るように居たいと欲する衝動」に駆られて有限性や単独化を問い続けることが問題なのでもな いからだ。

そうではなく、「閾 Seuil」にいること――私の専門で言えばフランス哲学・思想研究と他の諸科学・諸領域との間にいて、世界のどこかからどこかへ、常にどこかへの途上に あり(on the road)、常に待機中で=何かを期待しているような(en attente)、そんな気分である。連載第一回目の郷原佳以さんに倣って「開かれて繋がる」と言ってもいいし、ドゥルーズに倣って、動詞EST(~である)でなく、接続詞ET(~、そして~)で言い表される何かだと言ってもいい。

UTCPはESTなのかETなのか?UTCPは「家郷」、あるいは郷愁によってそのように変じられるべき存在なのか、それとも途上(milieu) そのものだろうか?黄疸を病む人には世界が黄色に見えるからかもしれないが、ほんの数回イベントに参加して議論を交わしたにすぎない私とUTCPが「遠 く」の関係にあったというだけでなく、UTCPという場所あるいは制度そのものが、「遠くへ、さらに遠くへ」という気分を体現しているのではないのか。む ろん、この絶えず回帰してくる問いにそのつど決着をつけるのは、現在UTCPを構成するお一人お一人である。

「UTCP on the road」とはおそらく「UTCP on my road」の意味で付けられたタイトルなのだと思うが、そういうわけで「UTCP is the “on the road”.」とでも言っておきたい。UTCPを離れるにあたって「UTCPの感想、可能性、批判など自由に」と言われたが、これで責を果たしたことにな るだろうか。感想も可能性も、そして批判も入れたつもりである。

最後に、UTCP関係者の皆様、一年間いろいろとお世話になり、ありがとうございました。

藤田尚志