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Articles 論文43本:単独41、共著2(査読有22、依頼論文17、査読無4)(日26、仏12、英5

20231204 論文形式別データ

43. 「Déconstruire le mariage : Rétif entre Rousseau et Sade」(シンポジウム依頼論文語・単著)

Études rétiviennes no. 55, décembre 2023, pp. 109-127.

42. 「Sublime and Panoramic Vision. Bergson, Kant and Heidegger on Schematism」(査読有・英語・単著)

Bergsoniana no. 3 : Nothigness and Intuition. Bergsonism in East-Asia, July 2023, pp. 165-193.   https://doi.org/10.4000/bergsoniana.1512 

査読有。

Abstract   If all the conceptual devices involved in what Bergson calls “the planes of consciousness,” from the persistence of pure memory to perception and action, concern the relation between two different realms of existence, mind-memory and body-matter, Matter and Memory is then a work that attempts to rethink the problem of imagination and schematism. This is why we can legitimately claim that Heidegger’s challenge in his Kant and the Problem of Metaphysics to read transcendental imagination as primordial temporality can be interpreted as being on the way to a Bergsonian philosophy of immanence that sees the transcendental as the folds and folding of experience. In other words, corresponding to Bergson’s theory of image, Heidegger’s challenge does not reach at pure memory and its power of idleness im-plicated under the form of the inverted cone diagram of consciousness. It is Kant in the Critique of Judgment who comes to the rescue of Heidegger, who has stopped in the middle of his path. Why is the sublime important? Because it exposes, within experience, the limits of the transcendental imagination, of the transcendental schematism, and thus of the Heideggerian interpretation. And it is Bergson in his analysis of the panoramic vision that reveals, through the difference between the tension of attention to life and the tension of conversion, an imagination backlit by the movement of what overflows from the system of memory and perception represented in the diagram of the inverted cone. Especially, his third analysis of panoramic memory is so valuable that, in contrast to the other two analyses, it suggests, through the philosophical gesture of looking-back, that time is not external to experience, as in the sublime, but time is itself a re-living of the past. 

41.「Diremption and Intersection: The Violence of Language in Bergson and Sorel 」(査読有・英語・単著)

 Parrhesia: A Journal of Critical Philosophy No. 36 (2022), pp. 180-200.

査読有)

40.「講義の時間——ベルクソンのコレージュ・ド・フランス講義録を読む (招待論文・日本語・単著)

 『フランス哲学・思想研究』第27号、2022年09月、3-20頁。

シンポジウム依頼論文)

39. 「「大いなる生の息吹…」ベルクソン『道徳と宗教の二源泉』における呼びかけ・情動・二重狂乱(下)道の途中:二重狂乱と政治」(査読有・日本語・単著)

  『仏語仏文学研究』(東京大学仏語仏文学研究会)、2022年3月、第55号、229-246頁。

査読有)

38. リズムの哲学がベルクソンに負うもの」(招待論文・日本語・単著)

フランス哲学・思想研究』第26号、2021年10月、61-72頁。シンポジウム依頼論文。

37. 「家族の脱構築――ヘーゲル、デリダ、バトラーによる『アンチゴネー』読解から出発して」(査読無・日本語・単著

ジェンダー対話シリーズ第7回(中)、けいそうビブリオフィル、2019年12月19日に公開。

(ウェブ媒体論文)2016年11月18日に新潟大学で開催された発表()を文字起こしし、加筆修正したもの

36. 「家族の時間──是枝裕和の近年の幾つかの作品における「分人」的モチーフ」(査読有・日本語・単著)

社会芸術学会編『社藝堂』第6号、2019年6686頁。査読有。

35. “L'immatérialisme de Macherey”(招待論文・仏語・単著)

Bulletin  de la section française faculté des lettres Université Rikkyo, N° 48, 23 mars 2019, pp. 43-58.

(シンポジウム依頼論文)『立教大学フランス文学』第48号、2019年3月、43-58頁。2018年5月12日(土)に立教大学で開催された国際シンポジウム《フロベール、スピノザ、ベルクソン》における発表原稿を改稿。スピノザ研究、19世紀フランス哲学史研究、「哲学と文学研究」において顕著な業績を残したピエール・マシュレの仕事を振り返り、その特異な唯物論性を強調した。

400字要約

フランス文学と哲学を架橋する重要な仕事を成し遂げながら、未だによく知られているとは言えないピエール・マシュレの仕事の全体像を紹介する。①19世紀フランス哲学研究、②文学の哲学研究、そして③スピノザ研究が彼の三つの柱であると言えるが、紙幅の関係上、前二者のみを扱う。①については、哲学的国籍の歴史性・マージナル性・虚構性が強調され、「フランス哲学」に対して「フランス流の哲学」が対置される。②については、文学を外から哲学が分析する「文学の哲学」に対して、文学と哲学が共に真理へと向かう「文学的哲学」が対置される。マシュレ自身は、思想上の一流派ではなく、自らの思索の実践様態にこだわるという意味で自らを「唯物論者」と規定するが、我々としては、フローベールを写実主義ではなく、現実の底を穿つ「非写実主義」と見なした彼の読解に倣って、マシュレを自身の思考実践の基底を穿つ「非唯物論」であると主張する。

34. 「ベルクソンからハイデガーへ――リズムと場所(内在的感性論と内在的論理学)」

西日本哲学会編『西日本哲学年報』第25号(2017年10月)、117-139頁。

(シンポジウム依頼論文)

33. “Bergson(-ism) Remembered: A Roundtable”

Journal of French and Francophone Philosophy - Revue de la philosophie française et de langue française, Vol XXIV, No 2 (2016), p. 221-258.(共著論文)

(対談・依頼論文・共著)Curated by Mark William Westmoreland with Brien Karas (Villanova University, USA) Featuring Jimena Canales (University of Illinois-UC, USA), Stephen Crocker (Memorial University of Newfoundland, Canada), Charlotte De Mille (The Courtauld Gallery, UK), Souleymane Bachir Diagne (Columbia University, USA), Michael Foley (University of Westminster, UK), Hisashi Fujita (Kyushu Sangyo University, Japan), Suzanne Guerlac (University of California, Berkeley, USA), Melissa McMahon (Independent Scholar, Australia), Paulina Ochoa Espejo (Haverford College, USA), and Frédéric Worms (L’École Normale Supérieure, France)

32. 「根源的倫理学とは何の謂いか――ハイデガー『ヒューマニズム』書簡に関するノート」

東京大学仏語仏文学研究会『仏語仏文学研究』第49号:塩川徹也先生古稀記念特集号、2016年10月19日、451‐458頁

(査読有)

31. 「「役に立つ」とはどういうことか?――デリダ、プラグマティズムから考える哲学的大学教育論」

『2015年度 第21回FDフォーラム 報告集』、公益財団法人大学コンソーシアム京都、2016年6月、236-246頁

(講演依頼論文)

30. 「分人主義的結婚は可能か?――ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』を読み直す」、玉川大学人文科学研究センター年報『Humanitas』第7号、2016年3月15日、129-143頁。

(シンポジウム依頼論文)愛・性・家族そして結婚の諸問題を考える時に、「個人」の観点からでは解けなかった難問も、「分人=人格」の観点から考えることで光明が見えてくるかもしれない。そして、ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』は、68年5月の熱気を現代の私たちにも彷彿とさせる〈砂の想像力〉をもって、そのような「結婚の脱構築」の試みに大きな寄与をなしてくれる著作である。

29. 「結婚の形而上学とその脱構築――契約・所有・人格概念の再検討」

『応用倫理――理論と実践の架橋』vol. 8 別冊『結婚という制度 その内と外――法学・社会学・哲学からのアプローチ』、北海道大学大学院文学研究科 応用倫理研究教育センター、2015年3月15日、論文本編は24-40頁、討論での発言部分は44-47, 49-50, 52, 54頁

(シンポジウム採録)発表37, 38, 40を直接の出発点とし、2015年1月11日(日)に北海道大学学術交流会館小講堂で行なわれた同大学大学院文学研究科 応用倫理研究教育センター主催の公開シンポジウム「結婚という制度 その内と外――法学・社会学・哲学からのアプローチ」での講演原稿に大幅な加筆修正を加えた

哲学的な観点から、愛・性・家族の結節点としての結婚――フランスのPACSまで含む、自由でありながらかつ持続的なものとしての「絆」の可能性と不可能性――を見た場合、昨今の非婚化・晩婚化・少子化などの諸問題をどう考えることができるのか。本論文では、カント、ヘーゲル以来の私的所有(あなたは私のもの)に基づく結婚観のアドルノ、ドゥルーズ&ガタリ、デリダによる脱構築を試み、契約・所有・人格概念の再検討を行った。(197字)

1000字要約

例えば、「恋愛結婚は異論の余地なく素晴らしいものである」といういわゆるロマンティックラブ・イデオロギー、あるいは「家族の介護は家族内で行なうべきだ」という家族観。私たちを今なお支配している、愛・性・家族をめぐる人びとの強い「思い」、そして強い「思い込み」こそ「結婚の形而上学」である。

ヘーゲルにおいてひとまずの完成を迎える近代的結婚観においては、〈愛・性・家族〉がセットになり、固く結びついて「結婚」というものを構成していると思われてきたわけだが、果たしてそれは未来永劫不変の真理なのか。人びとの無意識に潜む「結婚の形而上学」を露呈させつつ、現在結婚に起こりつつある変化の微細な兆候を見逃さず書きとめていく作業、それが「結婚の脱構築」(第一節)。そのためには、流動化と安定化のはざまで揺れ動く結婚の現在を分析し、結婚の仮説的な“起源”にさかのぼってその不変の定数を求め、“結婚”(と呼ばれ続けるかどうか不明なもの)の未来に思いを馳せる必要があった(第二節)。

こうして姿を現した〈結婚の形而上学〉を支える三つの根本概念とは何か。まず、①「契約・約束」である。結婚には「愛を誓った/契約した/約束したのだから、履行しなければならない」という考えが前提されている。カント『人倫の形而上学』やヘーゲル『法哲学』を参照しつつ、契約と約束の可能性を検討した(第三節)。

 次に、②「所有・優先権」。「あなた(私)は私(あなた)のもの」という、つまり「所有している/されているのだから、好き勝手にはできない」という暗黙の前提がある。そこには優先権があって、その権利を侵害された場合には精神的謝罪・道義的制裁・物質的補償がなされてしかるべきだということを人びとは自明視している。マルクス『経済学・哲学草稿』やアドルノ『ミニマ・モラリア』を参照しつつ、所有と優先権の可能性を検討した(第四節)。

 最後に、③「人格・個人」である。「制度的・体験的に所有する/される『私』『あなた』」というものがいなければ、①や②は成り立たない話で、③が必ず必要である。この点に関して、ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』に見られる植物的恋愛観と横断性愛を参照した。多くの植物が、一個体のなかに雄しべと雌しべをもつ、雌雄同体(同株)であるように、「男性」や「女性」とは、雄や雌の部分が統計学的に優位にある人間ということを意味するにすぎないのではないか。人は、統計学的ないし巨視的には異性愛だが、微視的には「横断性愛」なのではないか。このような考え方は、愛・性・家族にどのような帰結をもたらしうるだろうか(第五節)。

28. 「ソフィストの力(アレテー)――大学における哲学教育に関する若干の考察」

『哲学論文集』第五十輯(九州大学哲学会創立50周年記念)、九州大学哲学会、2014年12月、75-102頁

シンポジウム依頼論文)九州大学哲学会の平成二五年度大会シンポジウム「哲学教育の危機をこえて」(2013年9月29日、於:九州大学・箱崎キャンパス)での提題に大幅な加筆修正。

27. 「大学の時間」

京都文教大学人間学研究所『人間学研究』第14号、2014年3月、70‐77頁(質疑応答などの採録は、83-85, 87-88, 90頁)

(シンポジウム採録)2013年度人間学研究所主催公開シンポジウム「日本の大学、このごろ焦ってませんか?~『社会に役立つ大学』の価値を問う~」の書き起こしに加筆訂正のうえ採録

26. "Bergson ou Deleuze. A quoi reconnaît-on le vitalisme ?" 

Frédéric Worms (éd.), Annales bergsoniennes, tome VI, Paris : PUF, coll. "Epiméthée", février 2013, pp. 413-427. ISBN 978-2-13-061763-1

仏語論文「ドゥルーズか、ベルクソンか―何を生気論として認めるか」(査読有)論文19の仏語版

「ドゥルーズか、ベルクソンか―何を生気論として認めるか」。国際誌論文(フランス語)(査読有)pp. 413-427.

論文5(日本語)の仏語版。 

25. "L'immémorial. Bergson avec Lévinas"

Frédéric Worms (éd.), Annales bergsoniennes, tome VI, Paris : PUF, coll. "Epiméthée", février 2013, pp. 347-372. ISBN 978-2-13-061763-1   https://doi.org/10.3917/puf.abiko.2013.01.0347

仏語論文「記憶を絶したもの――ベルクソンとレヴィナス」(シンポジウム依頼論文)著書7の仏語版

国際誌論文(フランス語) 著書5(日本語)の仏語版。

200字要約

本論考は、災厄の時間、破局の時間を思考したフランス人哲学者エマニュエル・レヴィナス(1906‐1995年)が後期に展開した「記憶を絶したもの」に関する思考と比較参照しながら、最晩年のベルクソンが「純粋記憶」概念に基づいて展開した「記憶の政治学」とでも呼びうるものの輪郭を素描する。そして、それら二つの記憶しえぬ記憶が実際に重要な役割を果たしている幾つかの例を取りあげ、両者の思想を比較検討する。

400字要約

本論考は、災厄の時間、破局の時間を思考したフランス人哲学者エマニュエル・レヴィナス(1906‐1995年)が後期に展開した「記憶を絶したもの」に関する思考と、最晩年のアンリ・ベルクソン(1859-1941年)が「純粋記憶」概念に基づいて展開した「記憶の政治学」と呼びうるものを比較対照する。後期レヴィナスの思想によれば、倫理的主体の真の主体性は、記憶によって回収され得ない、記憶とは完全に断絶した「記憶を絶したもの」から超越的な仕方で到来する。主体性は対話を必要とせず、内在性の襞が作り出す自己完結した世界に存在論的な穴を穿つことで、直接的に、つまり無時間的に、自らを曝露する。これに対して、ベルクソン的な倫理主体もまた、想起や現在の知覚によって回収され得ない「純粋記憶」の働きによって主体となるが、それは常に内在的な仕方で、人格的な次元(「個人」の次元ではない)を介して、人から人へ、つまり持続の中においてである。  

24. 藤田尚志・久木山健一・佐喜本愛・田村隆・松原岳行・南佑亮「大学のために――ある読書会の記録」(共著論文)

『九州産業大学国際文化学部紀要』第52号、2012年9月、125‐152頁

(査読無)担当箇所:「序論」「6.大学の時間」

「大学について哲学する」」ということが可能であるなら、重要な争点をはらんだ主要なターゲットの一つは「大学の時間を哲学すること」であるに違いない。それは、例えば、具体的には単位について考えてみることであるだろう。担当箇所では、日本の大学の単位制度の来歴を辿り、現状の問題点を見定め、ありうべき解決策を探った。 

23. "University with Conditions: A Deconstructive Reading of Derrida's The University without Condition"

The Southern Journal of Philosophy (University of Memphis), 50th anniversary Special Issue: "Continental Philosophy: What and Where Will It Be?", Vol. 50, no. 2, June 2012, p. 250-272.

英語論文「条件付きの大学:デリダ『条件なき大学』の脱構築的読解」(依頼論文)著書2の大幅バージョンアップ版

フランス哲学の代表的な哲学者たちが伝統的に大学を積極的に論じてこなかった理由を社会学的な分析によって解明し、その例外であるデリダの『条件なき大学』という大学論でさえも限界があることを示しつつ、現代フランス哲学の延長線上で新たな大学論が生み出される可能性を探った。 

1000字要約

《大陸哲学はどうなっていくのか?どこへ向かうのか?》というアメリカのヨーロッパ哲学研究雑誌の50周年記念号の問いかけに応じて執筆された本論文では、フランス哲学研究という手持ちの道具立てを用いながら、「哲学と大学」という問題へのアプローチを試みた。

デリダの大学論は二つある。一つは、後に『哲学への権利について』(1990年)にまとめられる70-80年代の膨大なテクスト群である。そこではさまざまな制度的冒険が提唱され、実際に国際哲学コレージュという形で実験が行われもした。もう一つは、1998年に米・スタンフォード大学で行なわれた講演『条件なき大学』(2001年)である。本論考では、この二つの大学論のあいだには転回があり、また単に大学論に限られない真の哲学的争点があることを示そうとする。『条件なき大学』が属する後期デリダは次の三つの点で問題を抱えているように思われる。

1)無条件性(政治):『条件なき大学』の中心にある「無条件性」という概念、「無条件の独立」や「無条件的な主権」といった概念は、「正義」や「贈与」などと同様、きわめて後期デリダ的であり、脱構築不可能な逆説的観念である。デリダはその逆説性を誇張法によって強調するだけにとどまっており、本来であれば直ちに行われるべき「無条件性」の精緻な分析や、「無条件性を条件づけるもの」の具体的な分析が無限に延期されているのではないか。

2)職業/労働(経済):この疑念を経済的な観点から言いなおせば、次のようになる。デリダは、資本の論理とはまったく無縁なものとして人文学の純粋性や純潔性を想定し、それらを大学全般に押し広げようとしているようにみえる。しかし、現代資本主義の論理そのままではないとしても、何らかの〈エコノミー〉が人文学においてすらも作動していると考えるべきではないか。

3)パックス・アメリカーナ(文化):デリダはカントの「かのように」をアメリカ的人文学研究が継承発展させたことをもって、ドイツの近代大学から現代アメリカの大学へのヘゲモニーの移行を彼なりの仕方で語る権利を確保しようとしているように見える。現代アメリカの大学をモデルとして世界中の大学について語るのであれば、はたしてそれを「資本主義の〈精神〉」と完全に切り離されたものとして語ることは可能だろうか。また、そう語ることは、デリダ的観点そのものからして首尾一貫したことなのだろうか。

2000字要約 国際誌論文(英語):著書1(日本語)を英語訳し、大幅にバージョンアップさせたもの。 

デリダの『条件なき大学』は、1998年4月にアメリカのスタンフォード大学で行われた講演を基にしており、その後、2000年にエジプト・カイロ、2001年に中国・上海の復旦大学でも同じ講演が行われたそうである。この「場所」の問題は、『条件なき大学』の構成原理にとって、ひいては「大学と哲学」を論じようと思う者にとって、どうでもいい問題ではない。デリダは、この大学論の中で、明らかに「哲学」よりも、「明日の〈人文学〉」に頻繁に言及している。これは、彼が70年代後半から80年代前半にかけてフランス語で発表した一連の大学論が「哲学」を軸足にしているのと鮮明な対照をなしている。

概観すると、近代的な意味での大学は、文化による民族統合の装置だが、その精神的な中心は(したがって人文学の中心もまた)、ドイツやフランスといった国々と、イギリスやアメリカといった英語圏の国々とでは異なる。後者の大学においては、むしろ「国民文学」の発明が哲学研究以上の役割を果たしてきたのである。哲学ではなく、文学研究が人文学一般のモデルとなっているという、おそらくは日本の大学にもあてはまるこのような状況下で、「哲学と大学」を問うことの意味は何か。デリダはこの点を巧みにすり抜けているように思われる。

したがって、我々にとって重要なのは、『条件なき大学』の「かのように」の議論だけに限局せず、後に『哲学への権利』(Jacques Derrida, Du droit à la philosophie, Galilée, 1990)にまとめられることになる70-80年代の膨大なテクスト群のうちにデリダの大学論の可能性を見出そうと努めること、言い換えれば、「労働の終焉」という言説に抗して大学的営為の「職業」性を強調しようとする「金曜日のデリダ」ではなく、かといって「日曜日のヘーゲル」に舞い戻るのでもない道を、言ってみれば「哲学者の土曜日」を、デリダと共に探すことである。ここには単に大学論に限られない真の哲学的争点がある。前期デリダと後期デリダの間に指摘しうる転回を、倫理的・政治的な転回というだけではおそらく不十分なのであって、言ってみれば、制度的あるいは判例法的な問題設定から、超越論的なものの過激化による制定法的な公理系へのラディカルな移行が問題となっているのである。『条件なき大学』が属する後期デリダは次の三つの点で問題を抱えているのではないか。批判点をまとめておこう。

1)無条件性(政治):『条件なき大学』の中心にある「無条件性」という概念、「無条件の独立」や「無条件的な主権」といった概念は、「正義」や「贈与」などと同様、きわめて後期デリダ的であり、脱構築不可能な逆説的観念であろう。デリダはその逆説性を誇張法によって強調するだけにとどまっており、本来であれば直ちに行われるべき「無条件性」の精緻な分析や、「無条件性を条件づけるもの」の具体的な分析が無限に延期されているのではないか。

2)職業/労働(経済):この疑念を経済的な観点から言いなおせば、次のようになる。デリダは、資本の論理とはまったく無縁なものとして人文学の純粋性や純潔性を想定し、それらを大学全般に押し広げようとしているようにみえる。あたかも人文学が大学の(望まれてもいない)守護天使の位置につきうるかのように。しかし、デリダ自身言うように「大学が真理を事とし職業とする」のであれば、資本の論理ではないとしても、何らかの〈エコノミー〉が人文学においてすらも作動していると考えるべきではないか。

3)パックス・アメリカーナ(文化):デリダはカントの「かのように」をアメリカ的人文学研究が継承発展させたことをもって、ドイツの近代大学から現代アメリカの大学へのヘゲモニーの移行を彼なりの仕方で語る権利を確保しようとしているように見える。現代アメリカの大学をモデルとして世界中の大学について語るのであれば、はたしてそれを「資本主義の〈精神〉」と完全に切り離されたものとして語ることは可能だろうか。また、そう語ることは、デリダ的観点そのものからして首尾一貫したことなのだろうか。

大学の脱構築、脱構築の大学  大学とは制度であり、条件であり、交渉であり、介入である。条件のない大学などないし、それを要求するという身振りが批判的な射程を備えているとも思わない。なされるべきは具体的なプロジェクトの提示であり、その実行である。デリダが『哲学への権利』でやっていたのがまさにそれだと私は考える(大学の外部での哲学国際コレージュの創設)。問題は、廃墟と化した大学を嘆くことではなく、廃墟の後に、いかなる未来図を描くのか、である。『廃墟のなかの大学』の著者レディングズが試みたのがまさにそれであった。単なる弱肉強食の自由競争社会ではなく、よりよい教員、よりよい教育、よりよい大学を作るためにはどうすればよいのか――ここに「大学という制度の脱構築」の必要性が生じる。そして、ここに哲学者たちが大学という問題に取り組む必要性と責任が生じる。その必要性は不可能にして不可欠なものであり、その責任は債務なき無限の責任である。


22. "Politiques de l'émotion. Une lecture des Deux Sources de la morale et de la religion (1932) I. La portée de la voix : l'appel et la personnalité"

Croisements (Revue francophone de sciences humaines d'Asie de l'Est, sous l'égide des sociétés savantes francophones chinoise, coréenne, japonaise et taïwanaise), avril 2011, no. 1, pp. 208-236. téléchargeable

仏語論文「声と人格性」(査読有)論文7を改良したフランス語版

「情動の政治学。『道徳と宗教の二源泉』(1932年)の一読解。I.声の射程:呼びかけと人格」。国際誌論文(フランス語)(査読有)pp. 208-236.

ベルクソン最後の大著『道徳と宗教の二源泉』は、人がいかに行動へと駆り立てられ、衝き動かされるのか、《行動の論理》を探究する。本論文では、「声」の形象を取り上げ、「呼びかけ」が、それを行なう「人格」を事後的に構成するという逆説を分析する。憧れの存在に近づこうと努力する者は、その努力によってすでに幾分か当の対象に近づき得ている。 

21. 「ライシテの彼岸と此岸――フランス現代思想における宗教の問題」

『日仏社会学会年報』第20号、2010年12月、1‐21頁。ISSN 1343-7313

(依頼論文)哲学的に「ライシテ」(laïcité)をどう考えるべきか。「世俗化」(sécularisation)概念の歴史的な概観と「ライシテ」概念との比較分析から、さらにはsaeculum(siècle)ないし世界化=世俗化(Verweltlichung)といった概念を通して明らかになるのは、世界(monde)を思考することこそが問題になっているということである。この点に関して、現代フランス哲学の思想家であるドゥルーズ、デリダ、ジャン=リュック・ナンシーの分析を概観した。 

哲学的に「ライシテ」(laïcité)をどう考えるべきか。社会学に任務を委ねるのでも、あまりに「共和主義的」概念だとして避けるのでも、「キリスト教的」コノテーションが強すぎる観念として単に退けるのでもなしに。「世俗化」(sécularisation)概念の歴史的な概観と「ライシテ」概念との比較分析から、さらにはsaeculum(siècle)ないし世界化=世俗化(Verweltlichung)といった概念を通して明らかになるのは、世界(monde)を思考することこそが問題になっているということである。この点に関して、現代フランス哲学の思想家であるジル・ドゥルーズ、ジャック・デリダ、ジャン=リュック・ナンシーの分析を概観し、その延長線上で発展させられるべき方向を模索しようと試みた。 


20. 「場所の記憶、記憶の場所―ベルクソン『物質と記憶』における図式論の問題」

『九州産業大学国際文化学部紀要』第45号、2010年3月、181‐193頁。

(査読無) 著書4(ポルトガル語訳)の日本語別バージョン

ベルクソン第二の主著『物質と記憶』に関して、記憶の場所論を理解するためには図式論の問題が中心的な課題となることを指摘した。 

19. 「デジャヴをめぐって:偽なるものの力と記憶の無為―ドゥルーズか、ベルクソンかIII」

『記憶と実存〜フランス近現代文学におけるネオ・ジャクソニスム的傾向〜』(科学研究費補助金中間報告書)、2010年3月、55‐81頁。 

(依頼論文)著書9(英語)所収の論文の元になった論文。

20世紀の前半と後半のフランスを代表する哲学者ベルクソンとドゥルーズ。親縁性・影響関係ばかりが指摘される両者を真に分かつ点はどこにあるのか。本論文ではとりわけデジャヴという興味深い現象に対する両者のアプローチの違いという側面から徹底的な解明を試みた。 

18. 「訳者解説II――フランス現代思想におけるゴーシェの位置」

マルセル・ゴーシェ、『民主主義と宗教』、トランスヴュー、2010年2月、209‐227頁。

(依頼論文)

17. 「ドゥルーズか、ベルクソンか―何を生気論として認めるか」

『思想』(岩波書店)第1028号「ベルクソン生誕150年」、2009年12月、210‐223頁。

(依頼論文)20世紀の前半と後半のフランスを代表する哲学者ベルクソンとドゥルーズ。親縁性・影響関係ばかりが指摘される両者を真に分かつ点はどこにあるのか。本論文ではとりわけ形而上学的な側面から徹底的な解明を試みた。

2000字要約

論文「ドゥルーズか、ベルクソンか―何を生気論として認めるか」、『思想』(岩波書店)第1028号「ベルクソン生誕150年」、2009年12月、210‐223頁。

 

ここ十数年のベルクソン研究の動向を一言でまとめるならば「ポスト・ドゥルーズ的な方向性の模索」と言える。模索は依然続いているが、その理由の一つは、どこに根源的な差異があるかがきちんと解明されていない点にある。したがって現在、喫緊の課題は、ピエール・マシュレの著作『ヘーゲルか、スピノザか』にならって言えば、「ドゥルーズか、ベルクソンか」を問うことである。ベルクソンとドゥルーズの関係を最も生産的に読み解く方途の一つは、彼らの「生の哲学」ないし「生気論」の共通点と差異を精査することであるように思われる。共通点は、有機的なものと無機的なものの境界線を無効にするということ、有機的なものにとどまらず、かといって無機的なもの、機械だけを称揚するのでもない、ということである。存在と非在の間を「(非)存在」と名付けたドゥルーズに倣って(DR262)、二人に共通する生気論を「(非)有機的 (non)-organique」と呼ぶことにしよう。ドゥルーズはしばしば「非有機的な〈生〉 Vie non-organique」という表現を用いたが、私たちの考えでは、二人を隔てる差異は、(非)有機的 (non)-organiqueと非有機的 non-organiqueの間にある。差異化=微分化(純粋な潜在性)と異化=分化(潜在的なものの現働化)を両極とするドゥルーズの非対称な二元論的一元論を、『差異と反復』は、現働化の側に重心を置きつつ描いたわけだが、以後のドゥルーズ哲学は、現働化を純粋に潜在的な出来事自身の折りたたみ/折り開きとして捉える方向へと向かっていくことになる。両者の根本的差異はここにある。すなわち、純粋な潜在性か(ドゥルーズ)、潜在的なものの現働化か(ベルクソン)という点にある。これを次の三点について見ていく。

1)二つのアニミスム:観照と行動 ベルクソンの生気論は、行動と創造と愛の生気論である。これに対して、「非-有機的生」の観照性、受動的創造としての創造は前期から一貫し、その後強まっていくドゥルーズのテーマであった。「魂(あるいはむしろ力)は、ライプニッツが語っていたように、何も作らないし、能動的に作用もせず、ただ現前するだけであるということ、心は保存をするということだ。[…]感覚は純粋観照である。観照すること、それは創造することであり、受動的創造の神秘であり、それが感覚なのである」(QPh 199)。この観照性の哲学の背後にあるのは、「出来事としての潜在性」という考えである。生命と出来事――存在と死(死に臨む存在)が『存在と時間』のハイデガーを特徴づけるとすれば、この二つの言葉がドゥルーズの哲学を規定しているというのはよく知られているであろう。しかし、ドゥルーズにとって重要なのは非有機的な生であり、潜在性としての出来事なのだ。

2)二つの出来事:反‐実現と参加 現働化の徹底的な忌避、現在さえも現働性から解放しようとすること、これこそドゥルーズをベルクソンから決定的に分かつ第二の点である。これを出来事のレベルで言うとどうなるか。ドゥルーズは出来事の中でも「生起する一切のものの中にあって、おのれ自身の現働化から逃れるものの持ち分」(QPh 147)を強調し、それを「反‐実現」と呼ぶ。これほど非ベルクソン的な考えがあるだろうか。ベルクソンにとって出来事、より正確には「新たなもの」は絶えず現働化において(・・・・・・・)生成するものである。ここでは有名な論文「可能的なものと現実的なもの」の結論部を引いておくことにしよう。「我々が殊にいっそう大きな力を感ずるというのは、起源にある創造の大きな仕事、我々の目の前で続けられていく仕事に我々も参加して、自分自身の創造者となるように感ずるからである。我々の行動能力は凝集しながら強度になっていく」(PM 1344-45)。

3)二つの外部:非合理的切断と開かれた全体性 ベルクソンは単純に有機的ではない(機械や星辰まで巻き込んでいく)(非)有機的な「開かれた全体性」という概念を手放すことはなかった。他方、『シネマ』では、イマージュの結晶的体制、すなわち現代映画は、次のように規定されている。「我々はもはや、たとえ開かれた全体であっても、思考の内面性としての全体を信じるのではなく、内に掘り進み、我々を掴み、内部に引きつける外部の力を信じるのである」(IT 276)。こうして「線と点は形象から解放され、生命は有機的な表象の軸から解放される。力能は非有機的な生の中に移る」結果、「非合理的切断としての間隙が増殖する」(IT 280)。奇妙な形で静的発生のうちに動的発生を折り畳んだ生気論。これこそがドゥルーズの非有機的生気論が提示する最終的なイメージにほかならない。

まとめよう。アニミスムがベルクソンとドゥルーズを隔てるのではなく、魂の観照、行動の放棄という点が二人を分かつ。潜在性としての出来事が二人を隔てるのではなく、出来事の反実現、現働化の放棄が二人を分かつ。外部を呼び求める点で二人が異なるのではなく、外部から完全に有機性を放逐するまでに切断を非合理化するか否か、全体性を完全に手放すかどうかが二人を分かつ。


16. 「ベルクソン研究の現在――サーヴェイ:フランス、英米、日本の現状」

『思想』(岩波書店)第1028号「ベルクソン生誕150年」、2009年12月、118‐139頁

(依頼論文)著書1の大幅アップデート版

ベルクソン生誕150周年にあたって、フランス、英米、日本におけるベルクソン研究の現状を概観した。 

15. 「踏切板と石板―ベルクソンとレヴィナスにおける物質性の概念

『九州産業大学国際文化学部紀要』第43号、2009年9月、113‐133頁。

(査読無)論文15の大幅改良版

ハイデガーとの対決ばかりが強調されるが、実際にはレヴィナスは「ハイデガーとベルクソンの間」で思考したのだ。1)初期レヴィナスにおける「ある(イリヤ)」概念はベルクソンの無の批判を、2)中期レヴィナスの「多産性」概念はベルクソンの「エラン・ヴィタル」概念をそれぞれ背景にしていることを示し、この対立が両者の「物質性」概念において頂点を迎えることを示した。 

14. 「言葉の暴力II : アナーキーとアナロジー―ベルクソンとソレルにおける言語の経済」 

『フランス語フランス文学研究』(日本フランス語フランス文学会)第94号、2009年3月、119‐131頁。ダウンロード(résumé en français) from CiNii   https://doi.org/10.20634/ellf.94.0_119

(査読有)全国学会誌論文(日本語)

著書4所収の論文(英語)の元になった日本語論文。

ベルクソンの影響を受けた思想家に『暴力論』のソレルがいる。通常、物理的暴力の思想家と見なされがちなソレルが実はベルクソンの言語論の影響を受けていること、ソレルの暴力論の本質は言語的な次元にあることを示そうと試みた。(107字)

Résumé en français

Parmi les contemporains de Bergson, non seulement la droite nationaliste, conservatrice, adversaire du systeme parlementaire mais également la gauche antiparlementaire, révolutionnaire ou anarchisante manifestèrent chacune leur faveur pour un bergsonisme exaltant l'élan vital. S'agit-il d'une alternative "discussion démocratique ou action immediate", c'est-à-dire "langage ou violence" ? Dèrriere cette interprétation du "Bergson politique", le voit-on, il y a celle de la théorie bergsonienne du langage. Lorsqu'il oppose l'abstraction symbolique à l'attraction métaphorique, l'"accroissement du revenu de l'année" au "capital indéfiniment productif d'intérêts", Bergson analyse la question du point de vue économique. Or, Georges Sorel - on le considère trop souvent comme penseur de la violence et comme déformateur de Bergson - oppose de son côté la force politique à la violence syndicale économique, de sorte qu'il y voit une opposition entre le langage intellectuel analytique et le langage intuitif imagé. Bergson et Sorel voyait le même horizon. Si le langage de la violence chez Sorel se mouvait dans la sphère de l'anarchie économique qui s'ouvre à la fois à la logique du capital et à celle de l'anti-capital, la violence du langage chez Bergson vient de ce qu'on pourrait appeler "l'analogie originaire" déterminant à la fois l'économie complémentaire du langage: sa mobilité et sa fixité.

13. "Le tremplin et la table. La matérialité chez Bergson et Lévinas"

Frédéric Worms (éd.), Annales bergsoniennes, tome IV, Paris : PUF, coll. "Epiméthée", décembre 2008, pp. 269-283.   https://doi.org/10.3917/puf.fagot.2008.01.0269

仏語論文「踏切板と石板―ベルクソンとレヴィナスにおける物質性」(シンポジウム依頼論文) ハイデガーとの対決ばかりが強調されるが、実際にはレヴィナスは「ハイデガーとベルクソンの間」で思考したのである。1)初期レヴィナスにおける「ある (イリヤ)」概念はベルクソンの無の批判を、2)中期レヴィナスの「多産性」概念はベルクソンの「エラン・ヴィタル」概念をそれぞれ背景にしていることを 示し、この対立が両者の「物質性」概念において頂点を迎えることを示した。

12. 「言葉の暴力―ベルクソン哲学における比喩(トロープ)の問題―」

『フランス語フランス文学研究』(日本フランス語フランス文学会)第92号、2008年3月、182-197頁。ダウンロード(résumé en français) from CiNii   https://doi.org/10.20634/ellf.92.0_182

(査読有)ベルクソンは名文家であると同時に、言語批判者としても知られる。この”矛盾”は、彼の哲学には二つの「言葉の暴力」がある、という仮説によって解決されるように思われる。言語は現実を有用性に沿って裁断し、象徴化の暴力を行使するが、他方で、哲学者がより強度に満ちた生の次元を垣間見ることで、人間的生の拡充・深化を図る際に、言語は通常の用法から逸脱させられ撓(たわ)められ、無理を強いられることになる。(182-197頁)

Résumé en français

Images, figures, métaphores ou analogies - l'imagerie de Bergson est d'une richesse remarquable. Pour la durée : "si je veux me préparer un verre d'eau sucrée, j'ai beau faire, je dois attendre que le sucre fonde" ; ou bien, la mémoire se représente par la figure du cône inversé. Et pourtant, on sait aussi que l'attaque de Bergson contre tous les signes est sans merci : "notre initiation à la vraie méthode philosophique date du jour où nous rejetames les solutions verbales, ayant trouvé dans la vie intérieure un premier champ d'expérience". A cette apparente contradiction, nous cherchons à répondre en formulant une hypothèse de travail. D'un côté, notre esprit "se sent chez lui" lorsqu'il traite la matière, tandis qu'il se sent "à l'etranger" dans son for interieur (premier renversement : le chez soi et l'étranger). Mais, si "l'intuition nous donne la chose dont l'intelligence ne saisit que la transposition spatiale, la traduction métaphorique", qu'est-ce que le trope? Qu'est-ce que la métaphore? "Ne soyons pas dupes des apparences : il y a des cas où c'est le langage imagé qui parle sciemment au propre, et le langage abstrait qui parle inconsciemment au figuré" (second renversement : le propre et le figuré). De l'autre côté, le langage peut aussi servir, lorsque le philosophe entrevoit une dimension plus intense de la vie, pour élargir et approfondir la vie humaine. Il doit etre alors détourné de l'usage ordinaire ; il est inflechi et forcé : "il faudra violenter les mots" (DS, 1191/270). Bref, quand on parle de "la force du langage", il y en a deux, ce à quoi force le langage en vertu de l'utilité, et ce qui force le langage à (re)découvrir et même inventer l'efficacité de la réalité vitale. Et n'est-ce pas ce double mouvement qui constituera, comme les "transports amoureux", l'essence du trope?

11. "Bergson's Hand: Toward a History of (Non)-Organic Vitalism"

SubStance (University of Wisconsin Press) Issue 114 "Henri Bergson's Creative Evolution 100 Years Later", nov. 2007, vol. 36, no. 3, pp.115-130. Table of contents

英語論文(翻訳)「ベルクソンの手。(非)有機的生気論の歴史に向けて」(査読有) 論文2の英訳バージョンアップ版。生気論は通常、一つの有機体の構成する全体と部分の相互的・円環的関係に基礎をおくが、ベルクソンの生気論は、1)個体ではなく生命進化の流れを主要な考察対象とすること、2)有機的な「器官」と無機的な「道具」に度合いの差異しか見ないこと、3)「無」の概念は知性によって作られたものであると示すことによって、通常の有機体主義とそれが依拠している「無からの創造」の思想から逃れ得ていることを示す。 

10. 「唯心論(スピリチュアリスム)と心霊論(スピリティスム) ―ベルクソン哲学における催眠・テレパシー・心霊研究―」

『フランス語フランス文学研究』(日本フランス語フランス文学会)第91号、2007年9月、168-182頁。ダウンロード(résumé en français à la fin du PDF)    https://doi.org/10.20634/ellf.91.0_168

(査読有)ベルクソンの催眠やテレパシーといった心霊現象および心霊論への関心を、1)彼の催眠現象に関する理解と独自の記憶理論の関係、2)彼のテレパシー現象に関する理解と独自の知覚理論の関係、3)根底にある「心霊研究」の方法論的考察の諸点について再検討することで、彼の「非合理主義」と見なされてきたものの再解釈を行なう。(153字)

唯心論者ベルクソンは終世、催眠やテレパシーといった、いわゆる「心霊現象」および「心霊論」に並々ならぬ関心を抱いた。1)彼の催眠現象に関する理解と独自の記憶理論の関係、2)彼のテレパシー現象に関する理解と独自の知覚理論の関係、3)それらの根底にある「心霊研究」の方法論的考察、の諸点について再検討することで、むしろ彼の非合理主義と通常見なされてきたものをよりよく理解できるのではないかと問う。(195字)

唯心論者と言われるベルクソンは終世、催眠やテレパシーといった、いわゆる「心霊現象」および「心霊論」に並々ならぬ関心を抱いていた。その関心のありようを、1)彼の催眠現象に関する理解と独自の記憶理論の関係、2)彼のテレパシー現象に関する理解と独自の知覚理論の関係、3)それらの根底にある「心霊研究」の方法論的考察、の諸点について再検討することで、むしろ彼の非合理主義と通常見なされてきたものをよりよく理解できるのではないかと問う。(213字)

Résumé en français

Dans son tout premier article, Bergson en remarquant "la simulation inconsciente dans l'etat d'hypnotisme" dissout le faux probleme de la "suggestion mentale". Ce qui interesse Bergson dans la suggestion hypnotique, c'est sa rythmicité d'une part, et, de l'autre, la distinction entre l'acte de suggérer et ce qui est suggéré. Le premier dévoile le souvenir d'un événement unique, le dernier la distinction entre une sensation et son souvenir, l'un et l'autre constituant les traits fondamentaux de la mémoire. La télépathie, phénomène où on "voit" les proches mourant au loin, semble s'expliquer, d'après Bergson, à partir d'une theorie de la perception. Si le cerveau est un "organe de l'attention à la vie", si vivre est choisir, il doit y avoir une perception virtuelle qui ne monte normalement jamais a la surface de la conscience, et c'est elle précisément qui est la source des perceptions anormales ou des phénomènes occultes. La télépathie a son domaine entre la sympathie (éprouver ensemble) et l'intuition (concevoir du dedans). Traitant ces phénomènes, la méthode de la "science psychique" se situe au "milieu entre celle de l'historien et celle du juge d'instruction". Non comme le juge qui clôt le procès en prononcant une sentance, mais comme le juge d'instruction qui ouvre et monte le dossier pour décider de commencer le proces ou non. Et comme l'historien qui, puisant dans des documents fragmentaires, s'appuie sur la croyance fondamentale au témoignage, pour arriver à la veritable probabilité. Les philosophèmes de tour et de vers résonnent, mais aussi raisonnent chez Bergson, avec cette science psychique, et par là, avec la philosophie clinique et critique.

9. 「《大いなる生の息吹…》―ベルクソン『道徳と宗教の二源泉』における呼びかけ・情動・二重狂乱(中)火の領分:情動と共同体」

『仏語仏文学研究』(東京大学仏語仏文学研究会)、2007年9月、第35号、167-190頁。ダウンロード from UT Repository 

(査読有)第二部では、「火」の隠喩を通して、動的行動の伝播において「情動」が果たしている役割、「熱狂」の示す共同体なき共同性を分析する。情動(é-motion)は、人を動かし、共同性の次元に関わる。最も強い情動たる熱狂は、未知の表象を創造し、その創造性の幾分かを観客や聴衆に伝達する。だが、情動も、熱狂も、その共同性も永続することはない。それらはいかに時を越えて再び蘇ってくるのかを「灰」の形象を通して確認する。(194字)

8. 「ベルクソンと目的論の問題―『創造的進化』百周年を迎えて―」

『フランス哲学・思想研究』(日仏哲学会) 、2007年8月、第12号、121-131頁。

(査読有)

『創造的進化』は、2007年に刊行百周年を迎えた。今なおこの古典が読み直されるに値するとすれば、それはどのような視点からか?筆者は、最も攻撃にさらされている点、すなわち目的論と生気論の不可避的な結合という点に注目し、その重要性を強調した。科学者たちは、生気論を視界の外に追いやるだけで安心しているが、哲学者はむしろ亡霊を召喚し、その執拗さの理由をこそ努めて理解すべきではないか。(186字)

『創造的進化』は、2007年に刊行百周年を迎えた。今なおこの古典が読み直されるに値するとすれば、それは最も攻撃にさらされている点、すなわち目的論と生気論の不可避的な結合という点の再解釈を抜きにしては語れない。カント合目的論との対決を通して、ベルクソンは、1)過激な目的論を過激な機 械論と共に退け、2)「内的合目的性」を退け(進化の狡知)、3)「生の飛躍」による人類の道徳的な「前進」を主張する。(194字)

『創造的進化』は、2007年に刊行百周年を迎えた。今なおこの古典が読み直されるに値するとすれば、それはどのような視点からか?筆者は、最も攻撃にさらされている点、すなわち目的論と生気論の不可避的な結合という点に注目し、その重要性を強調した。科学者たちは、生気論の亡霊を視界の外に追いやるだけで安心しているが、哲学者はむしろ亡霊を召喚し、その執拗さの理由をこそ努めて理解すべきではないか。他の多くの概念同様、合目的性概念の頂点の一つをなすのもまた、カントである。彼は、1)「自然の目的」と「自然的目的」の区別、2)「外的合目的性」と「内的合目的性」の区別(自然の狡知)、3)「最終目的」と「究極目的」の区別(非社交的社会性による人類の進歩)により超越論的な目的論を構築した。これに対してベルクソンは、1)過激な目的論を過激な機械論と共に退け、2)「内的合目的性」を退け(進化の狡知)、3)「生の飛躍」による人類の道徳的な「前進」を主張することで、特異な内在論的目的論を構築する。(437

7. "Cassirer, lecteur de Bergson"

Frédéric Worms (éd.), Annales bergsoniennes, tome III, Paris : PUF, coll. "Epiméthée", mai 2007, pp. 53-70, suivi de la traduction d'un article par Ernst Cassirer sur "L'éthique et la philosophie de la religion de Bergson", pp. 71-97. 

仏語論文「ベルクソンの読者カッシーラー」(査読有) 

ベルクソンが最後の大著『道徳と宗教の二源泉』を刊行した翌1933年、カッシーラーは長文の書評を執筆。その直後、ドイツから亡命した。本稿は、この歴史的な書評をカッシーラーの思想的発展の中に位置づける。1921年の『アインシュタインの相対性理論』、1929年の『シンボル形式の哲学』第三巻、1930年の論文「現代哲学における精神と生命」と、カッシーラーが新カント派的な認識論から徐々に生の哲学に魅せられていく様を追った。(196字)

ベルクソンは、1932年、最後の大著『道徳と宗教の二源泉』を刊行した。翌年、カッシーラーは、長文の書評を執筆し、その直後、ドイツから亡命している。 筆者は、まずこの思想史的に稀有な出会いを証言する長編書評をフランス語に翻訳し、次いで、この書評をカッシーラーの思想的発展の中に位置づけた。 1921年の『アインシュタインの相対性理論』、1929年の『シンボル形式の哲学』第三巻、そして1930年の論文「現代哲学における精神と生命」と段階を経るにつれ、カッシーラーが 新カント派的な認識論から徐々に生の哲学に魅せられていく様を追った。(250字)


6. 「《大いなる生の息吹…》―ベルクソン『道徳と宗教の二源泉』における呼びかけ・情動・二重狂乱(上)声の射程:呼びかけと人格性」

『仏語仏文学研究』(東京大学仏語仏文学研究会)、2007年3月、第34号、97-121頁。ダウンロード from UT Repository 

(査読有)

ベルクソン最後の大著『道徳と宗教の二源泉』は、人はいかに行動へと駆り立てられ、衝き動かされるのか、《行動の論理》を探究する道徳・宗教論である。本論文では、そこに現れる「声」の形象を取り上げ、「呼びかけ」が、それを行なう「人格」を事後的に構成するという逆説を分析する。 (133字)

ベルクソン最後の大著『道徳と宗教の二源泉』は、人がいかに行動へと駆り立てられ、衝き動かされるのか、《行動の論理》を探究する。本論文では、「声」の形象を取り上げ、「呼びかけ」が、それを行なう「人格」を事後的に構成するという逆説を分析する。憧れの存在に近づこうと努力する者は、その努力によってすでに幾分か当の対象に近づき得ている。(163字)

ベルクソン最後の大著『道徳と宗教の二源泉』は、独特の道徳論であり、宗教論である。すなわち、人はいかに行動へと駆り立てられ、衝き動かされるのか、《行動の論理》を探究する道徳・宗教論である。筆者は、ベルクソンの用いている「声」、「火」、「道」の隠喩、そして「生の息吹」というイメージに着目することで、動的な行動の論理をより深く理解しようとする。本論文では、このうち「声」の形象を取り上げ、「呼びかけ」が、それを行なう「人格」を事後的に構成するという逆説を分析する。憧れの存在に近づこうと努力する者は、その努力によってすでに幾分か当の対象に近づき得ている。憧れの対象をそれとして認識するということがなければ、どんなに偉大な人物が目の前にいても心を揺さぶられることはない。「気を落とさないように。もしお前がすでに私を見つけだしていなかったならば、そんな風に私を探し求めたりはしないはずだから」というパスカルの言葉(「イエスの神秘」)はベルクソンの「呼びかけ」概念と共鳴している。(435

5. "La notion de corps chez Bergson. Vers une autre histoire du spiritualisme français"

     Revue de Philosophie française (Société franco-japonaise de philosophie), août 2006, no. 11, pp. 146-155.

     ***La version longue a été présentée au séminaire de Pierre Macherey (le 17 mai 2006). accessible sur le site de STL.

仏語論文「ベルクソンにおける身体観念。フランス・スピリチュアリスムのもう一つの歴史のために」(査読有) 唯心論者ベルクソンは、生命や精神について語ったばかりではない。実は、身体概念について多くの示唆に富む記述を残している。晩年の作『二源泉』を取り上 げ、1)固有身体の問題(身体を自分のものとして所有する)、2)知覚の問題(視覚と触覚の関係)、3)技術の問題(自然と人工の境界)を検討する。身体の固有性、触覚の優位を相対化し、有機体と技術の連続性を強調するベルクソンの唯心論は、他の唯心論者たちと際立った対照をなす。(205字

4. "La question du rythme et de la mesure dans la philosophie de Bergson"

Etudes de langue et littérature françaises (Société japonaise de Langue et Littérature françaises), juillet 2006, no. 89, pp. 74-89.    téléchargeable de la CiNii   DOI : https://doi.org/10.20634/ellf.89.0_74

仏語論文「ベルクソン哲学におけるリズムと拍=尺の問題」(査読有) ベルクソンの処女作『時間と自由』の鍵概念は、「持続」である。その隠喩としてしばしば持ち出されるメロディーは、「有機的全体化」の側面をうまく表現しているが、後の著作で大きく発展させられていく「緊張的継起」の側面を的確に捉えている隠喩はリズムである。リズムは、『時間と自由』の敵概念である「計測」(持続は計測されない時間と規定される)が後に別の肯定的な形で捉え返されることに寄与する。(190字

3. "Entre phainomena et phantasmata. Deja-vu bergsonien et membre fantome merleau-pontien"

Revue de langue et littérature françaises (Société de Langue et Littérature Françaises de l’Université de Tokyo), juin 2005, no. 31, pp. 165-189. téléchargeablede l'UT Repository https://doi.org/10.15083/00036170

仏語論文「現象と幻想の間で。ベルクソンの「デジャヴ」とメルロ=ポンティの「幻影肢」」(査読有) 

ベルクソンは、『物質と記憶』において幻影肢に言及しながら、その分析を回避した。実際、彼の知覚・記憶理論においては、この現象のリアルさをうまく掬い取ることができない。しかし、幻影肢を見事に分析したメルロ=ポンティの知覚理論には逆に記憶の問題系が欠けている。実存の中の状況に左右されない深奥の部分、「記憶の場所」とも言うべき部分に関する考察は、むしろベルクソンが示唆を与えてくれるのではないか。(195字)

どんな哲学者も完全無欠の解決策を持ち合わせているわけではない。重要なのは、その欠をいかにして補うかである。ベルクソンは、第二作『物質と記憶』において幻影肢に言及しながら、故意に分析を回避したように思われる。実際、ベルクソンの知覚・記憶理論においては、痛む部位がしかし存在しないという不可思議 なこの現象のリアルさをうまく掬い取ることができないように思われる。しかし、幻影肢を見事に分析したメルロ=ポンティの知覚理論には逆に記憶の問題系が欠けている。実存の中の状況に左右されない深奥の部分、「記憶の場所」とも言うべき部分に関する考察は、むしろベルクソンが示唆を与えてくれるのではないか。(291字)

2. "La notion de finalité chez Kant et Bergson"

Revue de langue et littérature françaises (Société de Langue et Littérature Françaises de l’Université de Tokyo), décembre 2004, no. 30, pp. 135-159. téléchargeable de l'UT Repository https://doi.org/10.15083/00036176

仏語論文「カントとベルクソンにおける合目的性の観念」(査読有) 合目的性概念の頂点の一つをなすカントは、1)「自然の目的」と「自然的目的」の区別、2)「外的合目的性」と「内的合目的性」の区別(自然の狡知)、3)「最終目的」と「究極目的」の区別(非社交的社会性による人類の進歩)により超越論的な目的論を構築した。ベルクソンは、1)急進的目的論を急進的機械論と共に退け、2)「内的合目的性」を退け(進化の狡知)、3)「神秘的飛躍」による「前進」を主張することで、特異な内在論的目的論を構築する。(213字

1. "La main de Bergson. Pour une histoire du vitalisme (non)-organique"

Revue de langue et littérature françaises (Société de Langue et Littérature Françaises de l’Université de Tokyo) , mai 2004, no. 29, pp. 307-331. téléchargeable de l'UT Repository https://doi.org/10.15083/00036190 

仏語論文「ベルクソンの手。(非)有機的生気論の歴史のために」(査読有) 「生の哲学」「生気論」は通常、一つの有機体の構成する全体と部分の相互的・円環的関係に基礎をおくものであるが、ベルクソンの生気論は、1)進化論、すなわち個体ではなく生命進化の流れを主要な考察対象とし、2)有機的な「器官」と無機的な「道具」に度合いの差異しか見ず、3)「無」の概念が知性に由来すると示すことによって、通常の有機体主義とそれが依拠している「無からの創造」の思想から逃れ得ていることを示す。(199字 

博士論文 La Logique mineure dans l’œuvre de Bergson. Pour un vitalisme (non-)organique.

博士論文取得資格論文(フランス・リール第三大学に提出)、2007年12月。 

仏語博士論文「ベルクソンの著作におけるマイナーな論理。(非)有機的な生気論のために」(査読有) ベルクソンが知性のみによって構築された哲学体系と概念群を 「批判」した(「否定」したのではない)哲学者である以上、彼の哲学の中核を構成するメジャーな概念(持続・記憶・エランヴィタル・情動)は、通常の概念 とは異なり、イメージや隠喩を通じて直観や感性の側から(ロゴスとミュートスの間で)理解されるのでなければならない。筆者は、ベルクソンの四大著作 (『意識の直接与件に関する試論』、『物質と記憶』、『創造的進化』、『道徳と宗教の二源泉』)のテクスト精読を通じて、メジャーな概念を駆動させている マイナーな論理(持続のリズム・記憶の場所・エランヴィタルの技術・情動の呼びかけ)を浮かび上がらせようとする。これにより、ベルクソン哲学は、リズム 論(計測しえぬものをいかに計測するか)、場所論(位置づけえぬものをいかに位置づけるか)、技術論(方向づけえぬものをいかに方向づけるか)、行為論 (呼びかけえぬものにいかに呼びかけるか)としての新たな相貌を得る。

400字要約

ベルクソンが知性のみによって構築された哲学体系と概念群を「批判」した(「否定」ではない)哲学者である以上、彼の哲学の中核を構成するメジャーな概念(持続・記憶・エランヴィタル・情動)は、通常の概念とは異なり、イメージや隠喩を通じて、直観や感性と理性との間の緊張関係において(ロゴスとミュートスの間で)理解されるのでなければならない。本論文で、ベルクソンの四大著作の精読を通じて、メジャーな概念を駆動させているマイナーな論理(持続のリズム・記憶の場所・エランヴィタルの技術・情動の呼びかけ)を浮かび上がらせようとする。これにより、ベルクソン哲学は、リズム論(計測しえぬものをいかに計測するか)、場所論(位置づけえぬものをいかに位置づけるか)、技術論(方向づけえぬものをいかに方向づけるか)、行為論(呼びかけえぬものにいかに呼びかけるか)としての新たな相貌を得ることになる。 

1000字要約

ベルクソン哲学の中核を構成するメジャーな概念(持続・記憶・エランヴィタル・情動)は、通常の概念とは異なり、イメージや隠喩を通じて、直観や感性の側から、言ってみればロゴスとミュートスの間で、理解されるのでなければならない。本論文では、テクストの精読を通じて、メジャーな概念を駆動させているマイナーな論理(持続のリズム・記憶の場所・エランヴィタルの技術・情動の呼びかけ)を浮かび上がらせようと試みた。

処女作『試論』は、科学的な時間の計測可能性を批判し、計測不可能な生きた「持続」の概念を提出したことで知られる。しかし、ベルクソンは、持続を理解不可能で神秘的な概念として事足れりとするのではなく、「計測」とは別の時間把握の仕方(数的計測ならぬリズム的把捉)があり、これは科学とは異なる、しかしながら非合理的ではなく、むしろもう一つ別の合理性、言ってみれば《計測しえぬものを計測する》ための論理の模索であった。

第二作『物質と記憶』は、記憶の物質的な局在性を批判し、空間化しえぬ純粋な「記憶」概念を提出したことで知られる。しかし、ベルクソンの意図は、純粋記憶に宿るある合理性、言ってみれば《位置づけえぬものに場所を与える》論理を模索することであった。記憶は物質的な意味で空間に位置を占めるのではなく、行動を根底的に規定する図式論として生起する(場所を与える)。

第三作『創造的進化』は、物質的な手がかり(すでに進化をし終えた形態)から進化を再構成しようとする当時の進化論を批判し、後付けの目的論も機械論も拒む生命の流れそのもの(生物を貫いて進化し続けるもの)としての「エラン・ヴィタル」概念を提出したことで知られる。しかし、ベルクソンの意図は、決して実証的にそのものとして発見され得ぬ概念の形而上性を言うことではなく、目的論の徹底批判を通じて生命の流れを捉えうる新たな目的論、言ってみれば《方向付けえぬものを方向づける》生命の論理を描き出すことであった。

最後の大著『道徳と宗教の二源泉』は、閉じた合理主義道徳を批判し、人間を道徳的・宗教的行動に突き動かす開かれた「情動」概念を提出したことで知られる。しかし、ベルクソンの意図は、情動を神秘主義的なものとして特権視するのではなく、むしろ神秘主義を情動の哲学の極限形態として捉え、理性のそれではない、情動の合理性、言ってみれば《呼びかけえぬものに呼びかける》論理を出来る限り丁寧に跡づけるところにあった。

2000字要約

ベルクソンの哲学は唯心論(スピリチュアリスム)であると言われ、その限りで観念的な側面を有すると言われる。しかし同時に、ベルクソンの生の哲学は、当時の科学的な業績に対する、単に哲学的であるにとどまらない、科学認識論(エピステモロジー)的な考察でもあり、その限りで現実との接触を失わないとも言われる。ベルクソン哲学の一見すると矛盾にも思われるこの両面をいかに理解するべきであろうか。

本論文は、ベルクソン哲学のこの両面が必ずしも矛盾するものではなく、次の意味においては表裏一体の事態であることを示そうとする。すなわち、ベルクソンの四大著作(『意識の直接与件に関する試論』、『物質と記憶』、『創造的進化』、『道徳と宗教の二源泉』)において鍵となる幾つかの主要な概念――『試論』における持続、『物質と記憶』における記憶、『創造的進化』におけるエラン・ヴィタル、『道徳と宗教の二源泉』における情動――が具体的な場面で機能する際に、このメジャーな概念を裏から支えるマイナーな論理が形而上学と科学の判然としない境界領域で働いていることを示そうとしたのである。

ベルクソンは知性のみによって構築された哲学体系と概念群を「否定」したのではなく、「批判」したのであり、そうであるならば、ベルクソン哲学の彼の哲学の中核を構成するメジャーな概念(持続・記憶・エランヴィタル・情動)は、通常の概念とは異なり、イメージや隠喩を通じて直観や感性の側から(ロゴスとミュートスの間で)理解されるのでなければならない。本論文では、テクストの精読を通じて、メジャーな概念を駆動させているマイナーな論理(持続のリズム・記憶の場所・エランヴィタルの技術・情動の呼びかけ)を浮かび上がらせようと試みた。これにより、ベルクソン哲学は、リズム論(計測しえぬものをいかに計測するか)、場所論(位置づけえぬものをいかに位置づけるか)、技術論(方向づけえぬものをいかに方向づけるか)、行為論(呼びかけえぬものにいかに呼びかけるか)としての新たな相貌を得ることになる。

処女作『試論』は、科学的な時間の計測可能性を批判し、計測不可能な生きた「持続」の概念を提出したことで知られる。しかし、ベルクソンは、持続を理解不可能で神秘的な概念として事足れりとするのではなく、「計測」とは別の時間把握の仕方(数的計測ならぬリズム的把捉)があり、これは科学とは異なる、しかしながら非合理的ではなく、むしろもう一つ別の合理性、言ってみれば《測りえぬものを捉える》ための論理の模索であった。

ドゥルーズが『シネマ』で激賞したことで知られる第二作『物質と記憶』は、記憶の物質的な局在性を批判し(すべての局在説を否定したわけでないことは強調しておく必要があるにしても)、空間化しえぬ純粋な「記憶」概念を提出したことで知られる。しかし、ベルクソンの意図は、純粋記憶に宿るある合理性、言ってみれば《位置づけえぬものに場所を与える》論理を模索することであった。記憶は物質的な意味で空間に位置を占めるのではなく、行動を根底的に規定する図式論として生起する(場所を与える)。

2007年に刊行百周年が世界各地で祝われた――応募者自身も日本とフランスでシンポジウムの主催者を務めた――第三作『創造的進化』は、物質的な手がかり(すでに進化をし終えた抜け殻)から進化をつぎはぎで再構成しようとする当時の進化論を批判し、後付けの目的論も機械論も拒む生命の流れそのもの(生物を貫いて進化し続けるもの)としての「エラン・ヴィタル」概念を提出したことで知られる。しかし、ベルクソンの意図は、決して実証的にそのものとして発見され得ぬ概念の形而上性を言おうとしたのではなく、目的論の徹底批判を通じて生命の流れを捉えうる新たな目的論、言ってみれば《方向付けえぬものを方向づける》生命の論理を描き出すことであった。

25年の沈黙の後に72歳で刊行された最後の大著『道徳と宗教の二源泉』は、人間の道徳的・宗教的行為を理性の働きによって説明しようとする閉じた合理主義道徳を批判し、人間を行動に突き動かす開かれた「情動」概念を提出したことで知られる。しかし、ベルクソンの意図は、情動を神秘主義的なものとして特権視するのではなく、むしろ神秘主義を情動の哲学の極限形態として捉え、理性のそれではない、情動の合理性、言ってみれば《呼びかけえぬものに呼びかける》論理を出来る限り丁寧に跡づけるところにあった。

 以上、「持続」「記憶」「エラン・ヴィタル」「情動」というベルクソンの四大著作の鍵となるメジャーな概念を裏から支えるマイナーな論理、すなわち「持続のリズム的把捉」「記憶の場所的図式論」「エラン・ヴィタルの新目的論」「情動の呼び声が規定する行動の論理」をテクストから浮かび上がらせるよう努めた。

修士論文 「〈源泉〉について――アンリ・ベルクソン『道徳と宗教の二源泉』研究」

修士論文(東京大学大学院)、1999年3月、全299頁。 

(査読有) 『二源泉』という著作が、ベルクソンの他の著作にもまして、内容と形式の両面において「螺旋」的に発展していく著作であること、それはベルクソンの生命観がまさに「螺旋」的なものであるがゆえであることをテクストに即して示そうと試みた。(全299頁)