荘子:斉物論第二(9) 謂之道樞

荘子:斉物論第二(9) 謂之道樞

2008年10月27日 02時20分54秒 | 漢籍

荘子:斉物論第二(9)

物 無 非 彼 , 物 無 非 是 。 自 彼 則 不 見 , 自 知 則 知 之 。 故 曰 : 彼 出 於 是 , 是 亦 因 彼 。 彼 是 方 生 之 說 也 。 雖 然 , 方 生 方 死 , 方 死 方 生 ; 方 可 方 不 可 , 方 不 可 方 可 ; 因 是 因 非, 因 非 因 是 。 是 以 聖 人 不 由 , 而 照 之 于 天 , 亦 因 是 也 。 是 亦 彼 也 , 彼 亦 是 也 。 彼 亦 一 是 非 , 此 亦 一 是 非 , 果 且 有 彼 是 乎 哉 ? 果 且 無 彼 是 乎 哉 ? 彼 是 莫 得 其 偶 , 謂 之 道 樞 。 樞 始 得 其 環 中 , 以 應 無 窮 。 是 亦 一 無 窮 , 非 亦 一 無 窮 也 。 故 曰 莫 若 以 明 。

[荘子:「斉物論篇」もくじ]

物は彼れに非らざるは無く、物は是(こ)れに非ざるはなし。彼よりすれば則ち見えざるも、自(み)ずか ら知れば則ち之を知る。故に曰く、「彼は是より出で、是れも亦た彼に因る」と。彼と是れと方(なら)び生ずるの説なり。然りと雖(いえど)も、方(なら) び生じ方(なら)び死し、方(なら)び死し方(なら)び生ず。方(なら)び可にして方(なら)び不可、方(なら)び不可にして方(なら)び可なり。是 (ゼ)に因(よ)り非(ヒ)に因(よ)り、非に因り是に因る。是(ここ)を以て聖人は、由らずして之を天に照(て)らす。亦是(ゼ)に因るなり。是(こ) れもまた彼なり、彼もまた是れなり、彼もまた一是非(いちゼヒ)、此れもまた一是非なり。果して且(そ)も彼是ありや、、果して且(そ)も彼是なきや。彼 と是と其の偶を得る莫(な)き、之を道樞(ドウスウ)と謂ふ。(スウ・とぼそ)にして始めて其の環中を得て、以て無窮に應ず。是(ゼ)もまた一無窮、非(ヒ)もまた一無窮なり。故に曰く明を以てするに若(し)くは莫し」と。

物は彼(かれ)でないものはないし、また物は此(これ)でないものもない。己れを「これ」とよび、他を「かれ」とよぶ時、他を「かれ」とよぶその己れも また、他者の立場からみれば一つの「かれ」であるから、一切存在は皆「これ」であるとも「かれ」であるともいえる。人間の判断はとかく一方的なもので、 「彼れ」の立場からは蔽(おお)われて見えない道理も、「是れ」の立場からは明らかに知り得るものであるから、「彼れ」という概念は己れを「是れ」とする ところから生じたものであり、「是れ」という概念は、「彼れ」という対立者をもととして生じたものである。つまり「彼れ」と「是れ」というものは、相並ん で生ずるということであり、たがいに依存しあっているのである。論理学者、恵施(ケイシ)の主張がこれである。

しかしながら、この「あれ」と「これ」の相対性は、天地間のあらゆる価値判断についてもいえるのであって、生と死、可と不可、是(ゼ)と非(ヒ)の対立 も、じつは互いに相い因(よ)り、相俟(ま)って成立する相即的な概念であり、一切の矛盾と対立の姿こそ、そのまま存在の世界の実相なのである。万物は生 じては滅び、滅びては生ずるこの方生方死(ホウセイホウシ)、方死方生(ホウシホウセイ)の変化の流れのみが絶対であって、これを「生」とよび「死」とわ かつのは、人間の偏見的分別にすぎない、同様にまた、すべての存在は、それを可(カ)とみる立場からすれば可でないものはなく、それを不可(フカ)とみる 立場からすれば不可でないものはないが、この方可不可、方不可方可の実在の世界を、あるいは可としあるいは不可とするのは、全く人間の心知の妄執にほかな らないのである。

だから、実在の真相を看破する聖人は、このような万物の差別と対立の諸相に心知の分別を加えることなく、あるがままの万物の姿をそのまま自然として観照 し、これを絶対的な一の世界に止揚するのである。聖人もまた是(ゼ)による。しかし、其の是はもはや因非因是の是、すなわち非と対立する相対の是ではなく して、一切の対立と矛盾をそのまま包み越える絶対の是なのである。そこでは、是(こ)れもまた同時に彼れであり、彼れもまた同時に是れである。そこでは、 彼のなかにも是と非が一つになって含まれ、此れのなかにも是と非が一つになって含まれる。このような一切の差別と対立を超えた絶対の世界においては、もは や彼是の対立などどこにもあり得ない。そして、このような彼れと是れとが互いに自己と対立するものを失い尽くした境地を、道枢(ドウスウ)─ 実在の真相というのである。(とぼそ)とは扉(とびら)の回転軸のことであるが、この(と ぼそ)がそれを受けとめるまるい環(わ)の中心にぴったり嵌(は)まって、扉が自由に開閉するように、道の枢もまた一切の対立と矛盾を超えた絶対の一に立 脚して、千変万化する現象の世界に自由自在に応ずるのである。そしてこのような道枢(ドウスウ)の境地においては、是もまた一つの窮まりなき真理を含み、 非もまた一つの窮まりなき真理を含む、そこではもはや、「此」と「彼」、「是」と「非」など一切の対立は、その相対性の根源において一つとなるのである。 「明(メイ)を以てする」とは、このような環中(カンチュウ)の道枢(ドウスウ)、すなわち万物斉同の実在の真相を観照する叡智を自己のものとすることに ほかならないのである。

※この一節も、全面的に福永光司先生の解釈に依って読ませていただきました。

⇒ 参照:「荘子 ─ 中国古典選:朝日選書・朝日文庫」

樞(枢)

■音

【ピンイン】[shu1]

【慣用音】スウ 【呉音】【漢音】シュ

【訓読み】とぼそ

■解字

会意兼形声。區(=区)は、まがった囲いとそれに入りくんだ三つのものからなる会意文字。こまごまと入りくんださまをあらわす。

樞は「木+音符區」で、細かく細工をして穴にはめこんだとびらの回転軸をあらわす。

區(=区)と同系。

■意味

(1)とぼそ。穴にはめこむ、とびらの回転軸。くるる。

(2)中心となる重要なもの。かなめ。「枢要」

⇒ [斉物論第二(10)]・[荘子:内篇の素読]