荘子:斉物論第二(29) 無謂有謂,有謂無謂,而遊乎塵垢之外

荘子:斉物論第二(29) 無謂有謂,有謂無謂,而遊乎塵垢之外

2008年12月31日 08時38分39秒 | 漢籍

荘子:斉物論第二(29)

瞿鵲子問乎長梧子曰:「吾聞諸夫子,聖人不從事於務,不就利,不違害,不喜求,不緣道;無謂有謂,有謂無謂,而遊乎塵垢之外。夫子以為孟浪之言,而我以為妙道之行也。吾子以為奚若?」

[荘子:「斉物論篇」もくじ]

瞿鵲子(クジャクシ)、長梧子(チョウゴシ)に問いて曰わく、「吾れ諸(これ)を夫子(フウシ)に聞けり。『聖人は務めに従事せず、利に就かず、害を違(さ)けず、求めらるるを喜ばず、道に縁(よ)らず、謂う無くして謂う有り、謂う有りて謂う無く、而して塵垢(ジンコウ)の外に遊ぶ』と。夫子は以て孟浪(モウロウ)の言と為せども、我は以て妙道(ミョウドウ)の行と為すなり。吾子(ゴシ)は以て奚若(いかん)と為すや」と。

瞿鵲子、が長梧子にたずねていった。

「私は、先生(孔子のこと)に次のようなことを聞きました。

『聖人は俗事(仕事)に励むようなことはせず、利を求めようとせず、害をさけようともしない。他人が自己を求め用うるからといって喜ぶでもなく、ことさ ら道を意識してそれに従ってゆくでもない。沈黙していても物言わざる言葉で何かを語っており、しゃべっていてもその言葉は無心の言で、しゃべらないのと同 じであり、その身は世俗のうちに在りながら、その心は遠く世俗の世界の外に逍遥している』

と。ところで、先生(孔子)は、そういった境地を否定して、とりとめのない言語の虚構だといわれるのだが、私はこれこそ霊妙な道の実践だと思う。あなたは、どう考えられるかね」

瞿鵲子・長梧子

いずれも架空の人物。荘子が創作した名前。

長梧子 ・・・ 長(おお)きな(あおぎり)の下に棲む瞑想者。

瞿鵲子 ・・・ にとまる鵲(すずめ)のような饒舌家を連想させる。ここでは、孔子の弟子という設定になっている。

為孟浪之言

漫瀾と同じ。とりとめがなく限りない。

⇒ [斉物論第二(30)]・[荘子:内篇の素読]