荘子:斉物論第二(32) 且有大覺而後知此其大夢也

荘子:斉物論第二(32) 且有大覺而後知此其大夢也

2009年01月03日 16時14分52秒 | 漢籍

荘子:斉物論第二(32)

「夢飲酒者,旦而哭泣;夢哭泣者,旦而田獵。方其夢也,不知其夢也。夢之中又占其夢焉,覺而後知其夢也。且有大覺而後知此其大夢也,而愚者自以為覺,竊竊然知之。君乎,牧乎,固哉!丘也與女,皆夢也;予謂女夢,亦夢也。是其言也,其名為弔詭。萬世之後而一遇大聖,知其解者,是旦暮遇之也」

[荘子:「斉物論篇」もくじ]

「夢に酒を飲む者は、旦(あした)にして哭泣(コッキュウ)し、夢に哭泣(コッキュウ)する者は、旦(あした)にして田猟(デ ンリョウ)す。其の夢みるに方(あた)りては、其の夢なるを知らざるなり。夢の中に又(ま)た其の夢を占い、覚(めざ)めて後に其の夢なるを知る。且 (か)つ大覺(ダイカク)有りて、而(しか)る後に、此れ其の大夢(タイム)なるを知るなり。而(しか)るに愚者は自ずから以て覚(めざ)めたりと為し、竊竊然(セツセツゼン)として之を知れりとし、君(きみ)とし、牧(ボク)とす。固(コ・かたくな)なるかな。丘と女(なんじ)と皆夢なり。予(わ)れの女(なんじ)を夢と謂うも亦夢なり。是(こ)れ其の言や、其の名を弔詭(チョウキ)と為す。万世の後にして、一(ひと)たび大聖の、其の解(カイ)を知れる者に遇(あ)うも、是(こ)れ旦暮(タンボ)に之に遇うなり」と。

長梧子(チョウゴシ)の言葉は、なおつづく。

「夢の中で酒を飲み歓楽を尽くした者は、一夜あくれば、悲しい現実に声をあげて泣き、逆にまた悲しい夢を見て哭(な)き声を立てた者も、朝になればけろ りとして楽しい狩猟にでかけてゆくこともある。夢みている最中には、夢が夢であることも分からず、夢の中でさらに夢占いをする場合さえあるが、目がさめて 始めて、それが夢であったことに気がつくのだ。

(多くの人間はとらわれた人生を夢のごとく生き、夢のごとき人生のなかで、なお見果てぬ夢を追っている。しかしそれが夢であることに気づいている人間が果たして幾人あるであろうか ─ 福永光司)

夢が夢であることに気づくためには、大いなる覚醒がなければならない。大いなる覚醒、すなわち絶対の真理に刮目(カツモク)した者のみが、大いなる夢か ら解放されるのである。しかるに、愚かなる世俗の惑溺者たちは、自己の夢を覚めたりとし、こざかしげに知者をもって自ら任じ、己れの好む者を君として尊 び、己れの憎む者を奴隷のごとく賤しむ愛憎好悪の偏見に得々としている。彼らの救いがたい頑迷さよ。孔子もお前も、みんな夢を見ているのだ。そして、「お 前は夢を見ている」といっているこの私も、ともに夢を見ているのだ。

ところで、このように一切を夢なりと説く私の言葉を”弔詭”(チョウキ)すなわち、この上なく世俗と詭(ことな)った奇妙きわまる話というのである。 しかし、この話の意味が分かる絶対者は、恐らく何十万年に一人出会えるか出会えないかぐらいであろう。何十万年に一人出会えたとしても、その遭遇は日常明 け暮れに遭遇しているといってもいいほど、極めて稀なのだ」と。

田獵(田猟)

「獵」は「猟」の旧字。

畋猟。田狩(デンシュウ)、かり。狩猟。 ⇒ 「畋」・・・ 狩をする。「畋漁(デンギョ)」

竊竊然(セツセツゼン)

小賢(こざか)しげに振る舞うありさま。

君乎牧乎

郭象によれば、「君」=「貴」、「牧」=「賤」(牧圉・牛飼い)で、自己の愛憎好悪によって本来一つである万物を、是と非に区別し、貴と賤に差別すること。

弔詭(チョウキ)

「弔」は「至」と同じで、この上ないの意。「詭」は、ふつうのものとちがうさま。特異であるさま。グロテスクなものをいいう。「詭形(キケイ)」

萬世之後

「世」は三十年。万世に一度出会っても、それは日常的に頻繁に出会っているといってもよいほど珍しいという意味。

▼「堯舜は千世にして一たび出ずるも、是れ方を比(なら)べ、踵(くびす)を随(つ)いで生まるるなり」(韓非子)

⇒ [斉物論第二(33)]・[荘子:内篇の素読]