荘子:斉物論第二(27) 吾惡能知其辯!

荘子:斉物論第二(27) 吾惡能知其辯!

2008年12月22日 00時00分01秒 | 漢籍

荘子:斉物論第二(27)

「且吾嘗試問乎女:民濕寢則腰疾偏死,鰌然乎哉? 木處則惴慄恂懼,猿猴然乎哉? 三者孰知正處? 民食芻豢,麋鹿食薦,蝍且甘帶,鴟鴉耆鼠,四者孰知正味? 猿猵狙以為雌,麋與鹿交,鰌與魚游。毛嬙麗姬,人之所美也;魚見之深入,鳥見之高飛,麋鹿見之決驟,四者孰知天下之正色哉? 自我觀之,仁義之端,是非之塗,樊然殽亂,吾惡能知其辯!」

[荘子:「斉物論篇」もくじ]

「且(か)つ吾れ嘗試(こころみ)に女(なんじ=汝)に問わん。民は湿(シツ)に寢(い)ぬれば、則ち腰疾(ヨウシツ)して偏死(ヘンシ)するも、鰌(シュウ・どじょう)は然らんや。木に処(お)れば則ち惴慄恂懼(ズイリツジュンク)するも、猿猴(エンコウ)は然らんや。三者、孰(いず)れか正処を知らん。

民は芻豢(スウカン・スウケン)を食らい、麋鹿(ビロク)は薦(セン)を食らい、蝍且(ショクソ・むかで)は帯(へび)を甘(うま)しとし、鴟鴉(シア)は鼠(ねずみ)を耆(この)む。四者、孰(いず)れか正味(セイミ)を知らん。

猿(エン)は猵狙(ヘンソ)以て雌(めす)と為し、麋(ビ)は鹿と交わり、鰌は魚と游ぶ。毛嬙(モウショウ)・麗姬(リキ)は、人の美とする所なり。魚 は之を見れば深く入り、鳥は之を見れば高く飛び、麋鹿は之を見れば決して驟(はし)る。四者、孰(いず)れか天下の正色を知らん。

我れ自(よ)り之を観(み)れば、仁義の端(タン)、是非の塗(ト・みち=途)は、樊然(ハンゼン)として殽乱(コウラン)す。吾れ惡(いず)くんぞ能(よ)く其の弁を知らん」

それに、これもためしにだが、お前に聞いてみよう。

人間は湿気の多いところで寝起きすると、腰の病気や半身不随の中気(チュウキ)などをわずらうが、鰌(どじょう)はそうではあるまい。また人間は高い木 の上にいると、ふるえあがってこわがるが、猿(さる)はそうではあるまい。この三者うち、果たしてどれが本当に正しい住み処(か)を知っているのであろう か。

また人間は、牛や羊や豚などの家畜を食用にし、鹿の類は野原の草を食べ、蝍且(むかで)は蛇をうまいと思い、鳶(とび)や鴉(からす)は鼠に舌なめずりするが、この四者のうち、果たしてどれが本当の味を知っているのであろうか。

猿(さる)は猵狙(いぬざる)と雌雄の交わりを営み、麋(ビ)という姿のよいしかは、いわゆる鹿と交わり、鰌(どじょう)は魚とたわむれるが、毛嬙(モ ウショウ)や麗姬(リキ)については、人間どもは絶世の美人だと騒いでいるが、魚はその姿を見ると、水底(みなそこ)深く逃げかくれ、鳥は恐れて空高く舞 いあがり、麋鹿(しか)は一目散に逃げ走るであろう。この四者のうち、果たしてどれがこの世の中の本当の美を知っているのであろうか。

わしの目から見ると、(人間の判断など決して絶対的なものではなく、絶対的だと考えるのは、独断的な偏見であることが分かろう)、世俗の人間が、やれ仁 義だとか、やれ是非だとか喚きたてても、その端緒(いとぐち)や道すじは樊然(ハンゼン)すなわち、ごたごたと入り乱れて、何が仁であり、何が義であるの か、またいずれが是であり、いずれが非であるのかなど、とてもちょっとやそっとでは見わけることができないのだ。

偏死

「司馬云偏枯」(荘子集解)

腰疾(ヨウシツ)

リュウマチスや中気など半身不随の病気。

芻豢(スウカン・スウケン)

草食の家畜(牛・羊など)と、穀食の家畜(犬・豚など)。

▼「豢」は、小屋に入れて飼う家畜。

「芻、野蔬。豢、家畜」(荘子集解)

(セン)

「説文、薦、獸之所食」(荘子集解)

殽亂(コウラン)

まじって入り乱れる。

■音

【ピンイン】[yao2]

【漢音】コウ 【呉音】ギョウ

【訓読み】くらう

■解字

会意兼形声。「殳+(音符)肴(交差させておいた肉の料理)」。

■意味

(1)交差してまじりあう。また、まじえる。

(2)骨つきの肉。

(3)おかず。皿の上に交差させて並べる料理。《同義語》 ⇒ 肴。

(4)くらう(くらふ)。おかずとして食う。

⇒ [斉物論第二(28)]・[荘子:内篇の素読]