荘子:斉物論第二(20) 無適焉 ,因是已!

荘子:斉物論第二(20) 無適焉 ,因是已!

2008年12月06日 06時35分38秒 | 漢籍

荘子:斉物論第二(20)

既 已 為 一 矣 , 且 得 有 言 乎 ? 既 已 謂 之 一 矣 , 且 得 無 言 乎 ? 一 與 言 為 二 , 二 與 一 為 三 。 自 此 以 往 , 巧 歷 不 能 得 , 而 況 其 凡 乎 ! 故 自 無 適 有 , 以 至 於 三 ,而 況 自 有 適 有 乎 ! 無 適 焉 , 因 是 已 !

[荘子:「斉物論篇」もくじ]

既に已(すで)に一たり、且(は)た言(ゲン)有るを得んや。既に已(すで)に之を一と謂(い)う、且 (は)た言(ゲン)無きを得んや。一と言と、二と為(な)り、二と一と、三と為る。此(こ)れ自(よ)り以往(イオウ)は、巧歴(コウレキ)も得る能(あ た)わず。而(しか)るを況(いわ)んや其の凡(ボン)なるものをや。故に無より有に適きて以て三に至る。而(しか)るを況(いわ)んや有より有に適 (ゆ)くをや。適(ゆ)くこと無し。是(ゼ)に因(よ)らんのみ。

道が一切の対立と矛盾を超克する絶対の一であるとすれば、果たしてこれを「一である」と判断し論定することはいかにして可能であるか。そこでは、一という言(概念)をさえ挿(さしはさ)む余地はないはずである。

しかし、それを「一である」と判断し論定するからには、そこには一という言(概念)がその論理的前提として肯定されなければならない。

ところで一という言(概念)は、その内容として一とよばれる概念実体(道)を摂取するから、既に道を一と判断するからには、一という概念そのもの(言) と、一という概念の内容として摂取される実質(いわゆる一)との二元の対立を生ずるわけであり、この二元の対立を抽象して考えると、ここに二という数が成 立するのである。

ところでこの二という数字に、真の一すなわち判断以前の純粋体験としての実在そのものを加えれば、ここにさらに三という数が成立する。 未だ始めより物有らざる 「無」としての道は、人間の判断を加えられることによって一となり二となり、さらに三となるのであり、それから先の、三から千となり万となり億となる個別の世界の無限の展開は、「巧歴」すなわち、いかにすぐれた天文学的計算の名人でも計算し尽くすことはできない。まして、数学の天才ならぬ我々凡人においてはなおさらだろう。

道が言によってその実在性を確立されただけでも、渾沌の一は三になるとすれば、個別から個別へ進む存在世界の知的把握が、収拾することのできない混乱として分裂することはいうまでもあるまい。

だから絶対者は、この混乱と分裂のなかに身を置くことなく、せいぜい 物有りとするも未だ始めより封(ホウ)あらざる 渾沌の世界に踏み止まって、「是(ゼ)」すなわち絶対の一である実在そのものと冥合し、ただひたすら道の自然に随順してゆくのである。

巧歴(コウレキ)

巧暦に同じ。天文や暦法にくわしい人。また、数学にくわしい人。

「此理勿復道、巧暦不能推=此の理復た道ふこと勿かれ、巧暦も推すこと能はず」〔白居易・読鄧魴詩〕

此(こ)れ自(よ)り以往(イオウ)は、巧歴(コウレキ)も得る能(あた)わず

本来、未だ封(ホウ)あらざる 何の形式も持たない渾沌は、まず有という言によってその実在性を確立され、さらに判断作用の分析から演繹された数概念の適用によって、その個別化を受ける のである。しかし渾沌の世界にそのまま止まらんとする荘子にとっては、三に至るまでの個別化の原理を、言の開展によって明らかにしておけばそれで十分なの であって、それ以上「多」の世界について一々知的考察を加える煩わしさに堪えないのである(福永光司)

道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず(老子)

老子においては、「天下の万物は有より生じ、有は無より生ずる」のであって、道(無)とはこの一切万物を生ずる形 而上学的な実体としての性格を多分にもつものであり、この実体から陰陽二気が生じ、天地と人間が生じてくると考えられていた。しかし荘子は、このような道 の形而上学的展開を認識論的な関係に解釈し直し、判断の形式としての純粋概念すなわち言を演繹するとともに、一種の弁証法的な論理によって、言としての数 概念を開展しているのである。荘子に見られるこのような精緻な認識論的考察もまた、荘子を老子から区別する大きな特徴であるといえよう。(福永光司)

冥合(メイゴウ)

知らないうちに一致する。

「与万化冥合=万化と冥合す」〔柳宗元・始得西山宴游記〕

⇒ [斉物論第二(21)]・[荘子:内篇の素読]