荘子:斉物論第二(3) 敢問天籟

荘子:斉物論第二(3) 敢問天籟

2008年09月28日 11時42分24秒 | 漢籍

荘子:斉物論第二(3)

子 游 曰 : 「 地 籟 則 衆 竅 是 已 , 人 籟 則 比 竹 是 已 , 敢 問 天 籟 。 」

子 綦 曰 : 「 夫 天 籟 者 , 吹 萬 不 同 , 而 使 其 自 己 也 。 咸 其 自 取 , 怒 者 其 誰 邪 ? 」

[荘子:「斉物論篇」もくじ]

子游曰わく、地籟(チライ)は則ち衆竅(シュウキョウ)これのみ。人籟(ジンライ)は則ち比竹これのみ。敢えて天籟(テンライ)を問う」と。

子綦(シキ)曰わく、夫(そ)れ吹くこと万(よろず)にして同じからざれども、而(しか)も其れをして己(おのれ)に自(したが)わしむ。咸(ことごと)く其れ自(み)ずから取るなり。怒(おと)たてしむる者は、其れ誰ぞや」と。

子游が言った、「地籟(地のふえ)とは、もろもろの穴のこと、人籟(人のふえ)とは竹管のことですね。恐縮ですがおうかがいします、天籟(天のふえ)とは何かをお教えください」と。

子綦が答えた、「全ての穴や竹管など、音をたてるものはさまざまで同じではないが、それぞれに自分の音を出しているのだ。すべて自己自身の原理によって響きとなる。背後において響きとならしめる何者かが存在するであろうか」と。

地籟・人籟・天籟(チライ・ジンライ・テンライ)

は、地籟人籟のほかに、さらに天籟という別の響きがあるのではなく、地籟を地籟として聞き、人籟を人籟として聞くことが、そのまま天籟なのだという。

自己自身の原理によって響きとなる万籟を、そのまま万籟として聞くのが「天籟」。

「天」とは、人と地を超越する何ものかではなく、人が人であり、地が地であることそれ自身。つまり天とは自然(あるがまま)ということ。

彼は、一切存在をそのまま肯定するから、一切存在と一つになることができる。すなわち「吾れが我れを喪(わす)れた」という境地。その境地にいたってこそ、自己は始めて真の自己となる。机に隠(もた)れて深く大きく息をつく南郭子?は、自己と世界の一切を「天籟」として聞いているのである。

[「荘子内篇 -- 福永光司」を参照 ]

■音

【ピンイン】[gan3]

【呉音・漢音】カン

【訓読み】あえてする、あえて

■解字

会意兼形声。甘は、口の中に含むことをあらわす会意文字で、拑(カン・封じこむ)と同系。

敢は、古くは「手+手+/印(払いのける)+音符甘(カン)」で、封じこまれた状態を、思い切って手で払いのけること。

▼函(カン・封じこめる)・檻(カン・押しこめる)・掩(エン・押さえこむ)などの仲間から派生して、その押さえをおしのける意に転じたことば。

■意味

(1)あえてする(あへてす)。圧迫や気がねをはねのけて思い切ってやる。

(2)あえて(あへて)。思い切って。はばからずに。

「敢問=敢へて問ふ」「敢問死=敢へて死を問ふ」〔論語・先進〕

「敢請=敢へて請ふ」〔孟子・梁下〕

(3)「不敢…」とは、あえて…ずと訓読して、思い切ってやりかねることをあらわすことば。

「会其怒、不敢献=其の怒りに会ひ、敢へて献ぜず」〔史記・項羽〕

(4)「敢不…」とは、あえて…ざらんやと訓読して、せずにおられようかの意で、反問をあらわすことば。「観百獣之見我而敢不走乎=百獣の我を見て敢へて走げざらんを観よ」〔戦国策・楚〕

[斉物論第二(4)]・[荘子:内篇の素読]