荘子:斉物論第二(31) 予惡乎知説生之非惑邪!

荘子:斉物論第二(31) 予惡乎知説生之非惑邪!

2009年01月02日 11時27分24秒 | 漢籍

荘子:斉物論第二(31)

「予惡乎知生之非邪!予惡乎知惡死之非弱喪而不知歸者邪!麗之姬,艾封人之子也。晉國之始得之也,涕泣沾襟;及其至於王所,與王同筐牀,食芻豢,而後悔其泣也。予惡乎知夫死者不悔其始之蘄生乎?」

[荘子:「斉物論篇」もくじ]

「予(わ)れ惡(いず)くんぞ生を(よろこ)ぶことの(まど)いに非ざるを知らんや。予(わ)れ惡(いず)くんぞ死を悪(にく)むことの、弱喪(ジャ クソウ)して帰るを知らざる者に非ざるを知らんや。麗(リ)の姬(キ)は、艾(ガイ)の封人(ホウジン)の子なり。晋国の始めて之(これ)を得るや、涕泣 (テイキュウ)して襟(えり)を沾(うるお)せり。其の王の所に至り、王と筐牀(キョウショウ)を同(とも)にし、芻豢(スウカン・スウケン)を食(くら)うに及びて、而(しか)る後に其の泣きしを悔いたり。予(わ)れ悪(いず)くんぞ、夫(か)の死者も、其の始めに生を蘄(もと)めしを悔くざることを知らんや」と。

生をぶことが”とらわれの心”ではないと、どうしていうことができようか。私には、世俗の人間の生をび死を憎む気持ちが理解できないのだよ。生を悦ぶというのは、人間の悲しい溺ではないのか。死とは人間が本来の自然に帰ることではないのか。幼少のころ郷里を離れた人間は、永い流浪の生活をするうちに故郷を忘れるが、彼らの死への憎悪こそ、この故郷喪失者の悲劇ではないのか。

麗姫(リキ)という美人は、艾(ガイ)という土地の防人(さきもり)の娘であったが、晋の国で始めて彼女を手に入れた時、麗姫は他国へ連れ去られる自己 の悲しい運命を、さめざめと、襟もしとどに泣き濡れた。ところが、いよいよ晉の宮殿のなかに連れ込まれ、王と立派なベッドをともにし、甘(うま)いご馳走 を食べるようになってからは、その幸福に随喜して、昔流した涙を後悔したということだ。

生と死の変化も、これと同じでないと誰が保障できよう。死者だって、死んだ当初に、もっと生きたいと泣き喚(わめ)いたおのれを後悔するかもしれないのだ。

(よろこぶ)

「脱・悦・説・奪」・・・(抜けでる、ほぐす)の家族

◆「学而時習之、不亦説乎=学びて時にこれを習ふ、亦た説ばしからずや」〔論語・学而〕

■音

【ピンイン】[huo4]

【呉音】ワク 【漢音】コク

【訓読み】まどう、まどわす、まどい

■解字

会意兼形声。

或は、「囗印の上下に一線を引いたかたち(狭いわくで囲んだ区域)+戈」の会意文字で、一定の区域を武器で守ることを示す。

惑は「心+音符或」で、心が狭いわくに囲まれること。⇒或

■意味

心が狭いわくにとらわれ、自由な判断ができないでいる。

一定の対象や先入観にとらわれる。

「まどう」という訓にまどわされてはいけない。「まどう」という訓にとらわれるのも「惑」である。

「四十而不惑=四十にして惑(とらわれ)ず」というのも、「あれこれとまよわなくなった」ということではない。心が狭いワクにとらわれないようになって、しだいに自由な境地へと進むこと。

「卑弥呼、事鬼道、能惑衆」を「能く衆を惑(まどわ)す」などと読むと誤解を生ずる。卑弥呼はみんなの心を「とらえた」。民衆は、卑弥呼の魅力にひきつけられ、そのとりこになった、すなわち心服した

「惑溺」 ・・・ よくない方面にはまりこんで、正常な判断力がなくなる。

弱喪(ジャクソウ)

「弱」は「若」(ジャク)と同じ。幼いこと。

「喪」は失うの意。故郷を離れ、他国に行くこと。

人間は生のないところから生まれてきたのであるから、死は故郷である。

▼郭注に「若くしてその故居(もとのすみか)を失うものをいう」とある。

■音

【ピンイン】[qi2]

【漢音】キ 【呉音】ゴ,、ギ

【訓読み】もとめる

■解字

会意兼形声。

「艸+單+(音符)斤(きる、刈る)」。

■意味

(1)刃物で刈るやまぜり。《同義語》⇒芹。

(2)もとめる(もとむ)。祈りもとめる。

▼祈に当てた用法。

「所以蘄有道=有道を蘄むるゆゑんなり」〔呂氏春秋・振乱〕

⇒ [斉物論第二(32)]・[荘子:内篇の素読]