荘子:斉物論第二(24) 此之謂葆光

荘子:斉物論第二(24) 此之謂葆光

2008年12月17日 04時39分04秒 | 漢籍

荘子:斉物論第二(24)

故 知 止 其 所 不 知 。 至 矣 。 孰 知 不 言 之 辯 。 不 道 之 道 。 若 有 能 知 。 此 之 謂 天 府 。 注 焉 而 不 滿 。 酌 焉 而 不 竭 。 而 不 知 其 所 由 來 。 此 之 謂 葆 光 。

[荘子:「斉物論篇」もくじ]

故に知は其の知らざる所に止(とど)まれば、到れり。孰(たれ)か不言の弁、不動の道を知らん。若 (も)し能(よ)く知るもの有らば、此れを之(こ)れ、天府と謂(い)う。焉(これ)に注(そそ)げども満たず、焉(これ)に酌(く)めども竭(つ)き ず。而(しか)も其の由(よ)りて来たる所を知らず。此れを之(こ)れ葆光(ホウコウ)と謂う。

最上の智恵とは、是非の偏見によって害われず、認識の限界を知って、その限界の外に止まる智恵にほかならない。絶対の真理とは、これを知れりとするとこ ろにはもはや絶対の真理ではなくなり、これを知らずとするところに却って絶対の真理としてあらわれる逆説的存在なのだ。だからこの逆説の意味を真に理解す る者があれば、彼の前には無限に豊かな生命の宝庫が開かれるであろう。「ものいわざる雄弁」、「真理を否定する真理」この言葉の意味を真に会得することの できる者があれば、彼をこそ「天府」すなわち天然自然の宝庫を心にもつ人とよぶのである。

彼の胸中には注げども満たず、酌めども竭(つ)きず、しかも何処(いずこ)から来て何処へ去ってゆくともしれない、果てしなき生命の大海原が打ち開け る。彼はその生命の大海原に限りなき自由を戯れて、一切の人間的な矮小さを超克する。そして、このような境地、つまりあらゆる人間的な思慮分別と、人間的 な思慮分別に成立する万籟の響き ─ 喧々囂々たる是非の争論が本来の清寂にしずまる境地を、「葆光(ホウコウ)」というのである。葆光とは「包まれた宝(たから)の光」、すなわち絶対の智恵という意味にほかならない。

葆光(ホウコウ)

「成云。葆、蔽也」(荘子集解)

光をつつみ隠すこと。

すぐれた知恵・才能を隠して表面にあらわさないことにたとえる。

▼「(ホウ)」、「(ホウ)」と同系。

「宝」 外から包んで大切に守る。⇒ たいせつに保存する珍しい物。

「後世よくこれを宝(ホウ=保)す」

「大切に包む -- 漢字家族」

■音

【ピンイン】[bao3]

【漢音】ホウ 【呉音】ホ、ホウ

■解字

会意兼形声。「艸+音符保(中につつみこむ)」。

■意味

(1)うちに隠して表面にあらわさない。「葆光(ホウコウ)」

(2)たいせつに守る。 ⇒ 保、宝。

⇒ [斉物論第二(25)]・[荘子:内篇の素読]