荘子:斉物論第二(5) 其有真君存焉
荘子:斉物論第二(5) 其有真君存焉
2008年10月02日 03時42分13秒 | 漢籍
荘子:斉物論第二(5)
喜 怒 哀 樂 ,慮 嘆 變 慹 , 姚 佚 啟 態 , 樂 出 虛 , 蒸 成 菌 。 日 夜 相 代 乎 前 , 而 莫 知 其 所 萌 。 已 乎 , 已 乎 ! 旦 暮 得 此 , 其 所 由 以 生 乎 ! 非 彼 無 我 , 非 我 無 所 取 。 是 亦 近 矣 , 而 不 知 其 所 為 使 。 若 有 真 宰 , 而 特 不 得 其 眹 。 可 行 已 信 , 而 不 見 其 形 , 有 情 而 無 形 。 百 骸 、 九 竅 、 六 藏 、 賅 而 存 焉 , 吾 誰 與 為 親 ? 汝 皆 說 之 乎 ? 其 有 私 焉 ? 如 是 皆 有 為 臣 妾 乎 ? 其 臣 妾 不 足 以 相 治 乎 ? 其 遞 相 為 君 臣 乎 , 其 有 真 君 存 焉 ! 如 求 得 其 情 與 不 得 , 無 益 損 乎 其 真 。
喜怒哀楽(キドアイラク)あり、慮嘆変慹(リョタンヘンシュウ)あり、姚佚啓態(ヨウイツケイタイ)あ り。楽(ガク)は虚(キョ)より出(い)で、蒸(ジョウ)は菌を成すがごとく、日夜前に相代わりて、其の萌(きざ)す所を知る莫(な)し。已みなん、已み なん、旦暮(たんぼ)に此れを得るは、其の由(よ)りて以て生ずる所か。彼に非ざれば我なく、我に非ざれば取る所なし。是れ亦近し。而(しか)も其の使 (せし)めらるる所を知らず。真宰(シンサイ)有るが若(ごと)くにして、而(しか)も特(ひと)り其の朕(あと)を得ず。行なう可(べ)きは已(はな は)だ信(まこと)なれども、而(しか)も其の形を見ず。情(まこと)は有れども形なし。百骸(ガイ)・九竅(キョウ)・六藏、 賅(そなわ)りて存す。吾れ誰と与(とも)にか親(しん)を為さんや。汝(なんじ)皆これを説(よろこ)ばんか、其れ私すること有るか、是(か)くの如 (ごと)くんば、皆臣妾(シンショウ)と為すことあるか。其臣妾は以て相治むるに足らざるか。其れ遞(たが)いに君臣と相為るか。其れ真君(シンクン)の 存する有るか。求めて其の情を得ると得ざるとの如きは、其の真に益損(エキソン)することなし。
或いは喜び或いは怒り、或いは哀しみ或いは楽しみ、或いはまだ訪れぬ未来を取り越し苦労し、或いは返らぬ過去に愚痴にをこぼす。移り気と執念(シュウネ ン)深さ、浮き浮きしたりだらけたり、あけすけにしたり、わざとらしく取りつくろったり。その巨木の万竅(バンキョウ)にも似た人間心理の種々相は、あた かも笛の音が虚(うつ)ろな管(くだ)から鳴り響き、菌(きのこ)が蒸せた湿気から生まれるように、昼となく夜となくわが眼前に入れかわり立ちかわり生滅 するが、しかもそれが何にもとづいて生起するのか、その原因は知る由もない。さてさて、もどかしいかぎりよ。人間の旦(あ)け暮(く)れの生活は、このよ うな心の万籟を内容として営まれるものにほかならず、人間が生きるとは、じつは喜び怒り哀しみ楽しむことにほかならないのである。人間の心の万籟を万籟と して成り立たせるものがあるだろうか。
この喜怒哀楽、慮嘆変慹(リョタンヘンシュウ)等の心的現象を除いては具体的な自己はどこにも存在しないのであり、自己が存在しなければ、喜びも怒りも 哀しみも楽しみも、現れようがないのである。このような自己の本質と自己の現象形態の相関性に刮目する時、初めて人間存在の実相に近づくことができるであ ろう。しかし、喜怒哀楽はそれ自体が生の具体的内容であり、人間存在の現実であるとしても、人間の心を、その外もしくは上から支配する絶対者=真宰(シン サイ)が存在するといえるだろうか。それれが「はたらき」そのものとして存在し得ても、人間の感覚や知覚では、その実体を捉えることはできない。真宰(シ ンサイ)とは、自然すなわち天ということにほかならない。
このことは人間の体(からだ)について考えてみても同じであろう。人間の体には百の骨節と、九つの竅(あな)と、六つの臓腑とが備わっているが、そのど の部分を特に親しみ愛して全体の支配者とすることができようか。お前はそれらのすべてを愛するというのであろうか、それともそのうちのどれか一つを特に愛 するというのであろうか。身体の有機的な全体は一つの自然であるから、そこには人間の愛憎親疎の情を挿(さしはさ)む余地は全くないであろう。ところで身 体の一部分が全体の支配者であり得ぬとすれば、身体の一切の構成部分は、支配者なしの臣妾、すなわち被支配者だけということになるのであろうか。しかし臣 妾だけで統率者がなければ、互いにうまく治めてゆくことができぬというのであろうか。身体の各部分が交互に君となり臣となって治めてゆくというのであろう か。それともどこかに真君すなわち真の支配者ともいうべきものが存在しているというのであろうか。そんなことはどうでもいい問題であろう。我々がその相互 関係、因果関係の実相を把握し得なくとも、別に何の不都合も起こらない。一切は結構うまく治まってゆくのである。
人間の精神と肉体の営みの背景には、その営みを支配する絶対者が存在するかのごとくであるが、しかしその絶対者は、「はたらき」そのもの、変化それ自体 であり、その真宰とは、自然(天)ということにほかならないのである。人はこの「自然」を自然として受け取る時にのみ真の自己となることができる。自然の 世界の万籟をそのまま天籟として聞くように、人間の生の営みの一切を、ただ天(自然)として受け取る時に、人はその人間的な一切のものから超越することが できるのである。
※この一節は、全面的に福永光司先生の解釈に依って読ませていただいた。
※慮嘆変慹
慮(おそ)れまた嘆(なげ)き、変(うつ)りぎなるかとみれば、慹(ひとえ)にとらわれ
※姚佚啓態
姚(しなつ)くるかとみれば佚(きまま)にふるまい、啓(あけすけ)なるものあり、態(もったい)ぶるものあり
※姚(ヨウ)
細く身軽であるさま。また、スマートで美しい。
(解字)
会意兼形声。「女+音符兆(さっとはねる)」。
佻(チョウ・身軽な)・跳(軽々ととぶ)と同系。
※佚([漢]イツ・[呉]イチ)
しまりがないさま。のんびりしているさま。
▼わくをゆるめて気を抜かすことから、ゆるやかでしまりのない意となる。
(解字)
会意兼形声。失は、「手+抜け出る印」の会意文字。
佚は「人+音符失」で、俗世から抜け出た民(世捨て人)をあらわす。
▼兔(ト・うさぎ)と?とをあわせて、うさぎがするりと抜け去ることを示す逸とまったく同じ。
※啓
ひらく。開放する。
※態
うわべを取りつくろう。
※已(や)んぬるかな、已(や)んぬるかな
その究極の原因の知り難きことに対する嘆息の言葉(福永光司)
↓
「さてさて、もどかしいかぎりよ」(森三樹三郎)
※逓(遞)
■音
【ピンイン】[di4]
【漢音】テイ 【呉音】ダイ
【訓読み】つたえる、たがいに、かわって
■解字
会意兼形声。遞の右側の字(音テイ)は、はいつくばって、ひと足ずつ横に歩くという委虎(イコ)という動物をあらわす。
遞はそれを音符とし、?を加えた字で、横へ横へとのび進むこと。
▼逓は、宋(ソウ)・元(ゲン)代以来の略字。
■意味
(1)つたえる(つたふ)。次々と横に渡していく。リレーする。「逓信」
(2)たがいに(たがひに)。かわって(かはりて)。リレー式に。かわるがわる。次々と。
(3)次々につたえていく宿駅の制度。また、駅馬。