荘子:逍遥遊篇 魅力的な語り口で荘子の世界に

荘子:逍遥遊篇 魅力的な語り口で荘子の世界に

2008年09月23日 05時18分11秒 | 漢籍リンク

逍遥遊篇では、開巻劈頭に鵬鯤の大いなる飛翔を描き、そしてその偉大なる飛翔に象徴される「神人」の、世俗の価値からの超越を語る。小さいものに対する偉大なるもの、世間の常識にとらわれたちっぽけな世界に対する、自由闊達な「大」の世界を説く。

この篇の最後には、「小」の世界からの恵施の批判と、それに対する荘子の反論を付け加えている。

恵施は、荘子の思想があまりにも超世俗的で、現実的には何の役にもたたないといって非難する。

それに対する荘子の答えは「無用の用」。

例えば、とほうもなく大きな瓢(ひさご)とまがりくねった樗(おうち)の大木の使い方。

恵施は、世間の常識に従って、大きすぎる瓢を飲み物用の容器にしようとしたり、分割して柄杓(ひしゃく)として使おうとする。

けれども、常識を超えたものに対しては、常識は通用しない。容器にすると重すぎて持ち運ぶことができないし、柄杓にすると底が平たくて水がこぼれてしまう。

そこで常識人は、自分の無能を棚にあげて「これは無用だ!」と叫ぶ。

それに対して荘子は、その瓢を浮き袋として使って、雄大な長江の流れか広々とした湖に浮かんで、大自然の中でのびのびと遊べばいいではないかという。

規矩(キク)と縄墨(ジョウボク)も、世間的な価値と規範をさす。

常識人は、世間的な価値を超えたものには太刀打ちできない。常識的な有用さの基準で処理しようとするから、とても歯が立たない。歯が立たないから、真に「大」なるものは、ついには「無用」のレッテルが貼られ、常識の世界から罵倒と嘲笑を受け、放り出され抹殺される。

蜩(チョウ)と学鳩(ガクキュウ)とこれを笑いて曰(い)わく、奚(なに)を以て九万里に之(のぼ)りて南することを為さん

斥鴳(セキアン)これを笑いて曰わく、彼且(まさ)に奚(いず)くに適(ゆ)かんとするや

衆の同じく去(す)つる所なり

常識人は「無用の用」ということを知らない。

常識を超えた大木なら、「無何有の郷」(ムカユウのキョウ)、「広漠の野」(コウバクのヤ)に立てればよいではないか。

逍遥遊篇では、何ものにも束縛されることのない絶対に自由な境地を魅力的な語り口で解き明かしてくれている。