荘子:斉物論第二(16) 為是不用而寓諸庸
荘子:斉物論第二(16) 為是不用而寓諸庸
荘子:斉物論第二(16) 為是不用而寓諸庸
2008年11月11日 23時58分57秒 | 漢籍
荘子:斉物論第二(16)
是 故 滑 疑 之 耀 , 聖 人 之 所 圖 也 。 為 是 不 用 而 寓 諸 庸, 此 之 謂 「 以 明 」 。
是の故に滑疑(コツギ)の耀(かがや)きは、聖人の図(はか)る所なり。是(こ)れが為(ため)に用いずして諸(これ)を庸(ヨウ)に寓(グウ)す。此れを之(こ)れ明を以てすと謂う。
だからこそ聖人(絶対者)は、人間のあらゆる作為を放下して、暗く定かならぬ耀(ひか)り、すなわち「不明の明」を、自己の知恵とすることを図るのであ る。不明の明とは、人間の価値的偏見を捨てて生きたる渾沌としての道を渾沌として生かすことであり、是非の分別を用いずに万物の庸(ヨウ)、すなわち一切 存在の自然性に随順することにほかならない。そしてこの滑疑の耀(不明の明)こそ真の明智であって、はじめに「明(メイ)を以てするに若(し)くは莫(な)し」といった意味も、この真の明智を自己のものとすることにほかならないのである。