恵子の郵便ポスト11/8 吉崎恵子 さん(日本 FEBC メイン・パーソナリティ) キリスト教放送局
「キリスト教でも仏教でも神道でも何でもいいのでは?」
音声
http://netradio.febcjp.com/2017/11/8/post171108/
最近、内村鑑三の「桶職」という詩を、毎日寝るときに読んでいます。
こういう詩です。
桶職(をけしよく)
我は唯(ただ)桶を作る事を知る、
其他(そのほか)の事を知らない、
政治を知らない宗教を知らない、
唯善き桶を作る事を知る。
我は我(わが)桶を売らんとて外に行かない、
人は我桶を買わんとて我許(もと)に来る、
我は人の我に就いて知らんことを求めない
我は唯家にありて強き善き桶を作る。
月は満ちて又欠ける、
歳は去りて又来たる、
世は変り行くも我は変らない、
我は家に在りて善き桶を作る。
我は政治の故を以て人と争はない、
我宗教を人に強ひんと為ない、
我は唯善き桶を作りて、
独り立(たち)て甚だ安泰(やすらか)である。
私はこの詩を読んで宗教を知らなくても人は何か自分の使命のようなものを、黙々と行っていれば心は安泰なのだ。安らかなのだ。と気付かれました。
自分にはその黙々と行っている目的らしいものがないから、宗教に頼るのだろうかとも考えてしまいます。
内村鑑三自身キリスト者なのですよね。詳しくは知らないですが、その彼がそのような詩を書いたのが不思議に思います。
そしてこの詩を読んでいると、なぜか心が落ち着くのです。
そんな折、今日久しぶりに神社に行きました。お参りをし、座れるところがあるので、30分ほどひとりで座って、まわりの木々や風、音を感じながら落ち着いていました。
そこで教会のことも考えました「教会ではこんなことはできないよなぁ~」と思いながら聖堂の中の雰囲気とはまるで違いますから、教会が良くないって言ってるわけではないのですけれども、そして神社の境内で内村鑑三の詩「桶職」での宗教を知らないというフレーズが何度も出てきました。
別にキリスト教でも仏教でも神道でも何でもいいのではないだろうか。と何度も思いました。
自分はある期間ごとに仏教だったりキリスト教だったり神道だったりと、ころころと変わりそれの繰り返しです。
それをやめるには人生の肝となるようなものを見付けなければならないと思います。内村鑑三の「桶職」はそれを教えてくれました。
もっと人生の早いうちに見付けられていたのなら悩み事も少なくて済んだかもしれませんね。まだいろいろと書きたいことはあるのですが長くなりますのでやめときます。
まず「我は政治を知らない宗教を知らない」っていうのが最初の三行目に出てくるけれども、最後の方で「我宗教を人に強ひんと為ない」人に宗教を押し付けないって書いてある。
これは前提として彼が信仰を持ってるってことですよね。そうすると同じ宗教を知らないっていうのと、宗教を強いないっていうのは、何なのかっていう
と、前半の彼の言いたい宗教は、一般的になになに教、なになに教なんですよね。
でもね彼が人に強いないっていうのは、内村鑑三は主イエス・キリストに出会い。この方しか自分の救い主はいない。私の為に死んで下さった方は世界に何億の人がいても、この主イエス・キリストだけだ。この方を人に強いることはしない。
私はただ信じる道を黙々と生きるのみ。それを「桶職」っていうところに書いたのかなって私は思いました。
彼に宗教がないっていうのでなく、いわゆる宗教では、は信じていない。
でも主イエス・キリストって書いてあるんですよ。あなたは本当に素敵な詩に出会われた。そしてそれはキリスト。主イエス・キリスト。
その諸々の仏教とか、あの神道とか、そういう宗教ということでなく、そういうことは私は知りません。でも主イエス・キリストですって言っておられるのですね。
他の事を、いろんなものを読むとね、そのことがわかります。
内村鑑三の「余は如何にして基督信徒となりし乎』(よはいかにしてきりすとしんととなりしか)を是非お読みになるといいと思うのですけれども。
だからそのお寺でシーンとする中で本当に静まって、そこで教会のことも考えた。教会のこと、それは主イエス・キリストがかしらだから、あの牧師さんこの信徒っていうのでなく
「どうぞイエス・キリストあなたにお会いしたいです」そのような祈りが与えられますように