・2017年10月29日 MP3 ローマの信徒への手紙 1:16-17
「福音を誇りとする」 広田叔弘牧師 日本キリスト教団
梅ヶ丘教会 https://church.ne.jp/umegaoka/
-宗教改革500周年記念-
音声
22:00~ルターはここで悟るんですけれども、これ以前のルターは、救いっていうのはなんとか頑張って、一生懸命努力して神さまの前に認められる者、清められること、良い行いをすること、神さまに満足して頂く、それだけの善良さや清さを身につける。そののちで神さまに受け入れて頂けるんだ。こう考えていた。
ある意味では、これは正しいんです。なぜ正しいかっていうと、神さまは正当に評価する。つまり神さまの前で一生懸命に努力するわけですよ。
努力して神さま正しい方だから正当な努力は受け入れてくれる。だから神さまの前に一生懸命、修行したわけです。
ところがルターは全然安心できない。そしてこの所を読んだ。神の儀。救いです。救いは福音に示されている。初めから終わりまで信仰を通して実現される。
ルターがここで読み取ったのは、救いっていうのは、私がどうやったら救われるかじゃなくて、神さまが用意してくれているものなんだ。このことに気が付いたんですね。
私が一生懸命頑張って神さまの、神さまから合格点を頂くことじゃなくて、神さまが私の救いの為にキリストを用意して下さった。
イエスさまが私の罪、負い目、不安や迷い生きる苦しみ、これを負って十字架についてくださった。
復活を遂げて今、生きて働いている。このように神さまが私の救いの為に、罪があったり、穢れがあったり、迷いがあったり苦悩があったり、失敗したり、そういう私を救う為に神がキリストを用意して下さった。
すでにイエスさまが十字架につき復活を遂げて生きている。このお方を信じる。このお方を受け入れれば、それでいいんだ。このことに霊的に開眼するわけです。
それまでのルターは、救いは自分の問題だったんです。私が救われたいんだから私がなんとかしなければいけない。こう考えていた。
だけど実はそうではなかった。神さまそんなこと言ってない。聖書に書いてあるのはそういうことではない。救われないあなたの為に、神なる私はキリストを用意した。
(最初からすべて聞くことをおすすめします)