アゲハさんは待っていてくれました。神の僕である私が来ることを神さまから教えられたのかもしれません。神さまは私に証をさせようとしているのがずっとわかっていました。
もし人と違ったら外に出たいですか? それでも出なければならないでしょう。
自信無くしませんか? 自信が無いので何かに頼らないといられなくないでしょうか?
まわりの人たちは「考えすぎ」「自意識過剰」「ノイローゼ」「神経症」など病気のように言いませんか?
と言われるが現実を変える解決策を言える人っていないんじゃないでしょうか? ほとんど
すると書店で、河合隼雄さんやユングやフロイトなどの精神的な本を読み少し安心はするかもしれません。
その頃、中学生の時は、結局、部活など忙しければ悩みようがないだろうという。部活を辞めて暇が出来ると、何か趣味でも懸命になれば悩まないだろうという。
エーリッヒ・フロムは、人は自由になると開放される反面、不安になって、どうしたらいいんだろう。このまま行ったら自分だけダメになるんじゃないかと何か確実なしっかりした強い人に頼りたくなる人がいて。
その人の反対の独裁的なファシストで、「そこの自信のない人、わたしについて来なさい」と言わんばかりの人もいて。
こういう友達関係が自分にも実際にありました。
頼っている分、気持ちが楽になりますでしょう? だけど頼っているのが人間なので、良い時もあれば、悪い時もある。
フロイトは「神経症」「ノイローゼ」「うつ病」は、宗教で良くなるようだという。
エーリッヒ・フロムも、宗教で、他人に頼らなくてもひとりで生きて行けるという。
強い人に頼って「威張られて」。あー安心する。という人は、自立してないということを言っているわけです。
さらに禅も書いてあったように思います。
朝起きたら布団をたたみ掃除をして朝食を作り食器を洗い、一連の正しい生活をして行く内に病気も良くなってしまう。生活の乱れから来ているという。
いろんな方の本にも書いてありますが、便利な世の中の内にあって人は可哀想なことに
なっている。そして病気にもなっている。自分がやるべきことを偉くなると人を使って身の回りをやってもらう。それが原因だと東城百合子さんは書いてある。
本を読み知識が増えると、理屈を言える数が増えて、借りの言葉で偉くなってしまう。だけど自分自身は何も変わっていない。客観的に自分を見れば恥ずかしくなるだろう。
私は、聖書を読むと自分の思い上がりと反省が毎日得られるのと「神さまが守っているから心配するな」と、いつでも一緒にいてくれる。これが救いなんです。
また、気が付いたことがあれば書きます。