広田叔弘牧師 日本キリスト教団 梅ヶ丘教会 https://www.church.ne.jp/umegaoka/index.html
詩編17章 FEBCキリスト教放送局「嘆きは喜びの朝へ」十字架のもとで祈る詩編 2014年12月頃放送されました。
とても感動的な内容で忘れられません。
わたくしはキリスト主義の高校で聖書を教えています。生徒たちから話を聞くんです。
小学校時代に、いじめを経験しています。人が困っている姿を見るのは楽しい。いじめている子供たちは、快感と恐怖を覚えながら、このありさまを見るんです。
こんなことをしていてはいけないんだ。想う。これは間違っている。わかっているんです。しかし止められません。いじめに加わらなければ今度は自分がいじめられてしまうからです。
大人の世界はどうでしょう? もうすまでもありません。格段に厳しいものがある。
かつて、大学を出てから30年間商社勤めをしていた人がいいました。「人間は所詮。金とポストと自尊心だよ」わたしにこう言ってくれた。
グローバル化、知識基盤社会、このように言われます。パソコンと英語とコミュニケーション能力がないと人として生きて行けないように言われます。
本当なんでしょうか? 誰もが脅かされている。子供から大人まで、隣人をいじめて快感と恐ろしさを覚えている。異様な世の中になっています。
そしてこのただ中でわたしたちは神さまを信じてるんです。ただ漠然と信じんのではない。信じ方があります。
注目しましょう次の言葉です。「あなたは、わたしのこころを調べ夜、名を尋ね。非を持ってわたしを試されますが、汚れた思いは何ひとつご覧にならないでしょう」。
「わたしの、こころに汚れた思いは無い」って言うんです。汚れた思い? どんなことを言うんでしょう? 聖書の中に具体例が出てきています。開いてみましょう。
ガラテヤの信徒への手紙 5章19節以下です。「それは姦淫・猥褻・好色・偶像礼拝・魔術・敵意・争い・そねみ・怒り・利己心・不和・仲間争い・ねたみ・泥酔・酒宴・その他この類のものである」悪いことがずーっと書いてあります。これを悪徳表といいます。
ようは、自分本位で生きることです。神に対する畏れなく、隣人に対する愛が無い。己の欲望に従って生きて行く姿です。
これに対して私人は、自分はそうじゃないって言うんです「神と人の前に正しく歩んできた」。こう言う。
そしてこの歩みがあるから彼は次のように祈るんです「瞳のようにわたしを守り、あなたの翼の影に隠してください」。
「わたしを守ってください。あなたにとって大事な者として、わたしを守り御翼の影に宿らせてください」。こう祈る。
神さまの前に正しく生きているから、このように祈ることができるんです。重要なのがここです。神さまの前に正しく生きて行くここが勘どころです。
教会は愛を語ります。赦しを語る。ありのままでいいんだと言います。その通りです。
神さまは愛です。主イエスの十字架の死によってわたしたちは赦された。
がんばった代償として救われるわけではない。キリストがわたしたちを救ってくださるから、わたしたちは救われるんです。
そしてそうであればこそ、この人生をかけて、まじめに主に従うことが求められます。十字架を負わない信仰生活なんてないんです。
わたしたちは、この生涯をかけて真剣にキリストに従ってゆく、これ求められている。
神と人の前に正しく生きる。キリストを見上げて、神さまに問い続けて生きて行くんです。
立派になることじゃなくて、イエスさまを頼りにして、この方を仰いで、神さまに問い続けて生きて行く、神さまに対しても、人に対しても、悪いことしません。良いことを求めて生きるんです。
変わることが出来ない頑固な自分がいるなら「主よ。わたしを変えてください」。この祈りからはじめて行く。