「社会の中で生きる私たち」希望を持つということ 村上 伸(日本基督教団隠退教師)

あなたはどう生きるか―現代キリスト教倫理(再)9/30

村上 伸(日本基督教団隠退教師) #FEBC ネットラジオ キリスト教放送局

26 第五部「社会の中で生きる私たち」〜5.希望を持つということ

音声

http://netradio.febcjp.com/2017/9/30/chet170930/

8:40~善良な人が仮にいたとしても、その人も悪人と同じように死んでしまうじゃないか。もう実に世の中ってのは空しい。だからせめて食べたり飲んだりですね、せめて愛する妻と楽しく遊んだり、そういう風にして生きて行こうじゃないかと、こんなようなことをさえ言うんであります。

聖書の中にこんな言葉があってもいいもんだろうかと私たちが、ちょっと疑問に思うくらいに、そういうなにか投げやりのようなですね言葉が、伝道の書には出てまいります。

皆さん聖書というものは実にこのような深い絶望感のようなものを知っているんですね。聖書はこういう暗い世界と言いましょうか絶望感のようなものと無関係なところで、この希望を語るというのではないんです。

望みが無いというようなことを、したたかに味わいながら、しかもその中で、それを通り抜けたところで希望について語る。これが聖書であります。

もうひとりの人を、やはり旧約聖書から引きたいと思うんですけれども、これは預言者エレミヤであります。このエレミヤという預言者は神さまを信じて、そして正義の為に一生懸命に努力するんでありますけれども、なかなかこの社会の悪はやまない。

そこでですね。エレミヤ書の4章19節では「ああ、わがはらわたよ。わがはらわたよ。私は苦しみに悶える。ああ、わが心臓の壁よ。私の心臓は激しく鼓動する」こういう風な言葉を語りまして本当にこの社会を見てると嫌になってしまうと、いうようなことを述べております。

5章1節からあとには、こんな風に彼は言います「エルサレムの巷を行き巡り見て知るが良い。その広場を訪ねて公平を行い真実を求める者がひとりでもあるか探してみよ。彼らは主は生きておられるというけれども実は偽って誓うのだ」そんな風に言っておりまして、もう本当に彼は社会の中で一生懸命に努力するんだけれども、その努力が報われない。社会というものは、もう罪で満ち満ちておる。そういうことを嘆いています。

ついに彼は、神さまに、食ってかかるんですね。例えば12章1節以下にはこう書いてあります「主よ。私があなたと論じ争うとき、あなたは常に正しい。しかし尚、私はあなたの前に裁きのことを論じてみたい、悪人の道が栄え、不真実な者が皆繁栄するのは、なにゆえですか」

あるいはこんな言葉もあります「イスラエルの望みなる主よ。悩みのときの救い主よ。なぜあなたはこの地に住む異邦の人のようにし、また一夜の宿りのために立ち寄る旅人のようになさらなければならないのですか、なぜあなたは、うろたえている人のようにし、また人を救いえない勇士のようになさらなければならないのですか」

つまりこれは、神さまに対してですね。この社会の中には悪が満ち満ちている。あなたはそれに対して何も出来ないのかと言って、なじっている言葉であります。

それからこんな言葉もあります。これは14章19節ですが「あなたは、まったくユダを捨てられたのですか、あなたの心はシオンを嫌われるのですか、あなたは我々を打ったのに、どうして癒してはくださらないのですか、我々は平安を望んだが良いことは来なかった。癒されるときを望んだが返って恐怖が来た」

皆さんなんという言葉でしょう。この預言者は神さまを本当に信じてその神の言葉に従って、この社会の中で正義を実現する為に努力をした人です。ところがこの人が心の底から失望しているのです。

そうして実はこれは旧約聖書の預言者だけではありませんで、このような深い絶望を実は私たちの主イエスキリストも非常に深く、その極限まで味わい尽くされました。彼はご存知のように愛の人でした。ひとりひとりの人間。彼が出会う、ひとりひとりの人間を本当に愛された。そして神の国が来るということを約束されました。

ところが、そのイエスが裏切られ見捨てられ、はずかしめられて十字架に架けられて殺されてしまう。その十字架の上で彼は「わが神。わが神。どうして私をお見捨てになったのですか」と悲痛な問いを発して死んで行かれました。

ですから聖書というものは、このように深い絶望を知っているんですね。けして知らないわけじゃない。ところがその絶望の中から聖書は今や希望について語り始めるのです。

これはいいかげんなところで気分転換するとか、そういう風なことではないんですね。私たちはよくそういうことをやります。非常に何か失望、落胆したときに気分転換する為に、ちょっと何か、どっかへ行って遊んでみようとかですね、あるいは映画でも見てみようとか、あるいはお酒でも飲んでみようとか。

そんな風に自分たちが気分を変える為にいろいろ努力を致しまして、それはそれでまあ、ある程度有効である場合も、無いわけじゃありませんけれども。

私たちは自分で自分に言い聞かせるようにして気持ちを入れ替える。そしてなんとか明るい気持ちになるように努力をする。そういうことをやることがありますけれども、

しかしこれは本当は駄目なんですね。私たちをむしばんでいる絶望というのは、そんなに簡単なものじゃない。

十字架上のイエスキリストの死。これは、実は私たちの世界がどんなに深い絶望の底にあるかということを明らかに示している出来事だと思います。

弟子たちは、そのことを体験しました。そのことによって決定的なダメージをいわば受けたわけであります。もう立ち上がることが出来ませんでした。そしてみんな弟子たちはバラバラになって、ある者はガリラヤの湖に戻って行ってそこで昔のように漁師をしていた。ペテロもそうでした。

そういうときに、まったく思いもかけず復活したイエスキリストがあらわれる。そういう形で外から希望の光が差し込んで来たのです。

希望というものは、私たちの中からわいてくるものではありません。私たちという人間は、そんなに楽天的なものじゃない。私たちの中からわいてくる希望っていう風なものはない。

私たちの中からわいて出てくるものが枯れ果ててしまっていると、いうのが実は現実なのです。そういうものが枯れ果てて、まったくどうしようもなくなったときに思いもかけず向こうから外から光が来る。

イエスキリストの復活というのは、そういうことでした。実に驚くべき形で外から光がやってきた。ですから人間のすべての経験とかですね。あるいはそこから導き出された思想とか、そういったものを越えて私たちに思いもかけず与えられる命のメッセージ。

聖書が述べていることは、そういうことなんです。そのことを信じたときに私たちは絶望のどん底で立ち直ることが出来ます。尚そこで生きて行くことが出来ます。

皆さん私たちの社会というのは問題に満ち満ちています。最初にも申しましたように考えれば「もう、どうしようもないや」そんな気持ちにさせられるわけであります。私だってそういう気持ちに、しょっちゅうなっています。

しかしそのときに、あの復活のキリストを見上げる。そこから私たちに希望が与えられます。

ですから私たちは本当にもうがっかりしてしまって元気が出てこないようなときに、復活されたキリストその力にその光に預かるてことによって尚希望を抱いて、この社会の中で生き続けるんですね。決して逃げ出さない。この中で生き続ける。それが私たちの生活なのであります。