分断されたイギリス

~Hadrian's Wall & Offa's Dyke~

Hadrian’s Wall ~ハドリアヌスの長城~

ブリテン島にはケルト人が主に住んでいましたが、ローマ軍との戦いに敗れ、ブリテン島はローマ帝国の属国となりました。現在のスコットランドとイングランドの境目付近に、ローマ皇帝ハドリアヌスの命令によって122年ごろにつくられた Hadrian’s Wall があります。この石の壁は、“Barbarians” とみなされたケルト人を北のスコットランド方面へ追いやり、ローマ領側への侵入を防ぐためにつくられたようです。一定の距離をおいて小塔が建てられ、兵士が見張りをしていたそうです。

ローマ人のブリテン島撤退後、城壁の石は一部持ち去られ、農家や教会の壁として使われていたりします。考古学的な関心がもたれはじめたのは意外と最近のようです。1987年に世界遺産(World Heritage)へ登録されました。

Offa’s Dyke ~オッファの堤~

ローマ人がブリテン島から去ると、ケルト人は自由を取り戻しましたが、すぐに北のピクト(Pict)人からの攻撃にさらされることになります。長い間ローマの支配下にあったので、ケルト人の戦力は衰えていました。そこで、アングル人やサクソン人を傭兵として雇ったそうです。ところが、イングランドを気に入ったアングル人やサクソン人は、ブリテン島に住んでいたケルト人を西へ追いやりEngland を支配するようになりました。このようにして、ケルト人はみごとに裏切られました。アングロサクソン人は、ケルト人たちを「外国人」という意味で Wealas と呼び、これが訛ってWelsh(ウェールズ人)という呼称になりました。(関連記事 Wales ~名前に刻まれた歴史とイメージ~

8世紀に、イングランドの Mercia の王であった Offa は、ウェールズ人の侵入を防ぐために Offa’s Dyke という防壁をつくり、これが文字通り Wales と England を隔てる「壁」となりました。Prestatyn から Chepstow までの約177マイル(約285km)の長さがあります。距離は資料によって若干異なります。すべてが土による壁というわけではなく、川や森や山なども境界として利用したようです。現在は観光地にもなっています。

Hadrian’s Wall とOffa’s Dykeのもつ意味

このように、ブリテン島にいたケルト人(ブリトン人)は、ローマ人によってスコットランド方面へ追いやられ、ローマ人撤退後は、アングロサクソン人によってウェールズ方面へ追いやられました。こうした要因があり、同じケルト語をルーツとする言語が、Welsh(カムリ語)やスコットランドの Gaelic(ゲール語)になったようです。そのほかのケルト語族には、コーンウォールの Cornish、フランスブルターニュ地方のBreton(ブルトン語)、アイルランドの Irish(アイルランド語)がありますが、これらの言語もこのように歴史的に分断された結果、発音、語彙、文法などで違いが見られるようになったそうです。

そして、言うまでも無く、イングランドでは、アングロサクソン人によって English(英語)ができあがってきます。そして、この English も、Norman Conquest によるフランス語の影響を受けながら大きく変化していくことになります。

このように「分断された部分」のいくつかが、「のり」でひっつけられ “United Kingdom” になっていると考えてよいと思います。そして、われわれ日本人はそれを“イギリス”と呼んでいるのです。