2001年(春号)
<寄稿記事>
◾️巻頭カラー:日本のウィルダネスを漕ぐ。知床半島:カラー7P
◾️企画・写真:ダン・ルイスが訴える環境保護への提言。:カラー4P
【巻頭カラー】
日本のウィルダネスを漕ぐ。知床半島
見開きトップで使われたペキンノ鼻から知床岬方面を望む写真。この時は羅臼側から出発、ウトロに帰着している。
知床半島。日本で最後に残ったウィルダネスと言っていいだろう。実際、その後にカヌーワールドの取材で周ったときにも、途中携帯電話はauが一箇所、それも崖によじ登ってようやく電波が通じた程度。今時繋がらないということの方が難しい日本の携帯電話エリアで、ひとつの半島沿岸が丸々繋がらないというのは珍しい。現代人にはこれだけでも冒険行だろう。
この場所的な魅力もあるが、ヒグマも出没するこの地域、やはり新谷暁夫氏のガイディングでまわってみたいとずっと思っていた。ところが、僕が取材も合わせて漕ぎたいと氏に話す直前、当時のカヌーライフ編集部と新谷氏の間にはちょっとしたいざこざがあったようで(詳細は聞いていないし、聞く気もないけど)、僕が今回のエクシペディション参加について、「カヌーライフ誌に載せたい」と言うと、「あんたが撮ったものをどこに載せようと、それはあんたの勝手だ」と言われた覚えがある。なんかたいへんな人に取材依頼しちゃったかなあ、と思いつつ北海道へと飛んだことを覚えている。
この時のエクスペディションは後に新谷氏の右腕となり、数々のエクスペディションをこなしていく新井場さんのデビュー年でもあった。当時は有名ガイドさんのこうしたエポックにあたることが多くて、余談だが、この数年前、沖縄カヤックセンターの慶良間ツアーに参加した時も、大城さん(漕店)のガイドデビュー年だった。
現地はなるほどウィルダネス。鹿が頭ごと落ちていたり、番屋の廃墟にガラス浮きが残っていたり。このときは僕も鹿のツノの片方を拾い、今も家の帽子掛けになっている。
この当時は4泊5日(予備日+1日)で知床半島を周っていたと思う。
オホーツク海側は順調にカヤックを漕ぎ進めたが、知床岬はやはり多少吹き、そして太平洋側で何艇かが沈をした。ボトムが割れて修理をしつつ、漕ぎ進めていった。
さらにウトロ側のとある浜で、上陸時に後続のカヤックが波に乗ってしまい、前のカヤックのパドラーに衝突、急遽レスキューを求める事件も起きた。幸いメンバーに某病院の医師がいて、怪我も大したことなくことなきを得た。そしてツアー後に新谷氏の要望で予定を変更してロッヂに戻って酒を酌み交わしたりと、いろいろなことがあったエクスペディションだった。
この16年後、カヌーワールドで久々に漕いだが、やはり風景、特に番屋などの人が入っていたところの風景は大きく変わっていた。この時の写真は2度と撮れない宝物なのである。
【企画・写真】
ダン・ルイスが訴える環境保護への提言
日本にシーカヤックが入ってきた主なルートは自分的には3つあると思っていて、1つは関西のファルトピア(神吉氏)が中心となって導入してきたイギリス・バリー社のスポーツツーリング、もしくはエクスペディション系。そして中部はゴーリキの吉角氏が導入してきた、同じくイギリスだがさらにスポーツに振ったノースショア系、そして東京のクリンテックス、エコマリンで展開した北米、カナダのニンバスに代表されるツーリング系だ。
特にメソッドという面ではクリンテックス、エコマリン東京が、大きなルートのひとつだろう。カナダはバンクーバーにその拠点を置くシーカヤッキング・ソフトハウスの「エコマリン」。それがどのような経緯で日本に入ってきて、日本でどのような思想を元に広まっていったかは、ぜひ「カヌーワールド」のvol.6とvol.7に、「ニッポンカヌー黎明期」としてクリーンテックスを紹介しているので、読んで欲しい。
その「エコマリン」で当時チーフインストラクターだった柴田さん(現アルフォレスト代表)やインストラクターの村田さん(現西伊豆コースタルカヤックス代表)らとシーカヤッキングを通じて親交を深めていくうち、彼らのルーツになったエコマリンの始祖であるジョン・ダウド氏と、メソッドを体系化したダン・ルイス氏はどんな人たちなのか、そして彼らのシーカヤッキングに対する想いや技術が、違う国である日本に入ってから、どのように受け継がれていくのかに非常に興味を持ち、いつかそれを書きたいと思っていた。
このときは、ダン・ルイス氏が来日した目的の方を記事化したかったので、写真のみ僕が撮影し、その目的については柴田さんが書くということになった。そして僕の想いの方は、この次の号の「ダン・ルイスの息子たち~シーカヤッキングの流れを継ぐ、ふたりの日本人インストラクター」という記事で結実する。その後も二度ほど彼らの来日に合わせて紹介してきた。
そういえばこのとき、別の雑誌も取材に来ており(Outdoorだったかな?)、カメラマンが師匠の梅田正明師だった覚えがある。師匠と同じ現場で仕事をするようになったかと、別の意味でちょっと感慨深くなったっけ。