浅間

明治20年輸入。長野県南佐久郡にて種牡馬として活躍した。

馬名:浅間(あさま)

性別:牡

父:ベツドモント【資料2】

母:ノーラ【資料2】

毛色:鹿毛 or 黒鹿毛

生年:1884年(明治17年)【資料2】

死年:1908年(明治41年)【資料4】

産地:アメリカ

■解説

・明治20年輸入の馬。農商務省が米国より馬を購入する際に長野県が便乗して購入した。

・代金は1300ドル。輸入されるまでは「牡馬44号」と管理番号で呼ばれていたが、輸入後に「浅間」と名付けられた。

・長野県において種牡馬として使用されたのち、明治23年に南佐久郡の有志団体に売却された。団体名は明らかではないが普通に考えて「南佐久郡産牛馬組合」で間違い無いだろう。

以来同地において長年種牡馬をつとめ、産駒数は千頭を超え、孫の数は1万を超えるという良好な成績を残した。

同地の功労馬として碑を作成しようとしたが血統が明らかにならず頓挫したようである。【資料4】

■遍歴

・1884(M17):アメリカにて生まれる【以下すべて資料3】

・1887(M20):長野県が購入、県内で巡回交尾に供した。

・1891(M24):南佐久郡産牛馬組合に売却された。

・1905(M38):諏訪地方に移送された(?)

・1906(M39):南佐久郡に戻された(?)

・1908(M41):死亡した。

■資料

【資料1】輸入種牛馬系統取調書

https://dl.ndl.go.jp/pid/842117/1/20

長野県において購入の分

種類:乗

性別:牡

毛色:鹿毛

産地:アメリカ

名称:(空欄)

購入価格:1300ドル

輸入年:明治20


【資料農務顛末 第4巻

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/2468750/1/25

牡馬第44号(長野へ)

毛色:鹿毛一後脚白

年齢:2歳

分娩年月:1884年4月27日

現在丈:15掌2分の1

重量:1000ポンド

売価:米金1300ドル

父:ベツドモント

母:ノーラ

外戚の祖父:メツセンヂヨル、ドロツク号

但し以上馬匹に関する族譜数多有之既に建徳基州(ケンタッキー州)より予か送呈したる族譜中にも同一の馬匹相見申候且一掌(1ハンド)は四英寸(4インチ)に有之以下之に倣うと御承知被下度候


【資料高冷地の地理学

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/2513083/1/164

浅間号は合衆国カリフォルニアの原産で、農商務省が輸入した。1887年に4歳で長野県に交付され、県下を巡回交尾していたが1890年に南佐久郡の有志団体に払い下げられ、1908年(明治41年)に死亡するまで1905年の1ヶ年間諏訪郡に売却された以外、18ヶ年にわたり活躍した名馬であった。その繁殖成績は大変優良でその仔馬は1000頭、うち種牡馬に合格したもの120余頭、その血統を受けた馬は36500頭の多数に及んだという。なお浅間号の体高は5尺3寸5分、黒鹿毛であった。


【資料4】中央獣医会雑誌 18(5)

https://dl.ndl.go.jp/pid/1513803/1/7

長野県南佐久郡種馬浅間号

輸入年月 明治20年2月頃

この種馬は鹿毛トロッター種にして農商務省の紹介をもって米国カリホルニア州より買い入れたるものなり。同時に農商務省においても鹿毛牡馬一頭購入してこれを当時の下総牧場(今の駒ノ頭)に飼養せり。浅間号横浜上陸の際、脚部に負傷しその監督治療のため一週間ほど横浜に滞在し、快方に赴きたるところで長野県技手阿部久好氏に引き渡したる事は小生の記憶に存せり。

年齢は本年23歳にして今なお壮健なりという。仔馬を設けたること約千頭、孫は一万頭の多きに達し居るならん。実に長野県産馬改良の基礎はこの種馬によって置かれたりと言うべし。輸入以来今日まで18年間種用に供し来たれり、目下は長野県南佐久郡北牧村261番地産馬家篠原戸市の所有なり。今般畜主においてその功労を表せんが為の碑を建つる企てあり、しかるにその血統及び父母の名称不明なるをもって大いに遺憾とし状況して余にその取り調べを託せられたるも、毫も手がかりを得ず血統書は馬と共に長野県庁に送りしはずと心得るも判然とせず、現に該県庁に存在せずという。阿部久好氏は先年逝去せしをもって庁を問うべき便無し、農商務省に記録の徴すべきあらばこれ幸いなり。あるいは下総御料牧場に残存するやも知るべからず。


【資料5】信濃 [第3次] 15(11)167

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/6069649/1/21

(明治23年の)翌年になるとノルマン系トロッタ種の浅間号を県が貸下げた。浅間号は鹿毛の額星、後脚左白で身長5尺3寸余りの三歳馬であった。この馬の入郡にあたっては「県御料馬浅間号」の旗を立て、郡民が沿道に垣をなしたという。浅間号は種馬として郡内にあること18年におよび、郡下の馬の繁殖改良に大きな役割を果たした。