■1.太田陣屋へ
はるばるフランスより送致された馬がついに日本に到着した。前述したようにここらへんの話については牧士の残した書類が結構あるので、詳しくはそれらが記載されている「松戸市史」「白井町史」などを参照されたい。
横浜に到着した馬は太田陣屋(横浜市中区日の出町)に送られ、繋養された。この太田陣屋という施設はいわゆる軍事基地だと言ってよい。江戸幕府の要請により慶応2年より来日しているフランス軍事顧問団(団長:シャルル・シャノワーヌ)はここを拠点として幕府側の兵に対し調練を行なっていた。アンドレ・カズヌーヴはこの軍事顧問団の一員であったので馬を引き連れてここに来着するのは自然な事であろう。
「馬の輸送」という任務のために遅れて合流したという形になるだろうか。
■2.綿貫率いる一行の到着
5月19日、野馬奉行「綿貫夏右衛門」が率いる一行が太田陣屋に到着。各馬を受領し担当を振り分けた。牧士5名、別当30名の大所帯である。
同時に当太田陣屋においてフランス人伝習者による馬匹育成の伝習が行われた。牧士たちは着る物も洋装となっていたと言われている。フランスによる伝習は「騎乗の際はそのハカマとかいう装いよりこのズボンを履いた方が全然いいぞ」というところから始まったようだ。フランス人伝習者の溜め息がここまで聞こえてきそう。
■3.贈呈式
6月26日に江戸城大手門にて徳川幕府への贈呈式が行われた。この時26頭のうち3頭が将軍家の御用馬となった。該当馬は松戸市史によれば全て牡馬である。繁殖の環境を考えると牡馬より牝馬を取られるほうが遥かに痛いので、一応幕府方側も贈呈の目的を理解して選択してるようには見える。
なお、白井町史では引き渡した御用馬は2頭だという事になっている。リストのある松戸市史の方が信憑性が高いと思うのでここは3頭説を取りたい。
<参考資料>
■松戸市史中巻・近世編
https://dl.ndl.go.jp/pid/3036544/1/175
その後、大手門内広場で試乗があり、駒の五番、七番、八番(前表▽のある馬)が将軍家の御用馬として牽分けられ、式は午前十一時前とどこおりなく終了した。駒八疋、駄十五疋、計二十三疋のアラビヤ馬は一旦新橋御厩に引き立てられ翌二十九日に再び太田陣屋へ戻っている。
■白井町史・史料集1
https://dl.ndl.go.jp/pid/9643101/1/224
御老若其外役〃御見分再上アラビヤ馬廿六疋之内駒二疋御召之分は騎兵方へ御引渡し相成残り廿四疋は新橋御厩乗込に相成同夜一同同所へ泊りフランス人は陸軍所へ泊りに相成候事
贈呈式が終わると残りの23頭は再び太田陣屋に戻され、牧士らは再び伝習の日々を送った。その後7月11日、伝習にひと段落がついたのだろう。伝習者のうち5名が帰国した。
■4.崩れゆく徳川幕府
23頭と牧士らはその後も太田陣屋に留まり続ける事になる。しかしフランス人伝習者はほとんどが帰国している事から太田陣屋に居続ける意味を見いだし難くこの点は少し不自然に感じる。慶応3年の時点で小金牧でのアラビア馬目撃例もある事から、早々に小金牧に移動していた可能性もある。まあ、とりあえずは太田陣屋に居続けたと仮定しよう。
少し変な時期だが9月29日(西暦では10月26日)に牡馬1頭が生まれた。持込馬のどれかだろう。しかし何故秋に産まれるのだろうか。日本とアルジェリアでは繁殖時期が違うのかもしれない。
<参考資料>
■松戸市史中巻・近世編
https://dl.ndl.go.jp/pid/3036544/1/176
こうして正月四日、彼等は横浜の太田陣屋を出立して神田橋騎兵屯所へ引移ったが、このときは前年の9月29日に駒鹿毛一疋が生まれていたから、恐らくアラビヤ馬は総数二十四疋になっていた筈である。
10月14日大政奉還。俄に暗雲が立ち込める。
■5.小金牧にある中野牧へ
年が明けて1868年(慶応4年)の1月、全馬を太田陣屋(横浜市中区日ノ出町)から中野牧の五助木戸(千葉県松戸市五香)へと移動させた。この頃太田陣屋は新政府に接収されたらしく追い出されたのかもしれない。それに太田陣屋は軍事基地であるのでここで繁殖を行う事は難しい。という判断なのだろう。
移動先は「中野牧の五助木戸」である。中野牧は前回話した「小金牧」のうちの一つである。
「五助木戸」はのちに開墾地となった際に「五香」という地名に変わったが「五」が被ってるのはたまたまである。五助は人名であり、五香は明治以降5番目の開墾地ゆえに付けられたものである。
まあ、覚えやすいのは良いことである。
2月18日に一頭が病死した。そしてついに春を迎える事となる。アラビア馬を受け入れてからの初の繁殖期。もともと繁殖の為に贈られた馬であり、ここからが本番。牧士の腕の見せどころ。
となるはずであった。
第2章:完