幕間:牧について
■1.牧について
物語の続きを書く前に、江戸時代ではどのように馬が管理されていたのか少し説明したいと思う。
馬は江戸時代の初期より「牧(まき)」というものによって管理されていた。牧とはまずかなり広めの平地を確保し、馬が逃げられないようにするために周りを柵や土盛りで囲い、そしてその中に馬を放って生活をさせるというものである。
エサや繁殖については特に管理は行わず、半ば野生のような状態であった。
年に一度「野馬追い」を行い馬を確保した。野馬追いとは広大な牧内に散在する馬を狭い袋小路に追い込んで、閉じ込めるというもの。牧の規模にもよるであろうが千人程度の追い込み係が動員される一大イベントであり、野馬追いが行われる際には多くの見物客が訪れ周りでその観戦をしていたようだ。
■2.幕府直轄の4つの牧
江戸幕府は4つの牧を持っていた。
①千葉県北西部の「小金牧」(こがねまき)
②千葉県北東部の「佐倉牧」(さくらまき)
③千葉県南部の「嶺岡牧」(みねおかまき)
④静岡県沼津市の「愛鷹牧」(あしたかまき) 以上の4牧である。
■3.各牧の詳細
<①小金牧>
千葉県の北西部に位置する小金牧は更に細かく5つの牧に分かれている。今後の話にも少し出てくるため、この5牧は覚えておくと良いだろう。左上から「高田台牧」「上野牧」「中野牧」「下野牧」「印西牧」である。上中下と法則性があるので覚えるのは難しくは無いと思われる。
<②佐倉牧>
千葉県北東部に位置する佐倉牧は同様に7つに分かれているが、これは少し覚えにくいかもしれない。右上から「油田牧」「矢作牧」「取香牧」「内野牧」「高野牧」「柳沢牧」「小間子牧」だ。少なくとも「取香牧(とっこうまき)」という牧があるという事だけは覚えておいていただきたい。
※左図はまっぷるトラベルガイドの記事より。
( https://www.mapple.net/articles/bk/2904/ )
※左の図では小金牧に「庄内牧」という牧が書かれているがこれは江戸の中期に消滅した。
<③嶺岡牧>
千葉県南部にある嶺岡牧も5つの牧(東上牧・東下牧・西一牧・西二牧・柱木牧)に分かれていた。
<④愛鷹牧>
静岡県沼津市にある愛鷹牧も4つの牧(尾上牧・元野牧・霞野牧・尾上新牧)に分かれていた。
上記③と④の牧名は覚えなくて良いと思う。これらの牧名が載ってる文献はあまり多くなく正直マニアの領域である。
■4.焼印
それぞれの牧で捕らえた馬には臀部に焼印が施された。各牧ごとに焼印の印図が異なっており、どこの牧の馬であったのかが分かるようになっている。(嶺岡牧のみ馬の種類を分別していたようだ。)
また尾上新牧の焼印が不明だが、おそらく尾上牧と同じであったのだろう。
<参考資料>
■千葉県誌稿本 巻上
<①小金牧>
上野牧(蛇沢)
(笠)
高田台牧
(琴柱)
中野牧
(千鳥)
下野牧
(輪違)
印西牧
(瓢箪)
<②佐倉牧>
内野牧
(亀甲)
高野牧
(蕨手)
取香牧
(地紙)
矢作牧
(矢筈)
柳沢牧
(うちわ)
小間子牧
(分銅)
油田牧
(三日月)
<③嶺岡牧>
・13:嶺岡筋 (安の字)
・14:仙台種 (角繋)
・15:南部種 (飛雀)
・16:ペルシア(羽折雀)
・17:三春種 (雁金)
<④愛鷹牧>
・18:元野牧 (山形)
・19:尾上牧 (雲)
・20:霞野牧 (霞)
■5.野馬奉行(のまぶぎょう)と牧士
野馬奉行「綿貫夏右衛門」は①小金牧、②佐倉牧、③嶺岡牧の千葉の3牧をまとめる監督者であった。この綿貫夏右衛門という名は服部半蔵などと同じく襲名制である。
野馬奉行の下には牧士(もくし)と呼ばれる者がおり、各牧の馬の管理を行なっていた。牧士はいっぱしの武士扱いされており、帯刀も許されていた彼らには苗字があった。
牧士の下には別当(小間使い)がおり、彼らには苗字は無かった。
■6.牧のその後
明治に入ると維新の影響で庶民の生活が一変、武士は仕事を失い貧窮民が増大した。そのため政府は明治2年に開墾局を設立し「①小金牧の5牧全部」と「②佐倉牧の7牧のうち5牧」(取香牧と小間子牧以外)を開墾地に変えた。
そして彼ら貧窮民に土地を与えて、帰農してもらう事にしたのである。
各牧にいた馬は売却されたり、嶺岡牧や小間子牧に移動させたりした。(サラっと書いたけどこれ簡単な作業ではないと思う)
広大な牧を潰して作られた開墾地は全部で13箇所にのぼり、開墾地ごとに1から13にちなんだ地名がつけられた。千葉県民なら何度か耳にした事があるだろう。
「初富」「二和」「三咲」「豊四季」「五香」「六実」「七栄」「八街」「九美上」「十倉」「十余一」「十余二」「十余三」
以上の13地名にはそれぞれ縁起の良い漢字が採用されている。十余(トヨ)は「豊」という事であろう。
このような制度で開墾地に送り込まれた貧窮民であったが、いきなり農業をやれと言われてもうまく行くはずもなく、また救民制度自体が未熟と言わざるを得ない制度内容であったため結局は土地を手放す者が続出、土地を買い占めた成金が出るに至ったのみであった。
①小金牧と②佐倉牧の最期はかくもみじめであった。佐倉牧の中で開墾地とならなかった取香牧は牧場として再度使用される事となり、後の「下総御料牧場」がこの地に作られる事となる。
他の牧はどうだったであろうか。
③嶺岡牧は民間に払い下げとなり、牛乳の名産地となった。ただし経営状態は最悪と言っても良く、再度国が管理するはめになった。
④愛鷹牧は特に活用されず荒れ地となった。
以上が牧の歴史である。
■7.現代に残る牧
現代においては牧の周りに盛った土手が一部残るのみで牧に関する遺構は極めて少ない。地名としては「馬込」や「○ヶ作」「〜木戸」などは牧の設備の名残である場合が多い。
駅としては「佐倉駅」、「北小金駅」、「印西牧の原駅」などに牧の名前が残っている。「佐倉駅」や「北小金駅」は単純に地名から取られたものであろうが「印西牧の原駅」はまさしく「印西牧」から取られた駅名なのである。もっとも駅のある場所は幕末頃には既に牧では無くなっているが。
また、静岡県には「牧之原市」という市があるが、愛鷹牧とは場所が異なるため特に関連性は無い。
■8.必然たる終焉
歴史的には開墾地となったため消滅した「牧」であるが、自然交配を主とし、血統の帳面も作成しない馬匹管理はもはや時代遅れであり、いずれにしろ牧の消滅は避けようがなかったであろう。
牧のような手法では何年かかっても馬匹改良は不可能である。この事を来日したフランス人伝習者の教えによって思い知る事となるのである。
幕間:完