第1章:仏国皇帝、亜剌比亜馬を日本に贈呈す

■1.欧州蚕動乱 

1860年頃の話である。欧州は蚕の病気の蔓延により養蚕業界は大打撃を受けていた。フランス皇帝ナポレオン三世は蚕確保のため日本に対し、蚕を譲ってくれるよう働きかけを行った。他の欧州各国からも同様の要請があったが、時の14代将軍徳川家茂はフランス国に対して蚕の支援を行う事を決定し、その見返りとしてアラビア馬を譲り受ける事を希望した。

どのくらいの蚕をいつ送ったのかは諸説あるが、3万個程度の卵を2回に分けて贈られた事は確かなようだ。輸送中も数が増えていただろうから正確な蚕の数は正直どうでも良いかな、と思う。

■2.馬匹来航 

「仏政府に蚕卵寄贈一件」という慶応元年の文献には「蚕を贈ってもらって感謝している」という事と「要望のアラビア馬を贈る。これはアフリカ産である」という事が記述されているようだ。(この資料は江戸時代の文献にしては異常なほど読みやすい資料とはなっているものの、それでもやはり子細を読み解くのは難しい。)

<参考資料>

アジア歴史資料センター

「仏政府ニ蚕卵寄贈一件」

https://www.jacar.go.jp/

こうして慶応元年(1865年)に蚕卵をフランスに送り届けたが、返戻品の馬はその翌年になっても到着せず、それを気まずく思った駐日フランス公使ロッシュは自身の所有するアラビア馬1頭を江戸幕府に進呈したようである。(この馬の行方はよく分かっていない。)

<参考資料>

外交史料Q&A 幕末期

https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/qa/bakumatsu_01.html

この後、蚕卵紙は同年10月19日(8月30日)にフランスへ送り出されましたが、フランスから馬が到着しないまま翌年を迎えたため、ロッシュが自身所有のアラビア馬1頭を将軍に進呈するという配慮を示したことが記録に残っています。


<参考資料>

■維新史料綱要 第6 (慶応元年乙丑,慶応二年丙寅)

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1920160/1/356

仏国全権公使ロッシュ。幕府に牒し仏国皇帝が大将軍に贈呈するアラビア馬の到着前、自己の飼養せる同種の馬一頭を進献せんとする意を陳ぶ。次いで29日、幕府復書してその厚意を謝し、我よりも日本馬一頭をロッシュに贈るべき旨を告ぐ。

さらにその翌年である慶応3年(1867年、明治0年相当)に、これらの馬は日本に到着した。

これらの馬はアフリカの植民地アルジェリアで育成されていたものである。一度アルジェリアよりフランス本国に送られたのち、フランス人伍長「アンドレ・カズヌーヴ」と共に日本に輸送された。

当時の新聞にこれらの馬がフランスから出国された事が記載されている。

<参考資料>

幕末明治新聞全集第2巻

https://dl.ndl.go.jp/pid/1236944/1/168

(慶応3年3月下旬)

日本大君へ贈物として、仏国より「アラビヤ」馬二十五匹を送り来る。「コーント(官名)」「デインコール(人名)」並びに 仏皇帝の馬人伍長一人別に十二人と共に既に「マルセール(地名)」を発せり。

■3.馬のリストについて 

さて贈られた馬は何頭であったか。20〜36頭程度の諸説があるが、これは26頭であったとする説が圧倒的に強い。次点で25頭か。

輸入種牛馬系統取調書(M21年発行)という書籍にこの26頭の表が記載されている。

<参考資料>

輸入種牛馬系統取調書(M21)

https://dl.ndl.go.jp/pid/842117/1/20

タイトルに「日本国大君へ送致する〜」とあるとおりフランス側の作成した資料であり信憑性は高いと言える。牡馬は11頭、牝馬は15頭の計26頭。牝馬のうち3頭は「出立前に交尾」とある。いわゆる持込馬というやつだ。

しかしながらこの資料、明らかにおかしいところがある。「1860年」と書かれているのである。いやー、そんな筈は無いのだ。馬が日本に到着したのは間違いなく慶応3年の1867年である。本当に1860年に作ったリストだとしたら7年前のものを手渡すフランスは稀代の豪胆であると言わざるを得ない。(そもそもこの表はいつ誰が手に入れたものなのかも良く分かっていない)

したがってこの1860年という表記は誤りと考えられる。ただどのような経緯でこの誤りが発生したのか想像がつかないところに若干の気持ち悪さが残る。

また白井町史においても贈られた頭数はやはり26となっているが「アラビア馬25頭、外に控えが1頭」などという不思議な書かれ方をしており、1頭だけアラビア馬では無かったかのような記述となっている。興味深いところだ。

<参考資料>

白井町史1・資料編

https://dl.ndl.go.jp/pid/9643101/221

アラビヤ馬弐拾五疋外控壱疋都合弐拾六疋差越候義はフランス国王より日本国王江献上ニ相成り候段河津伊豆守殿御口達之事

※「疋」=「匹」

■4.根強い「文久年間」説 

また、「慶応3年」というこの来日した年についてはこれより後のほとんどの書籍で「文久3年(文久年間)に来た」とする誤った記述が見られる。「文久3年」は1863年で「慶応3年」は1867年であり4年も異なっている。明治20年頃から既にこの誤った説が出始め、僅かに異を唱える声が出るもののほぼ現代までこの文久年間説が主流となっていた。改めて書くが馬の到着年は慶応3年(1867年)が絶対的に正しく、文久年間説が成立する余地は1ミクロンも存在しない。

<参考資料>

輸入種牛馬系統取調書

https://dl.ndl.go.jp/pid/842117/1/5

文久年間

仏帝ナポレオン三世より幕府に送付す


日本馬政史・三

https://dl.ndl.go.jp/pid/1718915/1/48

更に下りて文久三年仏帝ナポレオン三世よりアラビヤ馬廿六頭を江戸幕府に贈られたのであるがその事実左の通り


調べる限り明治の書籍で「慶応3年」と正しく記載してあるのは「大日本馬種略」のみである。

<参考資料>

大日本馬種略(明治29年刊行)

https://dl.ndl.go.jp/pid/841914/26

最近に至て慶応三年秋仏国皇帝第三世那破烈翁亜尓説利種の牝牡二十六疋を寄贈す皆な良馬なりと


この「文久年間説」、誰が言い出して何故ここまで広まったのか。いまだ謎である。

■5.別資料の馬リスト 

馬のリストは上記の表以外にも存在する。松戸市史・中巻に記載されているもので、これは幕府側が引き取った後「誰がどの馬の担当をしたのか」という表なのである。


<参考資料>

松戸市史中巻・近世編

https://dl.ndl.go.jp/pid/3036544/1/174

いろいろと奇妙な表である。まず、牡馬は「駒」と、牝馬は「駄」と表記されている。これは当時の表記方法なので特に問題無い。牝馬の方が性格がおとなしく荷駄馬として最適だったからこのような表記となっていると言われている。

最もおかしいのは馬齢である。前述の表と全く異なっており、非常にバラバラな年齢である。繁殖のために贈られた馬なのだからいくら何でも一歳は無いだろう。

かように謎の多い表であるが、一つ優れた所があって幕府に献上した3頭がどの馬なのかを△印できちんと示しているのである。(この件は後述する)


馬のリストは実はさらにもう一つ存在する。

それは「白井町史」に記載があり、これは5月1日に書かれたものだと言う。正式な馬の引き取りは5月19日なのでこれはかなり早い段階のものになる。そのリストはこんな感じである。

<参考資料>

白井町史・史料編1

https://dl.ndl.go.jp/pid/9643101/1/221

まずはこの表、最後に「〆駒拾疋、駄拾五疋」と記載があり、これは「締めて牡10頭、牝15頭」という事であろう。ここですでに25頭と少なく「おやっ?」と思うところがあるのだが、リストを指折り数えるとなんと牡9頭、牝14頭の合計23頭分しか書かれていません。

…うーん、よく分からない。まあ、参考程度にと言ったところだろうか。

ひとつの推理 

さて、以上の資料をもとに私なりに以下の仮説を提唱したいと思う。

(1)カズヌーヴがフランスより牽き連れた馬は25頭だった。

(2)日本到着後にロッシュ所有の1頭を加えて26頭とした。

この流れであれば「フランスより出発したのは25頭だし、到着したのも25頭。しかし献上したのは26頭」と多くの資料の整合性が保てるのではないだろうか。証拠もあるわけではないが一つの考えとしてあり得る話ではあると思う。

.育成方法伝習 

フランス側は馬の贈答と併せて育成方法も伝授するとのことで仏人伝習者7名が馬と共に来日した。それを習うため、野馬奉行「綿貫夏右衛門」は牧士の「川上次郎右衛門(現白井市出身)」や同じく牧士の「湯浅兵五郎(現松戸市出身)」などを連れて横浜へと向かった。

上に挙げた綿貫、川上、湯浅の3名は特に資料を良く残している。白井町史の謎の馬リストは川上文書であるし、松戸市史の馬リストは湯浅文書であると思われる。調べ物の際は彼らの資料を漁ってみると良いだろう。

最後にフランス人伝習者7名は下記の通りであると「松戸市史中巻」にある。

<参考資料>

松戸市史中巻・近世編

https://dl.ndl.go.jp/pid/3036544/1/175

横浜代表者「シャノアン」「デシャナン」

馬教師「ダイクウル・エッサ」「ブリガッシュ・カズヌフ」

別当「ミクル」「アトアン」「テボル」

理由は不明だがアンドレ・カズヌーヴの名前は微妙に変化している。また、この7名は便宜上「馬と共に来日した」と書いたが、今回来日したのではなくもともと日本に在住していた人も中にはいるだろう。

■8.日本到着 

馬の詳しい到着日は不明だが、下記の資料には「4月29日には横浜に到着していた」という事のようであるので、だいたい4月末頃だという認識で良いだろう。

<参考資料>

酒々井町史 史料集 4 (佐倉牧関係 3)

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/9642101/1/40

アラビヤ馬来着

以宿継申達候、しからばアラビヤ馬来着に付き、伝習為御用去月29日横浜表へ出役候処、遠海相隔候場所より牽付候につき、馬も疲れ居候につき、伝習且小金表へ牽付等の儀も当月15日頃ならては差支之趣、フランス人申立候間、ひとまず江戸表へ立帰申候、尤一両日の内、当川津伊豆守出役候につき、心得迄達置候

一御牧場見回方精々可被致候、右之段申達候

う5月10日 綿貫夏右衛門


こうして26頭は日本の地を踏む事となった。

第1章:完