雲龍

阿部豊後守が将軍家より拝領した馬。その後宮城で種馬となる。

馬名:雲龍(うんりゅう)

性別:牡

父:不明

母:不明

毛色:芦毛

生年:不明

死年:明治3年?【資料4】

産地:アルジェリア(フランス国植民地)

■解説

・阿部豊後守(阿部正)が慶応年間に将軍家から拝領した馬。

・阿部正外は江戸幕府の閣老で諸外国との折衝を担当する外国奉行であったようだ。アラビア馬の拝領は十分にあり得る話だろう。

慶応年間に拝領したのならば慶応3年6月26日に将軍家の御料馬となった3頭のうちの1頭なのであろう。

・【資料1】は明らかに【資料2】から引用した文章であるが【資料2】には「雲龍はナポレオン三世の馬だ」とは書かれていない。

・とはいえこの時期に幕府からアラビア馬を貰ったというのが本当ならばナポレオン三世の馬だと考えてまず間違いは無いだろう。

・【資料1~2】に拝領時の顛末が記されており、【資料3~6】にてその後の行方が記されている。

・【資料3~6】の情報が非常に錯綜しており、これらをまとめて一本のストーリーに仕上げるのはかなり難しい。

・【資料6】は千葉胤昌本人の証言ゆえ信頼度は高めと見て良さそう。

・【資料4】は「死亡時の推定年齢30歳」と読めばいいのだろうか。種馬としてはまずあり得ない年齢であろう。

・産駒の桜黛号は勧農局かあるいは宮内省に買われたようだが、その後の行方は不明である。

・ちなみに雲龍は芦毛だが御用馬3頭は栗毛、栗毛、鹿毛である。てかそもそもナポレオン三世の贈答馬に芦毛牡馬は1頭もいない。

■遍歴

・1867(K3)頃:アルジェリアからフランスへ移送される。

・1867(K3)3月:フランスを出発し、日本へ移送される。

・1867(K3)4月:日本に到着、太田陣屋(横浜市日の出町)に繋養される。

・1867(K3)6月:大手門で行われた贈呈式の時に徳川幕府へ引き渡され、御用馬となった。

1867-1868(K3~K4):(説1)将軍家が阿部豊後守に下賜した。【資料1】

            (説2)将軍家が阿部豊後守に雲龍を含めた2頭を下賜した【資料4】

・1869(M2):伊達家に寄贈した。【資料3・6

・年代不詳:(説1)岩淵某に預けた。【資料

      (説2)壱岐綾之丞に預け、そののち千葉胤昌に預けた【資料4】

      (説3)千葉胤昌に預けた。【資料5・6】

・年代不詳:(説1)種馬となり雑種を2頭輩出した。【資料3~5】

      (説2)種馬となり5頭(牡2牝3)の産駒を輩出した。【資料6】

1870(M3):死亡した。【資料4】

■資料

【資料1】実業の世界8(23)臨時増刊 東北發展號

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/10292832/1/106

那破烈翁三世陛下の賜物

本県の馬格馬種改良のために洋種の輸入を見たのは、旧藩時代からの事である。慶応年間阿部美濃守*1閣老の際将軍家から拝領した亜剌伯種の雲龍というのは専ら領主の乗用に供されている間に維新の改革となったので、良種の血液を残さずしまったのは惜しい事である。

(中略)

慶応年間に阿部閣老が拝領した馬というのは当時幕府が本邦産種(*2)を仏国政府に遣ったその謝儀として那破烈翁三世陛下が帝国内厩の良駿26疋を選み、飼司カズヌーフつきそいで幕府に致したものであった。仏帝の意は良種に報ゆるに良種をもってするというのであったが、当時幕府その意を汲まずことごとく姻族重臣等に乗馬として配布してしまったのである。

*1:「豊後守」の誤り。

*2:「蚕種」の誤りであろう。


【資料2】福島県産馬沿革誌

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/901145/1/68

中古本県下に洋種馬の入りたる濫觴を記載すれば慶応年間阿部美濃守*閣老の際将軍家より拝領せる亜剌伯種にしてこれを雲龍号と称し、専ら乗用に供せしといえども間もなく維新の革命となり領主もまたその封を捨て居を転するの時機に逢遭し、惜しきかな純良なる亜剌伯種の血液を領土に残すは能わざしりなり。

*「豊後守」の誤り。


【資料3】日本馬政史 第5巻

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1225487/1/128

戊辰の役棚倉藩主阿部豊後守が仙台に退去の際かねてより拝領せしアラビア種(芦毛牡馬)を携え来たりこれを伊達家に寄贈した。そこで伊達家においてはこれを藩士岩淵某に飼養せしめ種馬に供用したのであるが、当時生産者はおおむねこれを厭うて自己の牝馬に種付を希望するものなく、わずかに栗原郡文字村において牝牡2頭の雑種仔馬を得たのみであった。そのうち牝は2歳にて斃れ、牡は7歳の時に勧農局に買い上げられこの血統は間もなく断絶したという。


【資料4】仙台産馬沿革誌

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/901076/1/23

棚倉の城主阿部豊後守御老中なりしか徳川家より洋種2頭を拝領し戊辰の役仙台に来たり。壱岐綾之允(*1)これを飼養しこの事官軍の探知する所となり、鹿毛一頭は召し上げとなり芦毛一頭は邦内の種用に充てんとするも当時躯体の大なるに恐れて敢えて望む者は無し。

明治2年3月偶々千葉胤昌この事を聞き居り村文字に牽き入れ種用に供し土産の牝馬に配交せしむるに牝牡2頭を産し牝馬は2歳にして斃死。牝馬*2は7歳にして勧農局の買い上げとなり一父洋種の年齢歯相上30歳前後にして明治3年斃死す。これ洋種の濫觴なりとす。

その後明治6年洋種馬*3をして栗原郡文字村玉造郡大口名生定地方にて土産の牝馬に交尾せしむるや人民大にこれを忌諱し長大の牡馬をして矮小の牝馬に交尾せしめは必ず牝馬の斃死することを免れざるの恐れを懐き交尾せしむる事を旨せす。ようやく35の篤志に懇諭し交尾して仔馬を挙げしも敢えて斃死等の事なし。但し仔馬の駿逸なるものなかりしはけだし飼養法の不十分に基因するものとす。

*1:「允」=「丞」。「壱岐綾之丞」とも書かれる。

*2:「牡馬」の誤りだろう。

*3:「勧農」の事だろう。


【資料5】栗原郡誌

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/953187/1/121

明治2年仙台藩において洋種牡馬1頭を下附し繁殖用としてこれを本郡文字村千葉某に飼養せしめ、該馬より雑種2頭を得たり。これ仙台産馬に洋種の繁殖を見たるの嚆矢とす。明治6年宮内省に買い上げられたる桜黛号は即ちその雑種馬の一なりという。しかも該洋種牡馬はナポレオン三世の旧幕府に贈りたるものにして当時アラビヤ馬と称したるものならんとの説あり。


【資料6】畜産諮詢会紀事

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/841936/1/21

顧みれば我が県に洋種馬を繁殖せしは去る戊辰の役において棚倉藩主より洋種馬を我が旧仙台藩主伊達家に寄贈せられたるを以て藩主よりこれを種馬として下付すべきを令せしに、当時人民こぞってその異種を厭忌し敢えて下付を乞う者無し。ここにおいて本員(注:千葉胤昌)自ら進んでその下付を請いこれを交尾せしめて牡2頭、牝3頭を産せしは実に明治2年にあり。そしてそのうち牡1頭は岩手県胆沢郡水澤に斃れ1頭は宮内省に御買上の栄を蒙りたり。その後種馬斃死したるをもって明治5年の頃なりか故岩倉右府公に上請して更に洋種馬を下付せられたりき。