チチアラビヤ

明治3年に盛岡へ、明治4年に宮城へ送られたと思われる馬。

馬名:チチアラビヤ

性別:牡

父:不明

母:不明

毛色:鹿

生年:不明

死年:不明

産地:アルジェリア(フランス国植民地)

■解説

・慶応3年(明治0年相当)にナポレオン三世より徳川幕府へ寄贈された26頭の馬のうちの一頭とされる。

・一度陸羽地方(青森県)に送られて、その後四竈信直に預け替えされて宮城県へ送られた。その際牡馬2頭を回収したものの1頭は死亡した。この生き残った1頭こそがチチアラビアであろう。と私は推測する。

・最初に陸羽地方に2頭送られた件に関する資料がほとんど無く、ここの動きの詳細は明らかになっていない。

・【資料5】はチチアラビヤの産駒「勧農」に関する事が書いてあるのだが、「台帳はすこぶる不完全」とあり確かにその解釈は難しい。

・少なくとも「産地がアラビア」って事はないだろう。当該勧農がチチアラビアの産駒だというならば青森県産まれで雑種なのではないかと思う。

・「アラビア青(水澤青)」という洋種(牝)が同地にいたようだ。【資料6】【資料7】

・明治4年という時期に洋種の牡牝を揃えた四竈氏の力は相当なものだと思う。

■遍歴 (  K=慶応    M=明治  )

・1867(K3)頃:アルジェリアからフランスへ移送される。

・1867(K3)3月:フランスを出発し、日本へ移送される。

・1867(K3)4月:日本に到着、太田陣屋(横浜市日の出町)に繋養される。

・1867(K3)6月:大手門にて贈呈式が行われ、徳川幕府へ正式に引き渡しが行われた。

・1868(K4)1月:神田の騎兵屯所に移送、その後に下総国中野牧(千葉県松戸市)へ移送された。

・1868(K4)4月:沼津兵学校へ移送された。

・1869(M2):徳川幕臣の誰かへ配布された。

-----以上の資料については「ナポレオン三世の馬」を参照のこと-----

年代不明明治政府がどこからか回収した。

1870(M3):陸羽地方(盛岡県)に送られた。【資料2】【資料3】

・1871(M4):四竈信直が回収し、宮城県に送られた。【資料1】【資料4】

・その後は不詳

■資料

【資料】日本馬政史 第5巻

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1225487/1/128

明治4年勧農寮より「アラビヤ」種牡馬俗に「チヽアラビヤ」と称する種牡馬(鹿毛5尺2寸)清国産飛鳥号(牡芦毛4尺6寸)他に南部産牡1頭を借り受け民間に貸与して繁殖に供した。これが玉造郡産馬改良の開祖であったと言われている。

右のほか明治8年より11年までの間に勧農局および軍馬局より下付または貸し渡しを受け種馬に供したるアラビヤ種及び英国産、米国産等の種馬が9頭ほどあった。また県内に洋種馬を生産したのは明治6年玉造郡鬼首村においてアラビヤ種勧農号と同種青毛牝馬の配合により星青毛牝馬を産出したのが始めである。この牝馬はその後金10円にて水澤県に買い上げられた。


【資料2】農務顛末 第4巻

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/2468750/1/13

辛未(注:明治4年)3月27日 牧畜掛地理大佑由良守應

アラビア父一疋 8歳 栗毛5尺

代金400両

右は横浜在留仏国ハーフルブランデ所持致居候処神奈川県官員にて買請候積り致候由然る処当掛於て父馬3疋有之候内2疋は陸羽地方へ駄掛に差遺し残りの1疋有之分は昨年までは壮健にして駄掛間に合候処今春に至て如何致候哉色情更に不催牝馬の傍らへ牽寄候とも絶念の体に相見へ申候左候迚この侭種馬無之候では数頭の牝馬追々出産の後空しく差置候では御不益に付き書面の父馬至急御買入相成候様致度存候将た色情絶念の種馬は精々売払代金返納に仕候依之至急相伺申候也


【資料3】奥隅馬誌

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/993534/1/20

この地に洋馬の下種ありしは明治3年に勧農寮より林某(*)に命じ2頭牽き来らしめられしが、土民は悦ばざりしなり某は大いに失望せり

*牧畜掛官員林良蔵」の事と思われる。


【資料4】農務顛末 第4巻

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/2468750/1/536

(注:明治5年)正月14日 小柴権中属

兼ねて盛岡県へ御預けの亜刺比亜馬の儀先般四竈権中属へ預け替え相成るべくの旨申し達て置きに候のところ、於同処引き渡し相済み候趣其他云々別紙の通り同人より申出候間この段申し上げ置き候なり

(御届書)

兼ねて盛岡県へ御預けの亜刺比亜牡馬2頭今般四竈権少属へ御預け替え相成り候旨去月20日付御達書過る10日在勤先へ相達不敢取御達之証書持参同県へ掛合右御馬之内鹿毛5尺3寸壱疋過る19日受取相済候芦毛壱疋之儀は10日斃没に相成り候由に付き右の趣は同県より御届けも相済居候事に申聞候間この段共御届仕候以上

明治5年(*)辛12月20日

四竈権少属

徳江小五郎

*明治4年の誤り


【資料宮城県産馬要覧

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1263865/1/71

その種牡馬台帳はすこぶる不完全にして要項の記入区々なる為、その正鵠明瞭なる調査は到底不可能なりしも先輩の手記抄写本等を左に摘記し、もって当時の概況を窺うの資に供す。

馬名:勧農

種類:アラブ

毛色:鹿

生年月:明治5年 12歳

産地:アラビヤ

摘要:明治5年受入約5カ年川渡村にて供用。同村名生定濱田矩介方にて死。本馬はチヽアラビヤと俗称しナポレオン三世の我が皇室に献上馬の仔なりという


【資料牧畜雑誌(224)

https://dl.ndl.go.jp/pid/11209822/1/24

この年(注:明治4年)勧農寮よりアラビヤ種牡馬俗にヂヽ,アラビヤと申す鹿毛5尺2寸位にして左眼眇たる馬一頭、他に清国産飛鳥号という蘆毛牡馬4尺6寸位のもの一頭、他に南部産牡馬一頭都合三頭を借用し来たりこれを民間に貸与して種馬に供したのです。このヂ,アラビヤ号こそ他日我が玉造産馬改良の開祖と仰がれたものでありまする。他にまた同氏(注:四竈信直)はこの年水澤県の馬喰松五郎という者より青毛16~7歳の洋種牝馬を買い上げこれを鬼首村大場某に託して飼養せしめたということです。当時これをアラビヤ青と俗称しておったのですがその体尺の5尺2寸もあったからではありましょうが元来純粋のアラビヤ種には青毛というものは稀であるという点から察すれば事実アラビヤなるや否やは保証する事が出来ませぬけど洋種には相違無かったです。とにかく四竈氏は我が仙台産馬に洋種を注入した本尊であるという事は事実です。

*「チチアラビヤ」ではなく「ヂヂアラビヤ」という記述になっている。


【資料宮城県産馬要覧

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1263865/1/79

アラヒヤ種ナラン 水澤青

明治4年四竈信直氏は水澤町馬喰、松五郎より水澤青と称する洋種牝馬一頭買入れ、鬼首村大場某に飼育せしめたりという。該馬は当時16~7歳の老馬にして体尺5尺2寸という。

*「ナラン」は「~ではない」という意味だろう。