■1.中野牧襲撃さる
4月11日に江戸城が無血開城した。なおも抗戦を続ける幕府軍残党が江戸近郊に集結(2000人程いたといわれる)。各地を襲撃し始め関東の治安が急激に悪化した。
4月13日に残党らが中野牧を襲撃し、馬や西洋馬具を強奪した。松戸市史によるとこの襲撃者は貫義隊器械総督の柏原、荒井、あるいは小川三次と名乗る者であるとの事。
<参考資料>
■松戸市史 中巻 (近世編)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/3036544/1/176
ところが4月11日に江戸城の明け渡しがあり、翌12日から15日にかけては松戸宿から小金町に陸軍奉行大鳥圭介の率いる幕兵約2000人が駐留し、大混乱を呈していた。
この地域一帯で資産家が狙われ、盗難を受けて大被害を被ったのは松戸市史下巻(1)にも述べた通りである。アラビヤ馬を収容する中野牧厩詰用所が、寛儀隊(*)器械総督と自称する柏原、荒井、あるいは小川三次と称する者たちの襲撃に会い、アラビヤ馬及び大量の洋式馬具(松戸市史史料第三集)を強奪されたのも、こうした混乱の最中の4月13日正午ごろの事であった。
それにしても、ナポレオン三世が我が国の馬匹改良の一助として贈ってくれたアラビヤ馬をこのような事で散失してしまったのはかえすがえすも誠に残念な事であった。
※「貫義隊」が正しいと思われる。
■2.被害状況の謎
さて、この襲撃による被害状況が実のところよくわかっていない。
「千葉県の歴史 通史編」を読むと「(襲撃後)4月28日に残ったアラビア馬のうち雄10頭を騎兵所に運んだ」との記載がある。
<参考資料>
■千葉県の歴史 通史編 近世2(インターネット上においては未公開の資料)
五助厩はその後の混乱期に襲撃を受け、一部のアラビア馬や西洋馬具などを奪われるなどの事件も起こった。4月28日、残ったアラビア馬のうち雄10頭が騎兵屯所に引き揚げられた。
うーむ、ちょっと待って欲しい。この時点で牡馬が10頭もいるのだろうか。来日した牡馬は11頭でそのうち3頭は御用馬として献上した。持込馬3頭の仔馬が全て牡馬だったと仮定しても襲撃前は11頭である。
それで10頭現存となれば被害僅少と言っても良い。なので「被害は殆ど無かったのではないか」という説も実は存在する。
ここで個人的意見を述べたい。私も正直あまりアラビア馬の被害は無かったのではないかと考えている。狙うならアラビア馬より和種の馬だろう。彼らは繁殖をしたい訳では無く軍馬が欲しいのだ。だからどんな性格なのか、何を食うのかよくわからないアラビア馬より勝手知ったる和種の馬の方が戦地ではよほど信頼が出来るのでは、と私は考える。
さて、真実はいかばかりか。
■3.駿河府中藩へ
アラビア馬の被害はともかく中野牧への襲撃が行われた事は事実であろう。この襲撃が行われたあと馬はどうなったのか、実は近年までこの顛末ははっきりしていなかった。(なのでここの襲撃で馬は奪われ、残された馬もそのまま徳川幕臣が私物化した事になっている)
これを明らかにしたのは2001年に刊行された「北海道開拓記念館調査報告40号」という書物である。ここに函館大経の談話が載っており当時の馬の行く末が語られているのである。
中野牧が襲撃され、アラビア馬が強奪されるのではと危惧した勝安房守(勝海舟)は小野義三郎(函館大経)に馬を安全な場所に移動させるよう命じた。小野は思案の末、駿河府中藩(静岡県)にある沼津兵学寮に移送した。兵学寮の近くには愛鷹牧もあり、そこで繁殖の活動も行おうという実に理にかなった判断だと言えよう。
<参考資料>
■北海道開拓記念館調査報告40号(インターネット上においては未公開の資料)
上記の記載内容が書かれたサイト(人文パイプぶろぐ):http://jinbunpaipu.blogspot.com/2018/06/
慶応三年に至り幕府ハ下総に御囲牧を設け、此馬を飼育し蕃殖を謀りましたか、翌明治元年ハ先に申上けし戦争にて脱走の徒か右「アラビヤ」馬を持行くやも謀り難しトヲ勝安房か心配シ、私に取りに行けと命せられました。因て私ハ下総へ参り、其馬を率連て来ましたか、何分飼ふ場所に困りました処に、駿河の沼津で飼つて蕃殖を謀り、兼て愛鷹山の野馬を改良するか良からんとて同所へ移しました。此愛鷹山の野馬は以前徳川家で放飼したものて体格も頗る小さくなつて蝦夷馬よりも尚ほ小柄の様に覚てゐます。
また函館大経の談話をよくよく見ると「アラビア馬が奪われるのではと勝安房守が心配した」とあるので襲撃を未然に防いだようにも見える。アラビア馬は襲撃被害を受けていない説はここにもあるようだ。
■4.牧士川上次郎右衛門
また、中野牧から移動する事となった折りに、綿貫率いる牧士一同はここで解散となったようである。幕府も消滅し、禄も期待出来ない以上このような結果となるのは仕方のない事なのであろう。
しかしながら牧士の一人、川上次郎右衛門は沼津まで共に赴き、これらの馬の世話を続けたようである。(自発的ではなく上からの命令があったと思われる)
白井町史には川上が明治元年に書いた身上書があり、そこに宿所は「西ノ城学校」と記載がある。これが現在の沼津市西条町だという。だから彼は沼津にいた。と「沼津市博物館紀要42」に書いてある。後々現れる資料にも川上が登場するあたりこの信憑性は高い。
<参考資料>
■沼津市博物館紀要42(インターネット上においては未公開の資料)
川上家には「慶応四年辰年九月駿州表へ持参之 川上知周」と墨書きされた木箱が残ることから実際に明治元年9月に移住したことがわかる。息子英太郎に冨塚村(千葉県白井市)の留守宅と名主職を任せたのであり、上司だった綿貫政元(夏右衛門)が新政府に仕え朝臣となったのとも別の進路を選んだらしい。
なお明治元年に藩に提出した履歴明細短冊には「宿所西ノ城学校」と記されていることから、沼津での住居は城下の「西ノ城」(後の西条町)にあった兵学校の施設(厩・馬場の付属建物か)だったと推測される。
■白井町史 史料集1
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/9643101/1/245
川上次郎右衛門身上書(状)
宿所西ノ城学校 本国生国共下総
祖父川上次郎右衛門死牧士相勤申候
実父川上右仲死目付牧士相勤申候
小金牧士 川上次郎右衛門 辰四十九才
天保8酉年8月父跡本勤被 仰付慶応3卯年4月亜剌比亜御馬飼養方伝習御用被 仰付当辰正月騎兵屯所において右飼養方相勤同6月騎兵指図役下役並亜剌比亜御馬懸に被仰同7月5日御馬乗差図役下役並と御唱替相成奉勤仕候
こうして沼津に到着し、アラビア馬たちは一時の安住の地を得たのである。
<追補:川上次郎右衛門についての追加資料>
「流山市史」という書類に川上次郎右衛門の息子である川上英太郎(ひでたろう)の由緒書が記載されている。それによれば父川上次郎右衛門は服部常純の指示により慶応4年(明治元年)9月に国表に同行したとの事である。服部常純は(田安家)徳川家達の若年寄にして沼津兵学寮の設立事務を行った者であるらしいので「国表」とは駿河府中藩の事と考えてまず間違いないだろう。
ちなみにこの息子である川上英太郎はのち明治22年に発足した白井村の初代村長に就任する。(なので資料は結構残ってるのである)
<参考書類>
■流山市史 近世資料編 2
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/9644248/1/128
川上氏由緒書
(中略)
慶応3卯年5月亜刺比亜馬飼養方伝習御用被仰付同4辰年騎兵指図役並勤方被仰付並之通御足高御足扶持被下之候旨服部綾雄(*)殿被仰渡之同年9月国表へ御供仕候
明治4年未年4月 川上英太郎
*「服部綾雄」は服部常純の別名
■5.飼育不能と散逸
駿河といえば徳川のお膝元である。正式名称は「駿河府中藩」だが「駿府」と略した方が馴染みがあるだろう。こんな実権の中央であったはずのこの駿府藩も、明治に入れば旧幕府の残り物が集められたような藩となっていた。
そして明治2年、藩の財政は貧窮し遂に馬を飼いきれなくなった。実際に枯渇した訳では無いだろうが「あんな大食い動物に資金を費やすな」という声が大きくなったのだろう。あいつらの飯代は半端ない。
函館大経は東京に赴き明治政府に引渡しを打診するものの拒否されたので最終的に徳川の幕臣に配布し、それぞれ養育してもらう事とした。
<参考資料>
■北海道開拓記念館調査報告40号(インターネット上においては未公開の資料)
上記の記載内容が書かれたサイト(人文パイプぶろぐ):http://jinbunpaipu.blogspot.com/2018/06/
夫れから東京に引連れて行きて政府に伺つた処、政府ではソンナものは不用なりとて受取りません。会以山岡鉄太郎氏か集議院の公議人として在京して居たのて之に相談したる処、山岡も困り果て、一層の事徳川の親戚に分配するか宜しからんとて、水戸、尾張、越前、田安等の諸家へ配付し、又一頭を小松宮に献し残り不良の馬一頭を私が貰ひました。
長きに亘り同じ場所で暮らしてきたこれらの贈答馬は、ここに来てついに離散の憂いと相成るのであった。
■6.明治政府の打診拒否について
以上、散逸までの課程が「北海道開拓記念館調査報告40号」という資料によって明らかとなったのであるが、私はこの記載内容について一点思うところがある。
「明治政府に引き取りを打診したが拒否された」という点がどうもあやしい…、嘘臭い…、ような気がするのである。
洋種馬がどれだけ貴重なものなのかは明治政府側も理解していたと思うし、そういう回答にはならないのではないかなと考えてしまうのである。要するにこれは函館大経らが明治政府に引き渡さず自らの手に納めた行為を正当化するために作り出した方便なのではないだろうか。
「幕府方として一生懸命養育してきたのに明治政府なんぞに渡してたまるか。」あくまで妄想だが、そんな声があったとしてもおかしくない。
第3章:完