章:箱館戦争で命を燃やすアンドレカズヌーヴ

アンドレ・カズヌーヴ

( Andre Cazeneuve )

1817-1874

※写真はWikpediaより

■1.アンドレ=カズヌーヴについて 

この章はフランス人伝習者「アンドレ・カズヌーヴ」ついての話となる。「ブリガッシュ・カズヌフ」とも「シモン・カズヌーヴ」とも記載され、子細不明だがこの3つの名前は全て同一人物のカズヌーヴ氏とされている。

なお、この頃のカズヌーヴについては澤護氏の「箱館戦争に荷担した10人のフランス人」という研究論文(ネット上で閲覧可能です)が非常に詳しく書かれている。というかこの章はほとんどこの資料からの抜粋となっている。

彼について今一度、フランスからアラビア馬がやってきた時期からおさらいしたい。

■2.馬人伍長、日本に来たる 

アンドレ・カズヌーヴはフランス陸軍の軍人で、クリミア戦争での実戦経験もあるベテランの下士官であった。また馬の養育、騎乗にも長けており彼の得意分野であったと言えよう。そのような経緯から馬の輸送に関する任務を命じられ慶応3年3月頃アラビア馬25頭を引き連れてマルセイユを出発した。

そして1ヶ月の船旅を経て慶応3年4月に無事日本の横浜に到着したのである。

<参考資料>

■幕末明治新聞全集第2巻

https://dl.ndl.go.jp/pid/1236944/1/168

(慶応3年3月下旬)

日本大君へ贈物として、仏国より「アラビヤ」馬二十五匹を送り来る。「コーント(官名)」「デインコール(人名)」並びに 仏皇帝の馬人伍長一人別に十二人と共に既に「マルセール(地名)」を発せり。

日本に到着したカズヌーヴは太田陣屋へ馬を搬入し、以後ここを根城として日本人牧士に対し馬の養育方法を伝習した。その仕事を終えた後、彼は何をしていたのだろうか。その後の動きから考えるとどうやら幕府に雇われたフランス軍事顧問団の副団長ジュール・ブリュネの助手的な仕事をしていたようである。というかブリュネの勤務地も同じ太田陣屋だったので、来日当初から手伝いはしていたのかもしれない。以降ブリュネとカズヌーヴは行動を共にする事になる。

この時カズヌーヴは50歳前後、ブリュネは30歳前後であった。

■3.騒擾する徳川幕府 

年が明けた慶応4年1月3日、京都鳥羽伏見の戦いが起き幕府軍は大敗した。敗報を聞いた榎本武揚は徳川慶喜を助けるため、最新鋭の軍艦開陽丸に乗り大阪へ向かった。この時ブリュネら2名も同行したようだ。1月7日に大阪到着。しかし榎本武揚は徳川慶喜には会えなかった。徳川慶喜は行き違いで開陽丸に乗船し同日出港、そのまま江戸に逃げ帰ってしまったのだ。結局榎本らは大阪城に残された物資を積み込み12日大阪を出港、14日品川港に入港した。なんとも情けない徳川慶喜、とこの時ブリュネらは思っただろうか。同時に榎本武揚のその姿勢にも何か感じるものがあったのかもしれない。

慶応4年7月、フランスの軍事顧問団は徳川幕府から顧問契約を破棄する旨の通知を受けた。仕事を終えた彼らには本国より帰国命令が下る。

ところが彼らは帰国を選択しなかったのである。

■4.開陽丸と共に 

8月19日榎本武揚は開陽丸を強奪し北上した。ブリュネら2名は横浜での舞踏会に出席するフリをしてそのまま舞踏会の会場から抜け出して開陽丸に乗り込み合流した。(この話エレガントで好き)

<参考資料>

■或る志士之生涯(注:小説である)

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1904944/1/147

ちょうどその日から3日の後、8月17日、横浜のイタリア公使館では仮装舞踏会が催されていた。

人々はそこで常のように愉快そうにはしゃぎ廻っているブリュネー大尉の姿を見た。彼は一晩中浮かれて踊り狂っていた。しかしこれが居留地の人々が大尉を見た最後であった。大尉のポケットにはこの時すでに本国の陸軍大臣に提出すべき辞表を同封した団長シャノアン少佐に宛てた書幹が用意されていたのであった。

ブリュネーはこの席上からかねて信頼する部下飼育伍長カズヌーヴ以下3名の腹心の下士(*)を率いて脱走し、折から江戸品川沖に碇泊中の榎本釜次郎の指揮する旧幕府艦隊に投じたのである。

中一日おいて8月19日の深更、ひそかに錨鎖を巻いた旗艦「開陽」以下8隻の軍艦は、飽くまで薩長を敵として戦い抜かんとする三千の徳川方戦士を艦腹に満載しつつ、恨み深く江戸の空を望みながら暗夜の湾口を脱して北海に走った。

※「箱館戦争に荷担した10人のフランス人」では2名で脱走だが、この書類では4名で脱走したとの記述になっている。


フランス国の命令を無視し、完全に旧幕府軍と運命を共にする事となる。

悪天候の中、開陽丸は8月27日仙台松島湾に到着した。9月8日元号が「明治」になる。新撰組残党や大鳥圭介らと合流し、戦力増強ののち函館の地を攻め10月25日これを制圧する。ここで蝦夷地の守備隊が結成された。守備隊を4つの連隊に分けたがそのうちの一つである松前守備隊をカズヌーヴが指揮する事となった。

■5.箱館戦争の終結と海外への追放 

年が明けて明治2年3月25日、明治政府軍の艦船が函館に到着し箱館戦争が始まる。4月15日カズヌーヴは政府軍の艦隊砲撃により負傷。5月1日敗色濃厚となったためブリュネと共に戦艦コエトロゴンに乗船し函館を脱出5月4日横浜に到着し拘束された。彼らの戦いは終わった。

かなり重傷だったらしいカズヌーヴは横浜で治療を受け、治癒後の11月16日フランスの植民地サイゴン(現ベトナム・ホーチミン市)へ追放処分となった。ここらへんの処置はフランス側が行ったようで「治外法権」とは何かについてわかりやすい事例であろう。ただ実際のところは「追放」というよりもほとんど「逃がした」と言って良いのかもしれない。

本国の命令を無視し賊軍に与した外国人カズヌーヴ。国外退去処分となった後は二度と日本の地を踏む事は無かった。


…とはならなかった。

謎の力を使ってわずか2年後に「馬の養育に詳しい仏人カズノブ」として見事日本に再上陸を果たすのである。

■6.渇望されし人材 

このような事はあり得るのだろうかと首をかしげそうにもなるが、その実例はカズヌーヴだけにとどまらなかった。

作りたての明治政府は非常に人材が不足しており、とりわけ外国人の指導者を渇望していた。なんとかその人材を確保しようと奔走した明治政府は明治3年にフランス人3名を雇い入れたのであるが、その3名はカズヌーヴと同じくサイゴンへ追放されたフランス人軍人であったのである。彼らももちろん同じく賊軍に党与した罪人なのであるが、なすべき課題が山積の現状の前には最早どうでも良い事であったのだろう。(表立っては言えないだろうが)

明治4年のフランス公使への回答書案に現れた「仏人カズノブ」も同じような経緯でサイゴンから復帰したと見るべきであろう。

<参考資料>

地方議会人 : 議員研修誌 17(6)

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/2764341/1/35

明治3年10月、太政官は兵式を陸軍はフランス、海軍はイギリス式と公式決定したのだった。兵学がフランス式となるとフランス語教師が必要となる。いずれフランス人の顧問団も招かねばならない。

(中略)

旧軍事顧問団のうちビュッフィエ、マルラン、フォルタンの三人がサイゴンにいる事を知り招聘を進めた。三人は返り咲きの顧問団員となり、喜んで日本の土を踏んだ。

■7.馬匹改良の建白書 

カズヌーヴはさらに明治6年に馬匹改良に関する建白書を政府に提出した。結構長いので概要だけ以下に記す。


<参考資料:以下に全文あり>

東京獣医新報(133) https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1515412/1/12

東京獣医新報(134) https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1515413/1/18


日本国に軌範となるべき牧場の取建に付き建白

(1)私カズヌーヴは4~5年前にナポレオン三世の命令により、アルジェリア産の馬26頭を日本に移送した。

(2)その後日本において繁殖の環境を整えようと努力を重ねたが、事変が起きて頓挫した。

(3)贈呈した馬は離散し、無駄に消費した事は誠に遺憾である。

(4)そもそもアラビア馬は馬匹改良に最適であり、ロシアやアメリカでは既に大いなる成功を収めている。

(5)よって日本国でもアラビア馬を用いて馬匹改良に着手すれば必ず良き結果が得られるであろう。

(6)アラビア牡馬が10頭程度いれば和種の牝馬と交配する事で6年で2万5千、年で4万の馬種を得る事が可能である。

(7)牧場の経営にあたっては1年で牧草代1万円、人足費6000円程度の費用がかかる。

(8)種馬は9頭のアラビア馬がいるが、これは今現在確認できる頭数である。

(9)なおも探索を続ければ若干の上乗せが可能であろう。

癸酉(*)三月 仏人カズヌーフ記す

※癸酉=明治6年


以上の見事な建白書が評価され、明治6年4月。政府に正式に雇用される事となる。

注目すべきは「種馬は9頭いる」という記述である。この記述をどう見るか。私は当初この「種馬」は牡牝両方を指しているのではないかと考えていた。その理由は2点

①アラビア牝馬はこの時点で少なくとも3頭は発見されていたのに言及が無いのはおかしい」という点と②ナポレオン三世から贈呈された牡馬は11頭であるのに9頭も発見出来たのか?」という点であった。だから「種馬」は牡牝含めた数字なのだろうと。そう考えていた。

しかし建白書の趣旨は「牡のアラビア馬と牝の和種を配合させましょう」という訴えであるのでこの意見においてはアラビア牝馬の存在は不必要であり、記述が無いのも特に不自然は無いとも考えられる。また明治に入ってから既に何頭かアラビア馬輸入されているのでそれらも含めれば9頭いてもおかしくない。

このように考えるとやはり「種馬9頭」は全て牡馬を指しているのかもしれない。

■8.カズヌーヴ斃死せり 

このような復活劇で明治6年4月に明治政府に採用されたカズヌーヴであったが翌明治7年の11月東北地方への視察出張の際、出張先の磐城国浪江(福島県浪江町)にて病死する。蝦夷共和国設立の夢に破れ、その後日本国を立派な馬産国にせんと命を燃やしたカズヌーヴ。道半ばにしてその命は絶たれてしまった。

彼が亡くなって150年あまり。その後、日本の競馬界は大いに隆盛し今なお人々の注目を集めているところである。きっと空から日本競馬界の行く末を見守っている事だろう。そしてつぶやくのだ。「はよ凱旋門獲れや」と。

章:完