法人学会では、下記の趣旨・経緯で梅原賞を創設しましたが、本学会においても、本賞を継承いたします。ただし、本学会には賛助会員や理事会がありませんので、対象を一般の法人や団体を対象とし、選定方法は複数の法人・団の推薦によるものといたします。
記
本学会では、これまで正会員やものづくりに携わる個人・グループを対象とする公募および推薦による学会賞は制定されていましたが、賛助会員の中心となる法人や団体に向けた学会賞はありませんでした。そこで、法人や団体を対象とする学会賞も必要と考え、本年2月12日の第20回理事会において審議し、創設することにいたしました。その名称としては、TQC(統合的品質管理)やVE(価値工学)における同様の賞が、それぞれデミング賞、マイルズ賞とゆかりある方のお名前を付けているのに倣い、本学会では、ものつくり大学名誉総長 故梅原 猛先生のご遺徳を偲び、梅原賞といたしました。
なお、この賞の表彰対象・選定基準、表彰件数、選定方法は次の通りです。
・名称:日本ものつくり学会 梅原賞 但し、上記の名称に(法人・団体賞)の表記を加えることがある。・表彰対象・選定基準:ものづくりに関する産業の進歩・発展及び起業支援、人材育成に特に著しい貢献が認められる長年の業績を対象とする。原則として本学会賛助会員の法人・団体とするが、これに限るものではない。・表彰件数:年間1件を上限とする。・選定方法:本学会が指定する団体または本学会理事会の推薦による。
ものつくり大学名誉総長 故梅原 猛先生との思い出について、本学会代表理事 中村隆夫からお話しさせていただきます。
梅原先生のお人柄につきましては、今更、お話しするまでもありませんが、本学会の設立にあたり、ものつくり大学の名付け親である先生にお手紙を差し上げたところ、大変に喜ばれ、それからの活動状況をお知らせした時にも温かいご返信をいただきました。
初めて梅原先生にお会いしたのは、ものつくり大学の設立準備委員を務めていたご縁から、開学前年の2000年になります。その後、大学の入学式や卒業式で先生の訓話をお聞かせいただくだけの私が、長時間ご一緒できたのは、2007年、学生募集の先頭に立ちたいと、高校訪問される先生に学部長として同行させていただいたからです。
添付の写真は、埼玉県立進修館高校で撮影した一枚ですが、その行き帰りの車中などでお伺いしたものづくりにたいする熱情溢れるお話が、本学会の現在につながっているのを思うと感無量です。
また、当時、日本の稲作の源流である中国長江文明を研究されていた先生から、縄文のものづくりが弥生の米づくりのもとになっているとのご指摘があり、稲穂の写真がこのホームページのTOP PAGEを飾るきっかけになりました。
なお、梅原先生のものつくり大学にたいするお気持ちは、東京新聞夕刊の「思うままに」(2000年11月)など、多くの記事にありますが、ここでは、国際技能振興財団が大学の設立時に発行した「ものづくり人づくり」という小冊子にある檄文を転載させていただきます。
「この大学は職人といわれるものづくりに携わっている人に、教養と誇りを与える大学である。ものづくりにおいて、とくに建築と機械の二つの技術が大切であるが、前者は縄文の昔から継承された技術であり、後者はその伝統が形を変えて生かされ、近代日本の発展の基礎になった技術である。このような二つの技術を習得し、それを新しい時代の要請に合わせて発展させていくことは大変重要なことである。私はこの大学をものづくりを中心とする真の全体的な人間教育の場にしたいと思っている」。
この文中の「大学」を「本学会」に置き替えれば、そのまま日本ものつくり学会の目標に重なるものと考えております。
梅原 猛先生ありがとうございました。心よりご冥福をお祈り申し上げます
昨年の大晦日、2019年12月31日の早朝6時10分から6時38分まで、NHKで「耳をすませば2019」年という番組がありました。昨年亡くなられた梅原猛先生とドナルド・キーン先生の生涯について、過去の様々な放送に出演された場面を加賀美幸子さんのナレーションでつなげたものですが、両先生による思想の全体像を知ることができるので、ここに転載させていただきます。
この放送は、梅原先生(以下ウ)と表示)の「日本人が哲学するには、西洋と東洋を勉強して、そして一つの体系をつくる。こういうふうに人生、生きるべきだというふうな、そういうことを語るべきだと思うんですけどね」とおっしゃる映像から始まります。
それからナレーション(以下ナ)と表示)で、哲学者・梅原猛さんが今年1月に亡くなりました(享年93歳)。法隆寺建立の謎に迫る「隠された十字架」を始め、学会の常識にとらわれない大胆な仮説を次々に発表、多くの議論を巻き起こしました。
ウ)(4時です上方倶楽部、2004年より)今いろいろな人類の危機があるでしょ。たとえていうと、環境破壊の危機がある。核戦争の危機がある。それから人間の精神がダメになってくる。これが大きいですよね。そういうたくさんの危機がある。その危機を乗り越えるような思想を何とか書きたい。
ナ)日本の歴史や文化、思想を独自の解釈で読み解いた梅原さん。その学問は梅原日本学と呼ばれ、平成11年(1999年)文化勲章を受章しました。
ナ)日本文学の研究で知られるドナルド・キーンさんは今年の2月に亡くなりました(享年96歳)。
ドナルド・キーン先生(以下キ)と表示)は「ともかく日本文学は世界的な価値がある文学ですから。一流の文学は世界で最も強いものです『言葉が残る』ということです」。
ナ)古事記から三島由紀夫まで、幅広く研究し、膨大な日本文学論を展開しました。
キ)私はあくまでも自分の感じたことを正直に伝えたいと思うんです。つまり、今までの学者たちがある作品を絶賛したとしても、私はその人たちの意見を紹介しますけれど、実は私はそうは思わない。いつも自分の意見を入れるんです。どうして私たちはこういう作品を覚えなければならないか、ということをいつも頭に置いて書いているわけです。
ナ)作品の英訳を積極的に行い、日本の文化を広く海外に紹介した功績で平成20年(2008年)文化勲章を受章しました。
ナ)日本を愛し、その行く末を案じた二人の知の巨人、新しい時代を生きる若者たちへのメッセージです。このナレーションの間、タイトル「“知の巨人”からのメッセージ~梅畑猛、ドナルド・キーン~」の画面が流れます。
ナ)梅原猛さんは、大正14年宮城県仙台市生まれ、1歳の時母を亡くし、愛知県で醸造業を営む叔父夫婦に育てられます。
ウ)(女性手帳、1979年より)父方の叔父に預けられたんですよ。周りの人は全部そりゃ貰い子なのを知っているんだけれど、私一人に知らされていない。私のまあ、ものを書いていく姿勢の中になんかこう、この世の中は嘘だと、この世の中は虚偽だという意識があって、それでまあ、自分の書くものだけが真実なんだと、自分の追求している真理の世界、美の世界が実は真実なんだ、という考え方がどこかに心の中にあるような気がしますね。
ナ)太平洋戦争のさ中に旧制第八高等学校に進学。勤労動員先で空襲に会い、多くの学生が命を落とすのを目の当たりにしました。
ウ)(さわやかインタビュー、1996年より)その時は戦争でどうせ死ぬんだ。だから死ぬ前に人生は何かということをまあ、僕なりに突き詰めて死にたいという気持ちが強かったんですよ。
ナ)昭和20年、西田幾多郎の独創的な思想体系に憧れて京都大学に進学。しかし、
ウ)京大の哲学に入ったんですね。やはり日本の哲学の主流派は「西洋の哲学を研究してればいいんだ。自分の哲学を作るのは早い」というような風潮でしたね。私は哲学はあくまで自分の頭で考えなくてはならないというので、自分の先生や友人とも意見が合わずに非常に孤高の道を歩きましたね。
ナ)思索の旅が始まります。笑いの哲学を構想し、上方のお笑いまで研究。
ウ)(近畿の話題、1974年より)大阪は町人の町でね。いかに武士は威張っていても、人前でペコペコ頭を下げながら背後でどっか「何を」という気持ちがある。現実生活でアホになって、一種のコンプレックスを感じる人間が一種の代償行為みたいなもので、アホの笑いを求めていく必要があると思うんですけどね。そういう文化的伝統が笑いを生んでいくんじゃないかと思う。東京のように合理的に答えるということが、かえって知恵のない話だと惚けるところに本当の人生の深い知恵があるんじゃないか、そういう考え方が大阪人にあると思います。
ナ)やがて独自の哲学を打ち立てるためには、日本そのものを深く知る必要があると考えるようになります。
ウ)(100年インタビュー、2013年より)西洋の文明はどっか行き詰っている。それを支配しようとする気持ちはずっとあったんです。哲学を完成するために、どうしてもまず日本のことを勉強しようと思った。日本の研究者に移ったんですよ。
ナ)日本の歴史や文化を完成するため、全国各地を精力的に調査(法隆寺、吉祥天像、アイヌの神祭りの映像が流れています)。固定概念にとらわれることなく、古代日本史や仏教史の新説を次々に発表しました。
ウ)(新緑に語る・日本学事始、東大教授・芳賀徹さん、作家・瀬戸内寂聴さんとの対談、1985年より)日本はどうしてできたのか本当に研究されていない。自然人類学からですね、考古学、それから宗教学、言語学、そういう人がよってたかってですね。やっぱり日本が、どうしてこの国ができたのか、この国の特徴は何だろうか、これもまた、私どもがどうしてもやらなくちゃならない課題ですね。西洋人の知りたがっていることは 能やお茶のような文化を持っている日本人がなぜこんな近代社会をこしらえたのか、そこに何かこう、近代社会ができたのと日本文化が深いところでつながっているに違いない。
ナ)それまで日本文化の底流に流れているのは(三内丸山遺跡の映像が流れます)弥生時代に始まる稲作文化だと考えられてきました。しかし、梅原さんは、縄文時代の狩猟採集文化こそがその基層にあると考えます。
ウ)(日曜インタビュー・森に想う、1991年より)縄文土器というのは世界最古の土器です。縄文時代っていうのは1万2000年(前)から始まる。それからまあ、2000年(前)まで続くんです。だから(縄文時代は)1万年続いているんです。日本に農耕が入ってくるのは比較的遅くてね。わずか2000年の伝統しかないと。だから、私は日本をずっと農耕文化として見てきた(ことは)、これは間違いだと思っていますよ。だから、私は日本文化を楕円、楕円状に考えている。一つには縄文文化、もう一つは弥生文化。この楕円状に考えている。この森の文化と田の文化、そして田の文化は、森の文化を多分に残していると。
ナ)木を植え、花を愛でる。日本の文化もまた自然と一体となって暮らした縄文時代にその源を持つと考えます。
ウ)ずっと日本の文化を考えてみると、植物中心ですね。日本の歌を考えても四季の歌の中心は植物ですわな。それから、恋の歌でもね、女性が花に例えられている。だから、源氏物語なんかでもどっか花と関係がある。藤壺、桐壷だとかね。花札まで、遊技まで季節の植物ですね。西洋のトランプは、あれは宮廷の話ですけどね。マージャンは、あれは全く金の世界ですけどね。そういう日本文化は大体植物文化中心で説明できるんじゃないか。そういう古い縄文時代からの草木(くさき)と動物と一体化するという考え方ですけどね。
ナ)公害や環境破壊など、数々の問題を抱える時代文明。梅原さんは、人間中心主義の西洋哲学では、こうした問題を解決できないと考えるようになります。
ウ)(3.11後を生きる君たちへ、2012年より)やはり、人間中心主義だな。だからデカルト(1596~1650)なんて「我思う、ゆえに我あり」我が世界の中心なんですよ。数学的法則によって、自然の法則を明らかにすることによって、人間を、自然を支配できる。自然支配の論理だと思うんですね。それで科学技術文明をつくって自然支配、人間支配の“意志の文明”をつくった。そういう“意志の文明”の権化が原子力なんてものじゃないかと思いますけどね。私はだからそういう西洋哲学の原理を越える、現代文明を越えるような新しい文明の原理が日本の思想の中に潜在しているんじゃないかと。
ナ)平成23年(2011年3月11日)、東北地方を襲った東日本大震災、梅原さんは政府の(東日本大震災)復興構想会議に特別顧問として参加、哲学者として持論を展開します。
ウ)(会議の場で)梅原でございます。私はこの災害は天災であります。同時に人災という面もあります。けれどもそうじゃなくて私は文明災です(と考えます)。文明が災害を起こした。
ウ)(3.11後を生きる君たちへ、2012年より?)自然を征服していくという考え方ではなく、自然と調和していくと。自然と仲良くしていくと。動植物と仲良くする。そういう文明に変わらないと人類の文明の持続的発展はあり得ないんじゃないか。日本文化の中心は草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)、草や木は全部命があってですね、仏になる。仏性があって仏になる。そういう思想ですね。もう、草木と人間とが共存していく思想ですね。自然の中で生きてきた狩猟社会の人間たちが、やっぱり自然の中、至る所に神様がいる。そういう考え方になるんじゃないかと思いますけれどね。それはやっぱり、木を一本切るとまた必ず接ぎ木をして、そして、木の神様に「どうかまたお願いします」って。循環、これが日本思想の根底にある。それからやっぱりね、共生と循環という考え方が人類の思想にならなくちゃならない。
ナ)人類が滅びないように生かすための哲学が書きたい。梅原さんは最後まで日本と世界の行き末を気にかけていました。
この後、梅原先生の「自然と調和していくと。自然と仲良くしていくと。動植物と仲良くする。そういう文明に変わらないと人類の文明の持続的発展はありえないんじゃないか」とおっしゃる映像が繰り返されます。
ナ)日本文学研究者ドナルド・キーンさん。大正11年、ニューヨーク・ブルックリン生まれ。飛び級を繰り返し、16歳でコロンビア大学に入学します。日本文学との出会いは、18歳の時、書店で偶然見つけた源氏物語の英訳本でした(源氏物語、アーサー・ウェイリー訳)。
キ)(ETV特集・和歌の心に日本文学を解く、1994年より)1940年、昭和15年は非常に暗い年でした。ヨーロッパに戦争がありまして、毎日新聞を見るのが嫌になりました。ところが「源氏物語」という本を発見しまして一種の救いになりました。人間の内面的な生活を書いているからです。なにか人に会った瞬間とか、きれいな景色を見た瞬間「この世の中、現世界はどのように美しいか」とよく分かるんです。こういうような生活も人間にできるものと分かってです。
ナ)ぜひとも原文で読んでみたいとアメリカ海軍日本語学校に進学します。11か月の特訓の後、前線へ。担当したのは日本兵が残した日記の翻訳でした。
キ)(100年インタビュー2012年より)あらゆる日記がありまして最後の最後まで戦う人もいました。あるいは戦争はもう我慢できないという人、あるいは敵は殺さないという人もいました。(渡邊あゆみさんの「やっぱり人間が追い詰められた時の本当の気持ちを書いている?」という質問に)はい。そういう場合は嘘をつきません。できないです。本当に感じることをそのままです。自分の最後はこんなものだったということを家族に伝えたいと思ってたです。そういうような日記を読んで私は感動しました。そして、事実、初めて分かりました。
ナ)恐ろしい軍事国家とばかり思っていた日本の意外な一面。日本への思いはさらに募ります。昭和28年、念願かない、京都大学の大学院に留学。キーンさんは本格的に日本文学の研究を始めました。キーンさんは早速、太郎冠者に扮して武智鉄二さんと「千鳥」を見事に演じ、喝采を浴びました。日本を深く知るため伝統芸能の狂言に挑んだキーンさんです。変わった外国人がいると評判になり、日本の作家たち(川端康成、安部公房、芥川比呂志、三島由紀夫など)と出会うきっかけになりました。客嫌いで有名な谷崎潤一郎もその一人。太平洋戦争のさ中、世間の騒ぎをよそに、代表作「細雪(ささめゆき)」をひたすら書き続けた谷崎。戦前の旧家の穏やかな暮らしぶりを丹念に描いたこの作品について、キーンさんはこんなふうに語っています。
キ)(私が愛する日本人へ2015年より、渡辺謙さんの「日本人は大きな渦がワーと社会の中で巻き起こっていくと、なんていうのかな、ちょっと我を忘れてしまうようなところが僕はあるような気がするんですね」という言葉に)皆そういう感じ。大きな(渦の中の)人たちと一緒にいることを喜ぶでしょう。谷崎先生の目的は「こういう文化のある国だった」とか(そういう)「戦争、戦争」というようなところではなく「日本人には美しい音楽、美しい小説、美しい庭がある」とか感じていた。そして、彼は「あるいはもう、以前のような日本はないかもしれない」(と考えて)それを記録して未来の人が「これが本当の日本だった」と分かるように谷崎先生は(細雪を)書いたと私は思います。
ナ)作家たちと交流を重ねながら、古典から近代文学まで幅広く研究し、精力的に英訳した(松尾芭蕉の奥の細道、太宰治の斜陽、三島由紀夫の宴のあとなど)キーンさん。日本文学の根底に流れているのは「もののあはれ」うつろいゆくもの、はかないものに美を感じる心にあると考えます。
キ)(日本文学とわたし⑤もののあはれ、女性手帳、1976年より)兼好法師は僧侶でしたが、まあしかし、徒然草を読むと、一般的な仏教の本と全然違うんです。つまり、この世の中はどんなに美しいところか、どんなに私たち美しい生活をしなければならないか、というふうに書いてあるんです。まあ、ある人はもう桜が散ったから見るもの何もないというんですが、兼好法師は、とんでもないというんです。散った桜にも美しさがあるんです。そして、まだ蕾である間の桜にも美しさがある。それはもののあはれの一つといえないでしょうか。ヨーロッパの方ではやっぱり、満開が一番大切。例えばバラの絵を描く場合、いつも満開でした。蕾はまあ、多少出ますけれど、散ったバラの絵は見たことないです。
ナ)キーンさんは、いつしか日本文学の世界的な権威と認められるようになり、ノーベル賞選考委員会から度々意見を求められました。昭和43年、推薦した作家の一人、川端康成がノーベル文学賞をします。「極めて長い歴史を持つ日本の小説の伝統が世界の文学と合流したことを意味する」そういって川端康成の受賞を喜びました。
文学のみならず日本文化を海外に紹介する活動にも力を注ぎました。コロンビア大学のドナルド・キーン日本文化センターはその拠点の一つです。
キ)(NHKニュース、おはよう日本1999年より)日本は昔から大変優れた文化がありまして、突然新しい文化が入って、その二つが一緒になって。つまり、日本人は世界にたいしてまったく自由といいましょうか、どんなものでも入っていい、どんなものでも面白い、そういうような態度で世界を見てたです。福沢諭吉とかそういう人たちは、外国の文化を吸収しようと思って、決心してました。しかし、日本文化を外国に紹介しようという意識はまったくなかったです。外国で我らが誤解されていると文句いうことはやさしいです。しかし、外国で誤解されないように正しく日本のことを紹介することは難しいです。しかし、やるべきだと思います。
ナ)平成23年、東日本大震災が日本を襲ったことをキーンさんはニューヨークの自宅で知ります。被災者が整然と並んで食料を受け取る映像に目を奪われました。戦時中に高見順(1907~1965)が書いた「敗戦日記」を思い出したといいます。
キ)(100年インタビュー2012年より)彼は戦時中の一番悪い時に、お母さんを疎開させるつもりで上野駅に行ったです。列車がなかなか出ない。静かに待ってたです。誰かが列でもう少し前の方に行くことはなかったです。そして、彼は、私はこういう国民と一緒に生きたい、こういう国民と一緒に死にたい、と本当に自分の一番深いところから日記に書いたです。(渡邊あゆみさんの「静かに争うでもなく、順番をちゃんと待っている日本人の姿を高見さんは書いてらした?」の質問に)はい。そうでした。それは偉いと。そして、それは最近の東北の災難と深い関係もあります。
ナ)このことをきっかけにキーンさんは、日本国籍を取得する決心をします(平成24年、日本国籍を取得)。
キ)外国人の大部分は、日本を逃げたんです。私は違う。私は日本を信じます、ということを知らせたかったです。
ナ)日本人「鬼怒鳴門(キー、ニ・ド、ナル、ド)」として生きる。そこには日本文学にたいする揺るぎなき信念がありました。
キ)今の「奥の細道」を旅行しましたら、昔のまま残っているものは、大変少なくなってました。特に、東北の地震、津波などで「国破れて山河あり」といいますが、むしろ、逆だと思います。地震があって山だったところがもう山でなくなる。川は別の所を流れる。しかし、言葉が残る。芭蕉の言葉は残ります。それは山よりも川よりも強い。私は「文学は一番残るもの」だと思います。
ナ)日本文学を世界に伝える架け橋になりたい。その思いは終生変わりませんでした。
キ)私の仕事は「日本文学は世界文学である」ということを証明することです。それは私が今までやったことの一番の意味です。日本の小説は、小説として全ての人が読めるはず、理解できる、世界的な価値があると思っています。
ナ)梅原猛さん、人はいかに生きるべきか、人類の未来を見据え、問い続けた93年(1925~2019)の生涯でした。
ウ)ヨーロッパ文明は、科学技術文明をつくって日本人は大変恩恵を受けたんですよ。恩恵を受けたんだけど、やはり、それに対するマイナス面を二つ経験した。それは原爆ですよ。それから今度の福島の原発ですよ。これはね、西洋文明の取り入れに成功して立派な文明(国)をつくった日本が、ものすごく西洋が経験しないような西洋文明のマイナス面を受けている。これはやっぱり、日本の教訓じゃないか、これを越えていかないといけない。
ナ)ドナルド・キーンさん、日本文化の素晴らしさを国の内外に伝え続けた96年(1922~2019)の生涯でした。
キ)「四季も他人も友とすべきだ」。まあ、芭蕉の言葉をもじったですけれども、「四季」は環境問題のことを考えてました。環境問題、今非常に大きいです。特に日本の場合は非常に大きいものです。これから日本はもっともっと大事にしなければならないと思います。「他人」は他の国の人のこと、その二つとも友とすべきだと。四季も他人も外国人も友とすべきだ。
ナ)その行く末を案じながらも日本の未来を信じた二人からのメッセージです。
画面にはタイトル「“知の巨人”からのメッセージ ~梅原猛、ドナルド・キーン~」が流れています。
(放送の聞き取りに誤りなどがありましたら、ご容赦のほどお願いいたします。 中村隆夫記)