日本歯科医師会雑誌 Vol. 74, No. 7 , pp. 2-3 (2021年 10月号)から引用、再掲載
理化学研究所環境資源科学研究センター長 斉藤 和季
人類は、過去1万2千年の間、地質学的に「完新世」と呼ばれる安定した地球環境の中でその繁栄を謳歌してきた。特に、世界人口は18世紀の産業革命を経て、第二次世界大戦後の1950年以降には急激に増加し、現時点で78億人と推定され、早ければ2050年には100億人に達するだろうと考えられている。このように地球の歴史上かつてなかった人口増加と、それに伴う大きな人間活動による全地球的な環境に与える影響を考えると、現代は「人新世」という新たな地質時代に入ったと言われている。
人新世は、石油や石炭など化石資源の燃焼による温室効果ガスの蓄積とそれに起因する温暖化、温暖化や耕作地の拡大による生物多様性の減少、化学肥料使用や核実験による化学物質の流出や堆積など、すべて人間活動に由来する特徴を有する。人口が急激に増加する前には、地球には人間活動による環境影響を吸収して元に戻す復元力の余裕があった。しかし、人新世の時代では、人間活動が大きくなりすぎて、ある限界点を超えてしまった後にはもとには戻れない不可逆的で急激な環境変化の危険性があり、これは「プラネタリー・バウンダリー(地球の限界)」と呼ばれている。そこでは、9項目の環境変化についての評価が試みられている。その中ですでに安全な領域を超えて、後戻りできない高リスク項目として、生物多様性の喪失、窒素およびリンの生物環境への化学的漏出などが挙げられている。また、リスクが増大している危険項目として、気候変動や土地利用の変化などが指摘されている。
このようなプラネタリー・バウンダリーの考え方に基づいて、2015年に国際連合が「持続的な開発のための2030年アジェンダ(Sustainable Development Goals : SDGs、持続可能な開発目標)」を設定した。これは、人類が共存できる社会を作るため、未来の地球と人類のために持続可能な開発を行う上での17個の具体的な目標を定めたものである。この2030年アジェンダ(SDGs)の前には、民間シンクタンクの「ローマクラブ」による1972年のレポート「成長の限界」や、2000年に設定されたミレニアム開発目標(MGDs)もあったが、SDGsでは環境的側面が大きく強調された。現在では、日本をはじめ世界各国や地域など広く国際社会が賛同し、政府機関に止まらず官民団体や民間会社も、SDGsに貢献することを組織の社会的責任として掲げている。むしろ最近はSDGsが一般化しすぎて、実態が伴っていないのに取り組んでいるように見せかけている「SDGsウォッシュ」や、SDGsは辛い現実から目を背けさせる社会的なアヘンであるとの皮肉な議論もある。
このようにSDGsがあまりに一般化したために注意を要する一面はあるにしても、この実現に向けては植物科学が貢献できる項目が多くある。具体的には17項目のうち、②飢餓をゼロに、③すべての人に健康と福祉を、⑦エネルギーをみんなにそしてクリーンに、⑬気候変動に具体的な対策を、⑮陸の豊かさも守ろう、の少なくとも5項目に貢献できるだろう。つまり、地球上の植物の遺伝的多様性を大切にしながら、そのゲノムに秘められた能力を解明して、それを最大限に引き出し、食料増産や医薬品の生産、二酸化炭素排出のネットゼロに繋がるバイオマスエネルギー生産、二酸化炭素の吸収と資源化、気候変動による劣悪な環境に対する耐性作物、環境負荷の少ない低肥料で成育可能な作物、などを実現することが植物科学からのSDGsへの大きな貢献になる。
植物は、太陽エネルギーを使って、空気中の二酸化炭素と土壌からの水や無機成分だけから、地球を汚さずむしろ浄化しながら、私たちの生活を支える食料や医薬品、エネルギーの元になる物質を作り出すいわば「精密化学工場」である。この「精密化学工場」の機能を向上させるためには、まず根源的なゲノムレベルから植物を理解することが重要な課題である。さらに、今後はゲノム編集や合成生物学、人工知能などの最先端科学によって、現生の植物が本来的に持っている能力を最大限引き出し、さらにそれを超える機能を付与して、目的に合わせて最適化することが期待される。長い歴史の審判に耐えて進化して来た植物を始めとして、地球上の多様な生命体の知恵を借りて、それを地球と人類のために役立てることが今後必要となる。
特に、様々な形質の突然変異体を人工的に交雑して、期待する形質を有する新たな品種を作出する従来育種が広く受け入れられ、その恩恵を享受している事を考えると、ゲノム編集という狙った突然変異だけを正確に引き起こすことができる新しい育種法には大きな期待が寄せられる。この新しい育種法では、遺伝子組換えのように外来遺伝子は導入されず、必要な箇所にだけ突然変異を引き起こすので、得られた品種は従来育種で得られた品種と結果的に区別できない。むしろ、基本的には狙った箇所以外には変異は起きないので、ゲノム上の多くの箇所に望まない変異が生じうる従来育種よりも安全で優れた育種法と言える。従来育種が遠くからダーツの矢をたくさん投げてダーツボードを傷つけながら的を射る状況に比べ、ゲノム編集はダーツボードまで歩いて行って正確に的の中心だけを射るというように例えることができる。昨年のノーベル化学賞はこのゲノム編集技術を開発した二人の女性研究者に授与され、今年になり日本でもこの技術によって、ストレス緩和効果や血圧上昇抑制効果が期待されるγ-アミノ酪酸(GABA)を高蓄積するトマトが実用化された。
筆者が属する理研の環境資源科学研究センターでは、植物科学、ケミカルバイオロジー、触媒化学、バイオマス工学などの異分野の研究を融合して「環境資源科学」という新しい分野を確立しながら、SDGsのうち7項目(前述の植物が貢献できる5項目に加え、⑫つくる責任つかう責任、⑭海の豊かさを守ろう)の実現に貢献するべく先端的な研究開発を行っている。すでに実質的な貢献に繋がるいくつかの研究成果が挙がりつつある。また、このSDGsへの貢献に向けた若手研究者育成支援などにために、一般市民や企業も含め広く寄附金を募っている< http://www.csrs.riken.jp/jp/kifukin/index.html>。この慈善的な寄附金事業に皆様からの温かいご支援・ご協力をお願い申し上げたい。
これまで述べたように、植物は「宇宙船地球号」に同乗している人類の生存を支え、未来の「宇宙船地球号」の浮沈をも決定する。私たちは、この植物のことをもっと良く理解し、上手に利用しながら、植物と人間の関係も新しい段階に進まなければならない。
これまで6回にわたってお付き合い頂いた私の連載も今回が最終回である。この約半年間、植物と人間について私の個人的な思いを記した文章を最後までお読み頂いた読者の皆様に深くお礼申し上げる。