40. 日本歯科医師会雑誌21年9月号

連載「人間と科学」

植物と薬と人間(5

苦い豆と甘い豆の話

日本歯科医師会雑誌 Vol. 74, No. 6 , pp. 2-3 (2021年 9月号)から引用、再掲載

理化学研究所環境資源科学研究センター長 斉藤 和季

  私の専門分野は薬学のなかでも植物科学に関係した生薬や薬用植物、植物バイオテクノロジーについての研究である。この生薬学という言葉はPharmakognosie (独)/Pharmacognosy(英)を明治時代に訳した造語であるが、これはもともとギリシア語に由来するPharmaco(薬の)とgnosy(知識学)(gnosis=知識)に由来する。従って、これを直訳すると「薬の知識学」ということになり、実は薬の知識学たる薬学は元来生薬学から発展したものであることがよく分かる。事実、近代薬学の黎明は1804年頃のドイツの薬剤師(「化学者」(ケミスト)と呼ばれている)ゼルチュルナーによるアヘン(ケシ未熟果の乳液乾燥物)からの鎮痛性成分の本体であるモルヒネの単離に端を発する。

 このように薬用植物からの薬理活性本体の単離は、日本においても薬学の黎明と発展の基礎であった。日本で最初の近代薬学者 長井長義は1885年(明治18年)に生薬「麻黄(まおう)」から鎮咳成分であるエフェドリンを単離し、その化学構造も決定して、その後の化学合成を含む医薬化学研究の基礎を築いた。ここまでは教科書などにも書かれているよく知られて事実であるが、実は長井長義はその4年後の1889年(明治22年)に生薬「苦参(くじん)」から主アルカロイド成分であるマトリンを単離した。「苦参」というのはいわば苦い薬用人参という意味であり、たしかに「苦参」はマトリンなどの含有アルカロイドに由来する極めて苦い味を呈する。しかし、このマトリンの化学構造決定は困難を極め、東京帝国大学(現在の東京大学)薬化学教室の初代教授である長井長義から第二代近藤平三郎教授へと引き継がれ、その弟子である津田恭介教授(東京大学応用微生物学研究所)が平面構造を決定し、さらにその弟子である奥田重信東大教授が長井長義の単離から77年後の1966年にその絶対構造を決定してようやく決着がついた。一方、このマトリンを含む生薬「苦参」の基原植物はクララというマメ科植物であるが、ではどのようにクララはマトリンを作るのかという植物生化学研究は、津田教授、奥田教授の弟子である千葉大学の村越勇教授によって進められた。

やや前置きが長くなったが、実は、この奥田教授は私の大学院時代の恩師であり、村越教授も私の千葉大赴任後の恩師および上司であり、さらに私は図らずも村越教授の後任として千葉大の研究室を引き継いだ。私もこの日本の薬学のルーツに遡るテーマであるマトリンなどのアルカロイド生合成について、分子生物学的研究から最近はクララのゲノム解読を進めている。このように、132年前の長井長義の最初の研究以来の日本の薬学における中心テーマの末端に関わり、ゲノム科学的なアプローチで少しでも新しい展開に貢献できたことは、長い歴史の中での諸先達の先生方の苦労にも思いを馳せると大きな喜びを感じる。

実は、写真にあるように、これらのマトリンとクララに関する長い宿題研究遂行を励ますべく遠藤教三画伯により昭和13〜14年(1938~9年)に制作された「クララの花」の日本画は、近藤平三郎教授室をへて津田・奥田教授室へ、さらに千葉大の村越教授、私の教授室をへて、現在は私の後任である山崎真巳教授室に受け継がれている。このように、この絵は80年以上にわたりマトリンとクララ研究に関わる6代の教授を静かに見守って日々励ましているのである。

 このようにマメ科植物に由来する苦い根の生薬の代表である「苦参」に対して、同じくマメ科植物に由来しながら甘い根の代表的な生薬が「甘草(かんぞう)」である。

 甘い草と書く「甘草」という名前の生薬を聞いたことがある方も多いと思う。甘草はマメ科の薬用植物であるが、文字通りその根を非常に強い甘味を呈する生薬として使われている。漢方薬は、複数の生薬を組み合わせて配合するが、甘草はそのような漢方処方の7割に配合されており最も汎用されている。その強い甘味は、主成分である「グリチルリチン」という砂糖の150倍も甘い低カロリー甘味成分によるものである。

 実は、グリチルリチンのような、一般にサポニンと呼ばれる化学成分には、大量に摂取すると、細胞に障害を与える作用がある。グリチルリチンは甘草の根など土に接する組織の周辺部に多く蓄積しており、そのため土からの外敵である微生物や虫などから身を守る防御的な役割を果たしている、と考えられている。それが人間にはたまたま甘く感じられ、薬としての肝機能改善作用や抗炎症作用を示したと考えられる。

 グリチルリチンは、医薬品だけでなくたくさんの食品にも天然甘味料として含まれており、そのため多くの方が日々少しは口にしているはずである。しかし、この甘草の供給は、ほとんどが中国からの輸入に依存しており、最近の中国国内での需要の高まりや乱獲による砂漠化への危惧によって、輸出制限が始まっている。

 このように、甘草の供給不安が深刻化するなかで、甘草からグリチルリチンを作る遺伝子を探し出し、バイオテクノロジーの力によって、甘草の有効成分を作る研究が行われている。また、数年前には甘草のドラフトゲノム配列を決定することにも成功し、この最も重要な生薬の全貌を明らかにする見通が立ってきた。

薬学を含めて生命科学の分野は、2000年以降大きく進展した。それは、この十数年で、高等生物である植物や人間が持っている全てのDNA情報であるゲノム配列が次々と決定されたからである。クララや甘草のゲノム配列を決定することなど、私が大学院生として研究を始めた1970年代には思いもよらなかった。

生物学はいわば無限の多様性を記述する自然史学(博物学)の時代から、ゲノム科学によって少なくとも有限個(数は万〜10万単位と多いが)の遺伝子やタンパク質に還元して研究できる段階に来たのである。このゲノムには、生命をつかさどる全ての情報が刻まれている。それを知ることによって、植物や人間を含めた生命の営みを、根源的に理解出来る糸口が得られるようになったのである。